87手目 バランス感覚
「おはようございまーす」
早朝の編集部は、てんやわんやだった。
電話対応にあたふたしているスタッフたち。
それを尻目に、私たちは例の応接室へと向かった。
ドアを開けると、西日本陣営が先に待っていた。
「遅かったな」
藤堂さんそう言って、私たちをひとにらみした。
「30秒遅れただけじゃろう。カップラーメンも作れんぞい」
土御門先輩は、扇子で自分の顔をあおいだ。
緊張感が走る。
それを打ち消すように、索間さんはパンと手をたたいた。
「それでは、本日のスケジュールを確認したいと思います。まず、午前中に第3局、昼食休憩を挟んで、午後に第4局と第5局。全体の感想を聞いて解散……ということで、よろしいでしょうか?」
とくに異議は出なかった。
索間さんは、昨日とおなじように、盤駒チェスクロを用意した。
カメラマンさんが写真を2、3枚撮りなおして退室した。
こちらからは大河内くんが、西日本からは磯前さんがまえに出た。
「大河内くん、がんばってね」
私の声援に、大河内くんはちらりとふりかえって、
「善処します」
とだけ答えた。緊張はしてないみたい。それならいい。
「振り駒をお願いします」
おたがいにゆずりあって、磯前さんが振った。
「歩が0枚、あたしの後手」
盤面をもどして、磯前さんはひざのうえに手をおいた。
「準備はよろしいですか?」
索間さんは、ちらりとふたりをみくらべた。ふたりとも首を縦にふった。
「では、対局開始ッ!」
「よろしくお願いします」
磯前さんがチェスクロを押した。
大河内くんは一回メガネをなおした。そして、7六歩と角道を開ける。
3四歩、2六歩、8四歩、2五歩、8五歩、7八金、3二金。
横歩っぽい。
2四歩、同歩、同飛、8六歩、同歩、同飛、3四飛、3三角。
「3六飛」
「横歩になりましたね」
私は土御門先輩に話しかけた。
先輩は扇子で口もとをおおった。
「だいたい予想しておった展開じゃの」
「ふたりの得意戦法ってことですか?」
「昨日、大河内から最新の横歩について質問を受けたのじゃ」
なるほど、事前に用意してきたわけか。
「とはいえ、わしも深くは答えておらん。大河内のほうも、ただの確認じゃった」
ふむふむ、土御門先輩らしい。放任主義。
いっぽう、磯前さんの手も速かった。
8四飛、2六飛、2二銀、8七歩、5二玉、6八玉。
「6八玉型か……」
磯前さんは、はじめて手をとめた。
けど、それも10秒くらいの間だった。7二銀とすぐにあがった。
流行形になっていく。
大河内くんは4八銀とあがってから、7四歩に1六歩と突いた。
「この1六歩は攻めですか?」
私の質問に、土御門先輩はうなずいた。
「2五桂と跳ねる順を狙っておるようじゃ」
えぇ……あんまり見たことのない攻めだ。大丈夫かしら。
7三桂、1七桂――ほんとに攻めるっぽい。
「2三歩」
後手は手堅く受けた。
見抜かれてる感じかしら。それとも、打たせるのが大河内くんの作戦かも。
「5九金」
「6二……いや、こっちのほうが安全か。4二玉」
美濃模様だったにもかかわらず、磯前さんは逆サイドに囲った。
「6九玉」
こっちもめずらしいひとマス引き。
でも、この手は狙いがすぐにみえた。5六歩と突くつもりだ。
6八玉のままだと、8八角成、同銀、3五角の王手飛車になってしまう。
6四歩、9六歩、6五歩、5六歩。
「後手は盛り上がる作戦みたいですね」
「どちらも怖いかたちじゃ。角道も通っておる」
「先手は攻めの糸口がイマイチ……」
「5五歩〜5六飛じゃろう。中央を狙いたい」
なるほど、中央が薄い。
よくみると、後手のかたちもそんなに良くはないわね。2二は壁になってるし、中央はほとんどスカスカだ。
「6三銀」
磯前さんは、中央に駒を集め始めた。
大河内くんは、そのまま5五歩と進める。
5二金、5六飛、2四歩。
ここで大河内くんが反応した。じっと2筋を見つめている。
「なんか雰囲気的に攻めるっぽいですね」
「裏見なら、どうする?」
「パッと2五歩は思い浮かびましたけど……いいかどうかは……」
土御門先輩は、扇子で頬をあおいだ。
「10秒将棋なら、ノータイムで2五歩と行きたい」
「放置で2四歩、同角、2五歩は、拠点を作られちゃいますよね。2五同歩しかなくて、同桂、4四角と逃げたとき、4六歩と角にプレッシャーをかける手があります」
【参考図】
「ふむふむ、これは後手の角が翻弄されておる」
「受けるとしたら、2三銀くらいかな、と」
4五歩に2二角の逃げ道を用意した手だ。
土御門先輩は首を縦にふりつつも、むずかしそうな顔をした。
「それでも4五歩、2二角、5四歩じゃろうなぁ」
「いったんは同歩と取り返しますよね?」
「8八角成は5三歩成、同金、8八銀の瞬間がつらすぎるからのぉ」
5一角があるのよね、その順だと。
5一角、同玉、5三飛成は即死。かと言って5二玉は7三角成だ。
となると、5四歩には同歩と取るしかない。
「5四歩、同歩、2二角成、同金だと、どうですか?」
【参考図】
「この瞬間、先手にも後手にも手がありそうです。特に後手は2八角があります」
「ふむ……わしはそうならんような気がするが……」
なんで? 曖昧に答えるの禁止。
パシリ
おっと、指した。
予想どおりの2五歩だ。
「過激だなぁ」
磯前さんは帽子のつばをうしろに回した。
両腕をテーブルに乗せる。
読んでなかったわけじゃないけど、本命とは思ってなかった反応かな。
1分ほど読んで、けっきょく同歩とした。
同桂、4四角、4六歩、2三銀、4五歩、2二角。
「5四歩」
大河内くんは、力強く歩を突き出した。
「先手が押してる感じですか?」
「どうじゃろうか……伸びすぎな気もするが……」
たしかに、先手はバランス感覚を問われる。
角交換のあと、2八角がある以上は、攻め続けないといけない。
「5四同歩、2二角成、同金に継続手があるとすれば、2四歩とかですか?」
「その心は?」
「同銀なら5七角です」
【参考図】
「2四歩に3四銀とかわされたら、2三角と突っ込んで、同銀、同歩成、同金、2四歩ともういちど叩けます。これを同金なら5七角ですし……」
「3四銀、2三角は2五銀で、桂馬を取るのではないか?」
ん……そうか。根元を取られると続かない。
「すみません、間違えました」
「いやいや、アイデアを出すのは大事じゃ。後手の飛車の位置が悪いのも事実」
そうよね。5七角があるから、先手は攻めに困らない気がしてきた。
もうすこし工夫すれば、なんとかなるんじゃないかしら。
「先輩なら、どう指しますか?」
「わしは2二同金に7七桂と跳ねてみたい」
【参考図】
「桂跳ねですか? ……狙いは?」
「裏見と同じじゃ。そのまま6五桂と捨てて、同桂に6六角と打つ」
あ、そっか。これなら飛車金両取りだ。
「後手はどこかで飛車を引かないといけませんね」
「あるいは、3三歩と打つかじゃな。先手は3筋の歩が伸びておらん。後手から打っても損にはならんじゃろう。むしろ2五の桂馬が目標になってよい」
「3三歩に先手がなにを指すか、ですか」
「そういうことじゃな……ところで、昨晩はどこに行っておったんじゃ?」
女子会だと、私は答えた。っていうか、昨日の時点で告げてあったんだけど。
「しかし、ホテルにもどったときは氷室と一緒だったじゃろ?」
あッ……これはめんどくさいことになった予感。
「帰り道に、たまたま会ったんです」
「帰り道のぉ」
土御門先輩は、扇子で口もとをおおい、意味深なまなざしをこちらに向けた。
私は腰に手をあてて、先輩に詰め寄った。
「言っときますけど、氷室くんの監督は先輩たちの責任……」
「裏見さん、シーッ」
索間さんに怒られた。許すまじ、土御門公人。
私は声を落とす。
「とにかく、氷室くん、今もいないじゃないですか」
「氷室は変わっておるからな……っと、磯前が指すようじゃ」
パシリ
磯前さんは、5四同歩と取った。
大河内くんはかるくうなずいて、2二角成とする。
同金、7七桂(土御門先輩が正解)、3三歩(これも正解)、6六歩。
ほぉ……これが大河内くんの答えですか。
ちょっと、というか、かなり意外な手だ。王様の正面を突いている。
磯前さんの手も止まった。
「ひねり出した手じゃな。磯前も長考するじゃろ」
のこり時間は、先手が20分、後手が21分。
磯前さんは椅子から立って、大きく背伸びをした。すぐに座りなおす。
私は6六歩の意図を、土御門先輩にたずねてみた。
「同歩に6五歩が有力じゃろう。次に8六角と置かれる」
【参考図】
なるほど、これは激痛。
「2八角は間に合いませんから……飛車をイジメる3四銀ですか?」
「……それくらいしかないか」
「あれ? 現局面から即座に3四銀と仮定しても、6五歩と伸ばされて困りません?」
けっきょく8六角と置かれてしまうような。
「いやいや、今度は手順が異なる。3四銀、6五歩、2五銀としておけば、8六角のときに拾ったばかりの桂馬を5三に打てば受かるのじゃ。まあ、これはこれで2五の銀が浮いとるから、磯前がどう判断するかは分からんが」
見た目とうらはらに、細かい局面のようだ。
一手一手の順番が問われている。
「3四銀以外の応手って、ありますか?」
「3四銀は確定だと思うぞい」
「理由は?」
「先手からは、単に6五歩と伸ばすだけでなく、6五桂と跳ねる手もあるのじゃ。このとき、6五同桂、同歩のあと、9五角と打つ順があって困る」
【参考図】
「それで後手が困るのは分かりましたけど、3四銀との関連は?」
「6五桂、同桂、同歩、4五銀と出れば、先攻できる」
ふーむ……となると、磯前さんの手は限定されているようだ。
おそらく、6五歩と伸ばしてくるパターンと、6五桂と跳ねてくるパターンの、両方を読んでいるのだろう。時間を使わせるという意味で、6六歩は有効な手みたい。
「土御門先輩なら、どちらを選びますか?」
「考え中じゃ」
先輩はそう言って、パチリと扇子を鳴らした。
それとほぼ同時に、磯前さんは顔をあげた。
対局中の重苦しい空気をはねのけるように、歯をみせて笑った。
「悩んでもしょうがないや。腹くくるぜ。3四銀」




