90手目 詰まなかった局面
「……7七桂」
私は桂馬を跳ねた。マイナスにならないと思ったからだ。
それに、この手で4五銀〜8六飛がいっそう厳しくなった。8五歩と打てない。8五歩には同飛とさらに取って、8四歩と打つための歩がない。同飛、同桂は、さすがに後手が悪いでしょ。次に2一飛とでも打てば一発で銀得になる。
「そうきたか」
山城くんも、まかないのお茶に口をつけた。
長考に沈む。この様子だと、べつの手をメインに考えていたようだ。
時間を使わせられるのはナイス判断。
「2六角」
「!?」
これは……全然読んでなかった。
てっきり5二金かと……攻めるってこと? パッと見、3五歩が狙いなのは分かる。以下、2六飛、同歩となって、次に2七歩成〜3九飛と下ろされたら負けだ。これを回避するには、4五銀と食いちぎるしかない。
となると、2六角は4五銀の強要かしら。まさか、私が3五歩とうっかりしてくれるという読みではないと思う。そういう舐めプの雰囲気は感じない。4五銀、同銀……いや、ちがう。後手は角を手放したから、4五銀、同銀は8六飛、8四歩、7六飛と回って、次に6三角と打たれたときに困るはずだ。角があれば5二角の打ち返しがあるけど、今はない。
山城くんがこれを見落としてるとは思えないから……4五銀、同歩かしら。飛車当たりになってないから、飛車を動かさずに別の手を指す選択肢もある。例えば……んー、そんなにないかしら。やっぱり8六飛はぶつけておきたいかなぁ。
「4五銀」
私は決断して桂馬を取った。
案の定の同歩に8六飛と回る。
「8四歩」
「2三歩」
これで、どう? 2二歩成、同飛、8四飛狙いだ。
8二歩と受けられたらめんどうな気もするけど……そのときは6四飛のスライド?
とりあえず、これを直接的に咎める手はないはず。
「ん……これは止まるような……」
口三味線禁止。
「4四角」
成りを防ぎにきた? 後手は攻めを諦めたっぽい。
私は3二歩で追撃する。
3五銀、3一歩成、2六歩。
っと、これがあったか。4四角は3五銀のスペースを作った手だ。
2二歩成、同飛、8四飛、8二歩のあと、2八歩と受けないといけない。
それはこっちの攻めも止まってしまう。
2二角みたいな打ち込みも残す意味で、3二とと引く?
同飛、8四飛、8二歩……3七歩が必要かな。3六銀〜2七歩成も困る。
「3二と」
私は、と金を捨てた。
同飛、8四飛、8二歩、3七歩と収める。
局面が落ち着いてしまった。ちょっとマズったかも。
それを証明するように、次の7二金の駒音は高かった。
ほんとマズい……手がない。後手に一方的に盛り上がられてしまった。
作戦負けな気がする。
私はお茶を飲んだ。自分を落ち着かせる。
……………………
……………………
…………………
………………すこし押し返しましょう。
このままだと相当な手損になる。
「8六飛」
「4二金」
「5六歩」
私は中央から反発する順を選んだ。
ちらりと相手陣営をみやる。磯前さんが、「えぇ?」みたいな顔をしていた。
分かっとるがな。でも、こうしないと圧殺される。
「無理する必要もない。6二玉」
冷静な一手だ。ここから急に囲い合いになった。
5七銀、5二金、6六歩、4二飛、6五歩。
「過激だなぁ」
山城くんはそう言って、ペットボトルの水を飲んだ。
我ながら、そこそこ反撃になっているのでは。
同歩なら6四桂だし、同銀なら同桂、同歩、7七桂と打ちなおすか、あるいは、そのまま6四桂と攻める。9九角成があるから、先手がいいってわけじゃない。でも、さっきよりは主導権を取りもどせている。
のこり時間は、先手が11分、後手が13分で、半分を過ぎていた。
「先にこっちか。2七歩成」
ぐッ、一番イヤなのがきた。同金は2六銀から進出されてしまう。
「4八金」
6五歩(そっちか!)、6四桂、6三銀、5二桂成、同銀。
受け身になった? 6五同銀、同桂、9九角成、7三桂成は、さすがに7筋を支えきれないと読んだのだろうか。それとも、6五に拠点を作ってヨシと判断した? 次に6六桂があるから、私のほうも受けないといけない。6六桂、同銀、同歩はムリがある。
「6八金」
無難なほうで。
「6四銀」
山城くんも6筋を支えてきた。6五桂〜7三桂成を恐れてるっぽい。
だとすれば、これが効くはずだ。
「5五歩」
同銀なら6五桂、同角なら5六金と打って完全に抑え込む。
山城くんは10分を切るギリギリまで考えて、4六歩と突いた。
……あッ! し、しまった……同歩、5五角、5六金、4六銀があるのか。
飛車筋が通ってしまう……ちょっと待ってよ? 枚数は足りてる?
4六には飛車も利いてるから、そう簡単には突破されないはずだ。
例えば、4六同歩、5五角、5六金、4六銀、同金、同角、同銀、同飛とできない。
山城くんの枚数計算ミス――いや、ちがう。6六桂で止めるつもりだ。4六同歩、5五角、5六金の瞬間、4六銀と出ずに6六桂と打ち込む順がある。これで飛車の横利きが止まるうえに、王手だから無視して5五金もできない。6六同金は4筋の枚数が足らなくなる。
あ、うん、ちょ……また苦しくなった。形勢判断がむずかしい。それに、今の順は角をどこかに打つパターンを考えていない。先手からも後手からも、攻防に利かせることはできるはずだ。とりあえず、私は攻防に打つ順を発見しないといけない。
……………………
……………………
…………………
………………ん? これは攻防に利いてる? ……利いてるッ!
「4六同歩」
私は歩を取った。
5五角、5六金、6六桂、6七玉。
ここで山城くんの手が一度止まった。
盤面がごちゃごちゃしてきたから、確認したのだろう。30秒ほどの小考だった。
「4六銀」
私は黙って4五歩と置く。
「さすがに4六同銀、同角、同金、同飛、5七銀はやらないか……4七歩」
「2四角」
どやッ! 私は意気揚々とチェスクロを押した。
「え、それはさすがに……」
山城くんは、この手自体には気づいていたらしい。
おそらく、王様を縛られている状態で4八歩成を許容するのはありえない、と思って即切りしたのだろう。だけど、4八歩成に5五金とまっすぐ出れば、次の6四金が激痛だから一回は同銀と取らざるをえない。その瞬間に4二角成と根元の飛車を抜けば安泰だ。
「そうか、5五金があるのか」
山城くんは髪の毛をくしゃくしゃにして、片目を閉じた。
「だけど、これで悪いわけがない。4八歩成」
5五金、同銀引、4二角成、4一金、3三馬。
い、いいのか悪いのか、すぐには分からない。
ふたりとも10分を切っている。
私は金がないのに対して、後手は飛車角が1枚もない。
山城くんは考えどころと見たのか、ここでも長考した。
「……4七と」
キツい。飛車角を打つまえに、馬を自陣に利かせないと。
例えば6五桂と跳ねて、同銀なら5五馬でいい。これは後手の切れ筋だ。
問題は、6五桂に無視して5七ととされた場合。
同金は確定として、後手がなにを指してくるか……ん? 意外と手がない?
私はのこり時間が5分を切るまで考えた。後手からすぐに迫る順はない。
「6五桂」
ごちゃごちゃやって、4四歩〜3六角を決める。これが目標。
「5七と」
「同金」
山城くんは、5三歩のうえを滑らせて、5四銀と打った。
えッ……なにこれ……私は呼吸を止めた。
冷静に受け止められると、次の手が難しい。
でも、4四歩のチャンスでは? ……ダメだ。4四歩よりも6五銀〜7六金で飛車を入手するほうが圧倒的に速い。私の陣形はスカスカ。桂馬はもう見捨てて……いや、見捨てるんじゃなくて、成って捨てたほうがいい。5三桂成だ。同銀直や同玉は危ないから、5三銀引くで取ってくれるはず。
「6三歩」
一回小細工をしておく。同玉に5三桂成。
山城くんは黙って5三同銀と引いた。
「5六歩」
これで止まれぇ。止まったら勝ちなのよ。後手は飛車角がないんだから。
パシリ
きっつ! 5五歩は5七桂成、同玉(6六玉は6七金、7六玉、6五金、8五玉に8三歩か8三金で包囲されて終わる)に6五銀と進出する手がある。これを放置は、5六歩、4七玉、4六歩、同玉、3五金、4七玉、4六歩、4八玉、5八金、3九玉、4七歩成と成られて詰めろを解けなくなる。
ピッ
秒読み。三重苦。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ!
私は6六金と取った。同銀、同玉、6四銀。
6四銀はヌルい。私の勘がそう告げた。
「9六角ッ!」
端角ぅ! なりふり構わず攻めるわよッ!
ピッ
山城くんも1分将棋に。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「7四歩」
手筋だ。大駒は近づけて受けよ。
「同角」
山城くんは6二玉と逃げた。私は59秒ぎりぎりまで考えて、5一銀と打つ。
同金、同馬、同玉、5二角成、同玉、4四桂と打てば、後手玉は寄る。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
以下、6一玉は5一飛、6二玉、5二飛成、6三玉、7四金まで。6二玉は4二飛とひとつ離して打って、7一玉、6一金、同玉、4一飛成、6二玉(5一合駒は5二桂成)、5二桂成、6三玉、7四銀まで。6三玉は7四銀、6二玉、4二飛で、銀打ちと飛車打ちの前後が変わるだけ。4三玉は……あれ? 3三〜2四の脱出口がある?
2三歩が邪魔……いや、飛車を横から打てば……打つ場所がない。
……………………
……………………
…………………
………………
詰まないッ!?
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「な、7三玉」
た、助かった……同金と取られてたら終わってた。
と同時に、7三玉は悪手だと直感した。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「5二角成ッ!」
7五銀、同玉、6四金、7六玉、7五歩、6七玉。
広いから大丈夫なはず。
5二金、8四銀、6三玉、6一飛、6二歩。
「8一飛成ッ!」
手応えを感じる。後手は手がない。
7六金は同飛と切って、同歩が王手じゃないから7二龍で勝ちだ。
山城くんも顔色が変わった。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「か、金駒入手ッ! 5一金ッ!」
「それは詰みよッ! 7二龍ッ!」
同玉以下、7三銀打、6三玉、6四銀成、同玉に5五金と打って勝ちだ。
あとは同銀に同馬と引きつけて並べ詰み。
「しまった……先に馬を消す7七金だった……」
山城くんは、がっくりと肩を落とした。
「負けました」
「ありがとうございました」
ふいぃいいいい……勝った。私はひたいの汗をぬぐった。
お茶で喉をうるおす。室内は、しばらくのあいだ沈黙につつまれた。
「5一銀と打たれたとき、同金だった?」
感想戦開始。
「同金、同馬、同玉、5二角成からバラバラにして4四桂かな、と」
【参考図】
「詰むの?」
「詰まない……かな」
この順に入られたら負けだと思っていた。
先手陣は駒の渡し過ぎで、どうにもならなくなっているからだ。
冷静になってみると、先手敗勢だったかも。
私たちはあれこれ調べてみたけど、後手玉に詰みはなかった。
「おつかれさまでした。熱戦でしたねぇ」
索間さんが乱入。感想戦は中断した。
「それでは、インタビューに移りたいと思います。裏見さん、いかがでしたか?」
「そうですね……」
私はいろいろ思い返してみる。高揚感で考えがまとまらない。
「終盤の入り口は、こちらが悪かったと思います。どのあたりで逆転したのか、よく分からないんですが……6一飛と打った場面では、後手に駒がないから比較的安全になったように思いました。指運がありました」
索間さんは、ふむふむとメモをとった。
「ありがとうございました……では、山城くん、おつかれさまでした。ご感想は?」
山城くんは背筋を伸ばして、お行儀よくする。
「最後、5一金で一手ばったりになったのは残念です。7七金と打ってから、5八玉に5七歩くらいまで利かせておけばよかったかな、と思います。終盤で勝ち筋があったと思うので、帰ってからすこし調べてみます」
「なるほど、ちょっと残念な結果でしたね。おつかれさまでした」
索間さんはメモ帳を閉じた。
「えーと、それでは、最終局に移りたいのですが……」
索間さんは室内を見渡す。
「氷室くんも宗像くんも来てませんね……アハハ」
アハハ、じゃないでしょ。
氷室くん、まさか私が負けて終わるから来なくていいと思ってるのでは。
それはあとで〆る。
「幹事のみなさん、選手はどちらに?」
「分からんぞい」
あのさぁ……呆れ返った瞬間、部屋のとびらがひらいた。
場所:デイナビ主催 東西対抗フレッシュ大学将棋 副将戦
先手:裏見 香子
後手:山城 謙吾
戦型:相掛かり
▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩 ▲7八金 △3二金
▲3八銀 △7二銀 ▲3六歩 △8六歩 ▲同 歩 △同 飛
▲7六歩 △8二飛 ▲8七歩 △3四歩 ▲3七銀 △6四歩
▲4六銀 △6三銀 ▲3五歩 △同 歩 ▲同 銀 △8八角成
▲同 銀 △2二銀 ▲5八玉 △5四銀 ▲2四歩 △同 歩
▲同 飛 △3四歩 ▲4六銀 △4四歩 ▲3八金 △2三銀
▲2六飛 △3三桂 ▲7五歩 △2五歩 ▲3六飛 △4五桂
▲7七銀 △4三金 ▲6八銀 △2四銀 ▲7七桂 △2六角
▲4五銀 △同 歩 ▲8六飛 △8四歩 ▲2三歩 △4四角
▲3二歩 △3五銀 ▲3一歩成 △2六歩 ▲3二と △同 飛
▲8四飛 △8二歩 ▲3七歩 △7二金 ▲8六飛 △4二金
▲5六歩 △6二玉 ▲5七銀 △5二金 ▲6六歩 △4二飛
▲6五歩 △2七歩成 ▲4八金 △6五歩 ▲6四桂 △6三銀
▲5二桂成 △同 銀 ▲6八金 △6四銀 ▲5五歩 △4六歩
▲同 歩 △5五角 ▲5六金 △6六桂 ▲6七玉 △4六銀
▲4五歩 △4七歩 ▲2四角 △4八歩成 ▲5五金 △同銀引
▲4二角成 △4一金 ▲3三馬 △4七と ▲6五桂 △5七と
▲同 金 △5四銀 ▲6三歩 △同 玉 ▲5三桂成 △同銀引
▲5六歩 △6五桂 ▲6六金 △同 銀 ▲同 玉 △6四銀
▲9六角 △7四歩 ▲同 角 △6二玉 ▲5一銀 △7三玉
▲5二角成 △7五銀 ▲同 玉 △6四金 ▲7六玉 △7五歩
▲6七玉 △5二金 ▲8四銀 △6三玉 ▲6一飛 △6二歩
▲8一飛成 △5一金 ▲7二龍
まで135手で裏見の勝ち




