59手目 第一の関門
「帝大も書き換えられてた?」
「先輩、声が大きいです」
私が注意すると、風切先輩はあたりを見回した。
ここは、電電理科大学の校舎。
団体戦2日目とあって、気合いの入った学生が集まっていた。
「氷室がそう言ったのか?」
まるで聞き耳を立てられているかのように、風切先輩は極端な小声でたずねた。
「はい」
「つまり、うちと聖ソフィアと帝大の3校で……解決した?」
風切先輩は、慎重に言葉を選んだ。
私も周囲に気をくばりつつ、声を落とす。
「それがですね……氷室くんは、なにもせずに帰りました」
「帰った? じゃあ、帝大は今日で失格……」
私はふたたび、くちびるに指を添えた。
意外な情報が飛び出したせいで、風切先輩も困惑しているようだ。
「帝大のものは、問題がなかったんです」
「問題がなかった?」
私は、帝大のオーダー表が書き換えられていなかったことを、遠回しに伝えた。
風切先輩は大きくタメ息をついて、椅子をうしろにかたむけた。
「意味が分からないぞ。氷室のウソか?」
「私たちが来るまえに処理しておいた、とも考えられるんですけど……ただ……」
「ただ?」
「一連の行動が意味不明で……」
風切先輩は、あきれたように肩をすくめてみせた。
「あいつが意味不明なのは昔からだ」
えぇ……そうなんだ。っていうか、風切先輩と氷室くんって、付き合いが長いの?
氷室くんとの対局が奨励会引退のきっかけだって言ってたから、てっきりワンポイントで接点があるだけかと思っていた。だって、普段からつきあいがあったなら、そんな一回の負けでクヨクヨしないだろうし……んー、謎が深まる。
「で、うちと聖ソフィアは大丈夫なのか?」
「はい……まあ……なんとかしてきました」
あのあと、松平たちと合流して、オーダー表を差し替えておいた。
バレないと思う。明石くんの用意してくれたオーダー表は、パッと見じゃ本物にしか見えなかった。それに、書き換えられていたオーダー表のほうが、むしろ偽物っぽい感じのする代物だった。つまり、幹事はそこまで熱心にチェックしてないってこと。
「で、もとの紙は、どこへやった? 捨てたのか?」
「ちゃんと持って帰りました」
風切先輩は、あとで見せて欲しいと言った。
もちろんだ。筆跡鑑定して、犯人を捕まえないといけない。
「そろそろ2日目の1回戦を始めますので、代表のひとは集まってください」
入り口のほうで、幹事の呼びかけがあった。
三宅先輩が立ち上がる。
「それじゃ、行ってくる」
「私たちも行きましょうか?」
私の提案に対して、三宅先輩は首を横に振った。
「うちは7人並べるしかできないからな。準備だけしといてくれ」
○
。
.
チェストーッ!
【先手:笹川(國文學) 後手:裏見(都ノ)】
隙ありぃ!
【先手:裏見(都ノ) 後手:田村(東ア)】
「ま、負けました」
「ありがとうございました」
快勝――初戦で明石くんに負けてから、4連続白星で盛り返した。
ほかの席も、次々と勝ち星をあげていた。
「どこが悪かったかな?」
「この局面で、一回金を上がって……」
ふぅ、疲れる。全勝条件だから、心理的プレッシャーが結構ある。
私は感想戦もそこそこに切り上げて、席を立った。
「裏見、どうだった?」
外の自販機でお茶を選んでいると、松平に声をかけられた。
「勝ったわよ。松平は?」
「俺もだ。これでまた6−1だな」
松平も150円を放り込んで、コーラのペットボトルを購入した。
すぐに一口飲んだあと、
「聖ソフィアに負けたときはどうなるかと思ったが、なんとかなりそうだな」
と、楽観的なコメントをつぶやいた。
「ふっふっふ、それはどうかしら」
女性の声――私たちは、あたりをさぐった。
すると、自販機のうしろから、カメラを持った春日さんが姿をあらわした。
「あなたたち、大学将棋を甘く見過ぎ」
「ず、ずっとそこにいたんですか?」
「そうよ……ちょっとタンマ」
春日さんは、自販機でミネラルウォーターを買った。キャップを開けながら、
「自販機のうしろって、機械熱で暑いのよ。汗かいちゃった」
と額をぬぐった。あのさぁ……アホの子ですか。
「ふたりとも、Dクラス下位に勝ったくらいで浮かれてるようじゃ、昇級はムリよ」
「Dクラス下位?」
「帝仁、首都農業、國文學、東ア……8位から5位の大学でしょ」
あ、そういうことか。たしかに下位校だ。
「今回の都ノは、対戦表が偏ってるわね。取材のしがいがあるわ」
結局、記者根性ですか。私はあきれて、
「聖ソフィアのほうが記事になるんじゃないですか」
と嫌味を言っておいた。
春日さんは「分かってないわねぇ」といった感じで、
「そっちも取材してるに決まってるじゃない。次の公報のトップは聖ソフィア特集よ」
と答えた。
それはそれで、なんだかなぁ。火村さんのドヤ顔が目に浮かぶようだ。
「だったら、聖ソフィアだけ追っかけてればよくないですか?」
「復帰した都ノと聖ソフィアがダブル昇級……こっちのほうが記事になるわ」
「春日さんは、うちと聖ソフィアが昇級候補だと思ってるんですか?」
「んー、聖ソフィアは決まりだと思うけど、もう1枠はどうかしら」
むむむ、聞き捨てならない台詞。
思ったことが私の顔に出たのか、春日さんは先を続けた。
「聖ソフィアと都ノじゃ、勝ちの勢いが違うわ。都ノには風切くんがいるけど、それ以外の席の安定度は、聖ソフィアのほうが上ね。あそこは7人ちゃんと揃えてる印象」
うちが負けたからそう判断してるだけじゃないの?
まあ、否定のしようがないんだけど……実際負けてるし……。
どう返したものか迷っていると、松平が割り込んできた。
「春日さんは、残りの1枠の候補をどこだと考えてるんですか?」
「んー、企業秘密」
まあまあそう言わずに、と、松平はなだめた。
「そうね……ライバルを教えて煽るのも、記者の役目かしら」
んなわけないでしょ。とはいえ、教えてくれそうなので、突っ込みはひかえておく。
「南陵と房総商科と都ノの三つどもえだと思うわ」
「南陵と房総商科……ようするに、上位2校ですか?」
私の質問に、春日さんはそうだと答えた。
「そんなに戦力がそろってるんですか?」
「純粋に戦力の話をすると、都ノが若干抜けてるんじゃないかしら」
「じゃあ、うちが筆頭候補?」
「というわけじゃないのよねぇ。順位差があるでしょ」
なるほど、そういうことか。最後は順位差で頭ハネになる。
10位の都ノは圧倒的に不利だ。
「私の予想だと、都ノは1敗キープなら昇級、2敗はアウトね」
「つまり、うちが房総商科と南陵の両方に勝たないといけない、と?」
春日さんはうなずいて、カメラの調整を始めた。
「ま、私としても盛り上がったほうがうれしいから、がんばってちょうだい」
春日さんはそう言い残して、会場の校舎へと消えた。
「裏見、俺たちもそろそろもどろう」
「そうね」
私たちは、会場へもどった。三宅先輩たちは、すでに控えテーブルに集まっていた。
「すみません、遅れました」
「いや、開始まで15分ある……松平、裏見、ちょっといいか?」
三宅先輩は、すこし声を落とした。どうやらミーティングタイムらしい。
私たちは壁際に寄って、顔を突き合わせた。
「次の南陵戦だが……かなりの山場だと思う」
やっぱり――私はうなずいて、
「春日さんも、そう言ってました」
と伝えた。
「春日? 東方の春日か?」
「はい、都ノと房総と南陵の争いで、うちが順位の差で不利だと分析してました」
三宅先輩はアゴに手をあてて、しばらく虚空をみつめた。
「そうか……他校も同じことを考えてるんだな」
「でも、戦力はうちがひとつ抜けてるって言ってましたよ」
三宅先輩は、「そこなんだが」と切り出した。
「じつはな……オーダーが微妙に悪い」
「どう悪いんですか?」
「南陵に有利だ。南陵は風切を避けることができて、俺と穂積妹のところがキツい」
「穂積さん、けっこう勝ってくれてませんか? もうちょっと信頼しても……」
三宅先輩は、穂積さんのほうをチラ見して、
「信頼したいのはやまやまだが、相手は元県代表なんだ」
と添えた。
「Dクラスに県代表がいるんですか?」
「うちも大谷がいるだろ」
「そ、そうですけど……南陵は復帰組じゃありませんよね?」
三宅先輩は、南陵の特殊性について語り始めた。
「南陵は医科大なんだ。将棋部の強さよりも職業を優先した学生は、当然いる」
ふむ、納得。
「穂積お兄さんは負けだと思いますし、3敗ペースってことですね」
「そうだ……だから、裏見と松平のところは拾って欲しい」
拾って欲しいと言われましてもですね、はい。団体戦なわけで。
「俺と裏見のところは強いんですか?」
「ふたりとも、ちょうど同じくらいの相手だと思う」
「俺と同じくらいってのは分かりますけど、裏見と同じくらいって県代表レベルですよ」
三宅先輩は、私の相手が元県竜王だと答えた。
「裏見も県代表経験なしの元県竜王だから、ほんとうに同じ棋力だと思う」
私は、どこの県なのかとたずねた。
「S岡だ」
ほぉ、東海地方ですか。
「棋風は居飛車党。資料はすくないが、振り飛車にはしないほうが……いや」
三宅先輩は、そこで言葉を区切った。
「俺がアドバイスしてもしょうがない。裏見に全部任せるぞ」
「分かりました。全力でぶつかります」
「頼んだ」
ミーティングが終わったところで、八千代先輩が教室の入り口にあらわれた。
「3回戦を始めます。スケジュールが押しているので、選手は会場へ集まってください」
八千代先輩は、それだけ言ってすぐに姿を消した。
私たちのほうは見向きもしなかった。意図的に避けてる?
「よし、ここを乗り切ったら、昇級の芽が出てくるぞッ!」
三宅先輩の号令に合わせて、私たちは会場へ移動した。
南陵のメンバーは、すでに集合していた。
オーダー交換もさくっと終わって、私は北里くんという子と当たった。
「こんにちはぁ、北里です」
ちょっと野暮ったそうな男の子だった。
私もあいさつを返す。
「こんにちは、よろしくお願いします」
「おなじ1年生ですし、まったりやりましょう」
お医者さんっぽ……くはないかな。それとも偏見かしら。
着ているものはかなり清潔感があるし、身だしなみもきちんとしていた。
ただ、オーラがゆっくりまったり系。顔もずっとニコニコしている。
「それでは、対局の準備をしてください」
駒を並べて、1番席の振り駒を待つ。
「振り駒をお願いします」
カシャカシャカシャ パラリ
「都ノ、奇数先ッ!」
「南陵、偶数先ッ!」
穂積さん、奇数先を引いた。私は6番席だから後手だ。
「裏見さん、でしたっけ?」
「はい」
「右利きでいいですか?」
私は、チェスクロを右に置いてもらった。
「対局準備のできていないところは、ありますか?」
返事なし。
「それでは、対局を始めてください」
「よろしくお願いしますッ!」
私は一礼して、チェスクロを押した。




