母への挨拶
領地へ行く前に、レミントン伯爵家にも向かう。
今は一人で母が住んでいる屋敷だ。
そこでも、フローレンスを馬車に置いたまま、シヴィアだけが挨拶に向かう。
あの騒動以来、母はフローレンスに脅えて、会いたくないと言っているからだ。
優しいルハリは母の世話役として適任だった。
「お嬢様、奥様は元気でいらっしゃいます」
嬉しそうに報告してくれるルハリに、シヴィアは菓子店で購入した甘味の箱を渡す。
「有難うルハリ。お母様だけでなく、皆さんで召し上がって」
「あ、いつもありがとうございます、お嬢様。皆、楽しみにしているんです」
にこにこと無邪気に微笑んで、ルハリは箱を持って台所へと下がって行った。
シヴィアはそのまま、居間に向かう。
小さな庭に面した居間は、母が良くいる場所だ。
この家で過ごしていた時間は最早遠く感じるのに、何故か小さい頃の自分の目に映った風景が浮かぶ。
長椅子に腰かけて刺繍する母と、甘えるフローレンス。
あんな風に甘えたのなら、抱きしめてくれたかしら、と思いながら通り過ぎた日々。
シヴィアには、心を閉ざして学ぶ事だけが生きる術だったあの頃。
だが、その日々があったからこそ、今があるのだと思えば皮肉な事だと思う。
もし満ち足りた日々を送っていたら、カッツェの事を救い出せたかどうか分からない。
きっと心を痛めたとは思うけれど、見て見ぬ振りをしていた可能性もあるのだ。
詮無い事を考えながらも、足は慣れたように居間に運ぶ。
「ああ、シヴィア。領地に向かうと聞きましたわ」
「はい、お母様。暫く王都を空けるので、ご挨拶に参りました」
頷いて、誰かを探すように視線を彷徨わす母を見て、シヴィアは優しく静かに伝える。
「フローレンスなら、馬車で待たせております」
「そう。それなら……ああ、そうそう。教会への寄付をしたの。貴女の言うように刺繍したお洋服はとても喜ばれたわ。子供達も嬉しそうにして……」
少女の様にはにかむ母は、楽しそうに話し出す。
フローレンスが一緒に居ない事を、良かったと言おうとして止めたのは分かったが、安堵した様子に少しの悲しみを覚えた。
気弱な母にとって、自分の心を不安にさせ、脅かすものは悉く敵なのかもしれない。
遠ざける事でしか心を守ることが出来ないのだから、責める事は出来ないけれど、シヴィアの胸には悲しみが残る。
かつて自分は遠ざけられ、今は溺愛されていた筈の妹が遠ざけられているのだ。
身勝手な愛情に、翻弄された自分達の悲しみを、母は知らないかのように微笑む。
けれど、シヴィアは母の心の平安を乱したいとは思えなかった。
「ようございました。今後も材料は用意させますので、どうぞ教会への奉仕をなさってください」
「ええ。刺繍をしていると心も落ち着きますからね」
「では、わたくしはこれで。フローレンスを待たせておりますので」
母は時折訪れるシヴィアに毎回お茶を勧める。
まるで隔たれた時を埋めようとするかのように。
だから申し訳なさを感じつつ、先手を打ったのだ。
「そう、そうね。あの子を待たせているのなら仕方ないものね」
母は残念そうに、そして少し慌てた様に言い繕う。
本当なら相手をしてあげたいが、シヴィアにも時間は限られている。
そうして振り切る自分が冷たい人間の様に思えて、母との時間はいつも居心地の悪さを感じてしまう。
「ええ。また戻りましたらご挨拶に参ります。どうか、健康にはお気をつけて」
「有難う。貴女もね、シヴィア」
求めていた時には与えられなかった微笑みを見て、シヴィアも穏やかな笑みを返す。
けれど心には冷たい風が吹き抜けるようだった。




