91手目 最強の新人戦
「ひ、氷室くんッ!」
私は椅子を引いて立ち上がった。
氷室くんは、こちらを向いてニコリ。
「裏見さん、おはよ」
「おはよ、じゃないわよ。どこ行ってたの?」
「特別ゲストをお連れしに」
氷室くんは、入り口のとびらを全開にした。
私は2度目の喫驚をあげる。
「あ、あなたッ!」
「おはよう、裏見さん」
そこに姿をあらわしたのは――橋のうえで宙返りをした少年だった。
帽子を斜めにかぶり、気取った挨拶をして部屋に入ってきた。
「藤堂さん、どうなってます?」
少年は、西日本陣営に声をかけた。
藤堂さんは眼鏡をなおしつつ、
「ちょうど2−2になったところだ」
と答えた。少年は口笛を吹いた。
「俺と京介で決着をつけないといけないわけだ」
俺と京介――あッ! やっと分かったッ!
「あ、あなたが宗像恭二くん?」
「あれ? 気づいてなかったの?」
少年は大げさに肩をすくめた。
「御堂筋でそこの女に完勝したんだから、普通は分かりそうなもんだけど」
「あのときは手加減してあげたのよッ!」
火村さん、犬歯を剥き出しに吠える。大河内くんが「まあまあ」となだめた。
「すぐに指す? 休憩?」
宗像くんは室内をいちべつして、一番年上そうな索間さんに目をつけた。
「あんたが企画者?」
「は、はい、デイナビの索間です」
「俺は今すぐ指してもいいんだけど」
索間さんも、スケジュール上は連続対局だと答えた。
宗像くんは帽子を脱ぐと、何メートルも先にあるコート掛けにシュートした。
みごとに引っ掛け部分に引っかかった。
「京介、座れよ」
「立ったままでもいいけどね」
氷室くんは冗談を言って、私の代わりに席についた。
宗像くんは山城くんと交代する。盤面を崩して、王様を自陣においた。
「これ、賞金出るの?」
「原稿料は、のちほど……」
「んー、それは一律だから……京介、俺と賭けないか?」
索間さんは、事務所内での賭けは遠慮して欲しいと告げた。
「大丈夫、このビルの下に自販機があっただろ。コケコーラを一本おごれ」
「カロリーゼロ?」
「頭を使ったあとでカロリーゼロはないだろ」
「じゃあノーマルね」
150円程度のやりとりだから、索間さんも口を挟まなかった。
御堂筋でアイスを賭けたときの感覚だ。
でも――なんだか不気味なほどの威圧感があった。
もっと大事なものを賭けているような錯覚に陥る。
「さて、振り駒をしますか」
宗像くんは特にゆずることもなく、すぐに振り駒をした。
「おっと、俺の後手だ」
ふたりは付き合いが長いのか、チェスクロの位置もすばやく調整した。
「えー、それでは、フレッシュ新人戦、最後の対局となります」
索間さんは咳払いをした。緊張が走る。
「準備はよろしいですね? ……対局開始ッ!」
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
ふたりとも一礼して、宗像くんがチェスクロを押した。
氷室くんは、7六歩と角道を開ける。
「今日はこっちの気分だな」
宗像くんは8四歩と突いた。
「僕はこっち」
角換わりだ。
8五歩、7七角、3二金、7八金、3四歩と進む。
序盤だから、おたがいにほとんど考えていない。
「裏見……裏見香子」
ん? 名前を呼ばれた?
ふりむくと、藤堂さんが私のそばに立っていた。びっくりする。
「裏見くん、きみは恭二と知り合いなのか?」
「え……いえ、そういうわけでは……」
「恭二は、きみのことを知っている様子だったが?」
私は、昨晩のできごとを正直に伝えた。
藤堂さんはタメ息をついた。
「そういうことか……連絡がつかないで心配していたんだが、氷室と一緒だったか」
「氷室くんは私と一緒に帰りました。宗像くんがどこへ行ったかは知らないです」
「そうか……迷惑をかけてすまなかった」
なんか、いきなり謝られた。これだけで、問題児なことが伝わってくる。
「宗像くんって、どこの学生ですか?」
「俺と一緒だ」
「えっと……藤堂さんは、どちらの大学で?」
知らんのか、というような感じで見つめ返された。知らんがな。
「申命館だ」
「あ、もしかして、駒込歩美っていう女性がいませんか?」
「なんだ、知り合いか?」
私は高校が同じだと答えた。
「あいつはあいつでいろいろ困ったやつだが……」
あ、やっぱり。歩美先輩、進学先でも問題起こしてるんだ。残当。
「しかし、恭二はほんとうにわけがわからん。いつもヒヤヒヤさせられる」
「おなじ部の部員なんですよね?」
私は念のために尋ねた。
ここまで破天荒だと、部に所属していないフリーの可能性もあったからだ。
「ああ、俺が拾ってきた」
「拾ってきた……? スカウトですか?」
「橋の下で拾った」
……………………
……………………
…………………
………………は?
「あの……O阪風の冗談ですか?」
「ちがう。ほんとうに橋の下で拾ってきた」
意味不明。冗談だとしてもキツすぎる。
私の不信感が顔に出たのか、藤堂さんは説明を始めた。
「2年前、O阪某所の橋の下で、賭け将棋をしている若者がいると噂が立った。はじめは嘘だと思ったが、馴染みの道場で『実際に指して負けた』というアマ強豪が出たから、調査に行ったんだ。それで……」
「それで?」
「ぼこぼこにされた……ん? おどろかんのか?」
「すみません……藤堂さんがどれくらいお強いのか知らないので……」
「こう見えても関西七将だぞ。仕事ができるただのオールバックのお兄さんじゃない」
関西七将? ってことは、土御門先輩や速水先輩クラスってこと? ほんとぉ?
「とにかく、申命館は将棋の推薦枠がある。それを使って入学してもらった。高校に通っていないから、わざわざ高卒認定試験まで受けさせたんだぞ」
えぇ……そこまで入れ込んでるの?
私は宗像くんへ視線をむけた。関西七将が入れ込む実力って、なに?
分からない。それに、局面はけっこう進んでいた。
「3七桂」
氷室くんは桂馬を跳ねた。
私は観戦に集中したかったけど、藤堂さんはしつこかった。
「で、昨日の夜、恭二からなにか言われなかったか?」
「……なにか、というのは?」
「素姓に関することだ」
「素姓? ……それって個人情報じゃありませんか?」
まあ、それはそうなんだが、と藤堂さんは言葉をにごした。
「あいつの個人情報は、部員のだれも知らんのだ。住所も電話番号も分からん」
へぇ、電話番号も不明なんだ。それって氷室くんと一緒――ん?
ちょっと待って。昨日、氷室くんと橋のうえでぶつかったとき、「お待たせ」って言ってた気がする。私と火村さんは待ち合わせていなかったから……宗像くんと? じゃあ、氷室くんはどうやって宗像くんと連絡をとったの? スマホを持ってないなら、パソコンでメールを送るしかない。まさか公衆電話ってことはないだろうし……いや、いずれにしても辻褄が合わない。だって、パソコンを使おうが公衆電話を使おうが、宗像くんのほうに受信機がなければ、連絡はとれないからだ。
「どうした? なにか心当たりがあるのか?」
「あ、いえ……氷室くんも連絡先が分からないな、と思って」
藤堂さんは、そうか、とだけ言って、腕組みをした。
ウソは言っていないから、ごまかしたことを勘繰られなかったらしい。
私は観戦に集中する。
こうなってるわけか……先後同型。
「この同型って、ありなんですか?」
私は思わず、藤堂さんに質問してしまった。
「ありだな。後手から崩すだろうが」
7九玉、6三銀――ほんとだ、後手から崩した。
藤堂さん、なかなか的確な解説。
「この6三銀の意図は?」
「右玉っぽく指す可能性もあるが……6一玉は飛車の横利きを遮断して危ない」
パシリ
氷室くんは6六歩。もうちょっと駒組みが続きそう。
「5二玉」
あ、ほんとに右玉っぽく指すつもり?
氷室くんは笑って、
「フェイクっぽいなぁ」
とつぶやいた。
「フェイクっていうのは見せかけだろ? 5二玉が指されてるのは事実だ」
宗像くん、詭弁なのか詭弁じゃないのか、よく分からない返答。
「普通に指すよ。8八玉」
「4二玉」
6七銀、5四銀、5六歩、4四歩。
あ、これは微妙に右玉っぽくなくなった。争点ができている。
「5九飛」
氷室くんは中央に飛車を展開した。
藤堂さんはこれに感心して、
「機敏だな。5五歩〜4三銀〜5六銀なら、後手は中央で王様をうろうろできない」
とコメントした。
「先手の作戦勝ちですか?」
藤堂さんは、目を閉じて鼻で笑った。
「ふん、恭二の実力からして、それはありえん」
信頼しすぎじゃない? 氷室くんは、関東最強の1年生ですよ?
そう、これは関東と関西の最強同士の新人戦なのだ。
「3一玉」
宗像くんは、右玉っぽい動きをやめて、普通に囲った。
5五歩、4三銀、5六銀、2二玉、2九飛。
だいぶ普通……じゃないわね。先手も後手も、角換わりとしては異例のかたちだ。
「後手は銀矢倉ですけど、3筋を攻められたら弱くないですか?」
私の質問に、藤堂さんもかるくうなずいた。
「3三歩成、同金寄とできないからな。しかし、先手は3筋に駒が足りない」
たしかに、ここから3五歩と速攻できるわけじゃない。
「後手も難しいですね。動かせる駒が少ないですし」
金を少しでも動かすと、角の打ち場所ができてしまう。
かと言って、3一玉〜2二玉を繰り返せるかどうか。
「藤堂さんが後手なら、どうしますか? 待機します?」
「俺なら攻めるな」
え? 後手から攻め口があるの?
ちょっと見当たらない。
「5一飛〜5四歩の反発ですか?」
「待て、考え中だ」
むむむ、藤堂さんが考えてる攻めの順って、いったいなに?




