57手目 挑発
「7六歩」
静かに、符合を読む声がひびいた。
そして、小馬鹿にしたようなクスクス笑いも。
「なに、それ? 新手のギャグ?」
火村さんは、口もとに手をあてながらそうたずねた。
一方、氷室くんは顔の筋肉をほころばせず、
「どうしたの? 指さないの? 10秒将棋でいい?」
と尋ね返した。それから、ふと納得がいったかのように、
「ああ、ごめん、勝手に先手を取っちゃったね。僕が後手でいいよ。2手目3四歩」
と付け加えた。そ、そういう問題じゃないと思う。
火村さんも、わざとらしくため息をついた。
「あのね……将棋なんか指してる場合じゃないの。さっさとダイヤルの番号を……」
氷室くんは哀しげな顔をして、くちびるに人差し指をそえた。
「そうか……男子個人戦の優勝者とは、さすがに怖くて指せないよね」
「は?」
「ハンディをあげてもいいよ。角落ちがいいかな? それとも飛車落ち?」
火村さんは指の骨をポキリと鳴らした。私はあわてて止める。
「ちょっと、どうみても挑発でしょ」
「挑発に乗らないなんて、カーミラ一族の名が泣くわ」
なにワケ分からないこと言ってるんですかッ!
中2病が治ってないッ!
「火村さん、ダメ、ここは冷静に話し合って聞き出さないと……」
「大丈夫よ。あたしに任せてちょうだい。5六歩」
氷室くんはクールな雰囲気にもどって、口の端をゆがめた。
「そうこなくっちゃ……予告どおり3四歩だよ」
5八飛、8四歩、7六歩、6二銀、4八玉、4二玉、3八玉。
火村さんのゴキゲン中飛車。
私のときも速水先輩のときも採用していた。どうやら得意戦法みたいね。
ただ、男子個人戦優勝者に通じるの?
……中飛車のほうが格上に入りやすいから、ある意味いいのかしら。
8五歩、7七角、5四歩、6八銀、5三銀、2八玉。
氷室くんはストップをかけた。
「なに、もう降参?」
「秒読みをお願いするね、裏見さん」
ああ、巻き込まれた。憤慨。
「私は火村さんの仲間だけど、いいの?」
「おかしな読み方をされたら、将棋指しは体感で分かる」
むむ、それもそうか。
普段チェスクロで鍛えている。10秒は体で分かる。
「じゃ、計るわね」
「よろしく、7七角成」
え、後手から角交換?
普通は、穴熊警戒で先手から角交換してくるのを待つんじゃないの?
火村さんは、不満そうにくちびるをすぼめた。
「穴熊にするまでもないってわけ?」
「短時間で終わらせないとね」
また挑発してる。火村さん、乗っちゃダメよ。
「あったまキタっ! ぼこぼこにしてあげるッ! 同銀ッ!」
もぉ、落ち着いてくださいな。
一方、氷室くんはうれしそうに笑った。
「そうこなくっちゃ。6四銀」
3八銀、3二玉、5九飛、4二銀。
薄く囲ってきた。5二金右で補強するとは思うけど、大丈夫?
……いや、後手を応援してもしょうがない。ダイヤル番号を聞き出さないと。
「裏見さん、秒読みを」
「あ……7、8、9」
「7八金」
中飛車によくある一手。
氷室くんは4四歩と突いて、6六銀に4三銀と立った。
7七桂、5二金右まで進んで、私の予想どおりになる。
「これは難しいわね……」
「5、6、7、8、9」
「1六歩」
様子見っぽい手。氷室くんはノータイムで1四歩と返した。
序盤から時間攻めとか、カラい。
「5、6、7、8、9」
「8九飛ッ!」
過激に動いた。8五桂、同飛、8六歩の強襲もありえる。
氷室くん、初の秒読みに。
「5、6、7、8、9」
「2二玉」
冷静に王様を入った。
「ガンガン動くわよ。2六歩」
「3二金」
後手は雁木なんだ。これもちょっと意外だ。
火村さんは2七銀と上がって、7四歩に3八金。片銀冠で対抗した。
以下、7三桂、3六歩、3三桂、3七桂。
「5、6、7、8、9」
「4五桂」
「!」
火村さんは、キュッとくちびるを結んだ。
脳内将棋盤を凝視しているのだろう。
「5、6、7、8、9」
「同桂」
同歩、6八金、2四歩、3七桂、3三桂。
んー、これはどうなの?
カタチとしては、後手が稼いだようにみえる。
「5、6、7、8、9」
「9六歩」
火村さんは、指すときに若干首をかしげた。
納得がいかないのは分かる。手渡しに近いからだ。
「9四歩」
氷室くん、ふたたびノータイム。
後手の雁木は案外にスキがない……っていうか、千日手模様?
いくら10秒将棋でも、2局目はできないわよ。警備員が巡回に来ちゃう。
「裏見さん、秒読みを」
「あ、ごめんなさい……もしかして10秒経った?」
「もう10秒あげるよ。僕も秒読みを頼むときに時間を取ったから」
火村さんは要らないと答えた。けど、私は秒読み係の特権で、ムリヤリもらった。
「1、2、3、4、5、6、7、8、9」
「7八金」
「……6二金」
ん? 金の寄り合い? もしや――
「5、6、7、8、9」
「6八金」
「……5、6、7、8、9」
「5二金」
よしよしよし、千日手コースになった。
「5、6、7、8、9」
「7八金」
「……5、6、7、8、9」
「6二金」
火村さんは、空中でこぶしを振り回した。
「もう、めんどくさいわねッ! 手を変えなさいよッ!」
「将棋には指し手の自由がある。違うかい?」
火村さんは肩をいからせた。
ダメダメダメ、千日手にしてちょうだい。千日手、千日手。
「1七香ッ!」
ふわッ!? 交渉決裂ッ!?
「それなら、僕も変えよう。5三銀」
あ、う……なんかいいカタチになった気がする。
「5、6、7、8、9」
「1九飛ッ!」
ち、地下鉄飛車。端が薄いのは事実だけど、成立するの?
「5、6、7、8、9」
「8一飛」
この飛車引きが冷静。1一の香車にヒモをつけている。
「5、6、7、8、9」
火村さんは、覚悟を決めたように、氷室くんを上目遣いで睨んだ。
「1五歩」
全面戦争――1五同歩、同香、同香、同飛、1一香、1四歩。
「2三金」
先手の飛車は死んでいる。けど、ここから1九香、1四香、同飛、同金、同香の瞬間が2枚換え(飛車と金香)。1三歩で香車がまた死ぬけど、同香成、同玉、1九香(入れないのもありそう?)、1四歩、5七角と打って、どうか。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
このかたちにしておけば、2五歩に同歩と取れない。同桂、同桂でまた取れない。
ここまでは、さっきの端のやりとりで読んだ。
「5、6、7、8、9」
「1九香」
1四香、同飛、同金、同香。
氷室くんは、ふーんと間をおいた。
「1三歩以下は、あまり選びたくないかな……1六歩」
端を封鎖? 1七角の打ち込みはみえるけど……実際受けにくい?
火村さんは、ここでかなり悩んだ。
「5、6、7、8、9」
「1九香」
まあ、受けるわよね。問題は、その先。
「4六歩」
「……同歩」
「これで挟撃。4七歩」
「挟めばいいってもんじゃないでしょ。5七銀」
氷室くんは前髪をかきあげて、背の低い火村さんを斜めに見下ろした。
「ほんとに強気だね。将棋指しはそうでなくちゃ……5九飛」
んー……これは……どうなの?
見た目ほど先手がキツいわけじゃないと思う。
5七の銀は6八金で助かるし、4八歩成には同銀とすればいい。ちなみに、同銀のところで同金は、3九角、3八玉(1八玉や2九玉は1七角成で即死)に4八角成と急がないで、1七歩成とすればいい。以下、同香、同角成でも4九金打、2七と、同玉、4八角成でも後手の勝ちだ。
「5、6、7、8、9」
「6八金」
これで止まっているはず。
「平面図形を支えるときは、3点で支えるのが基本だよね。8六歩」
うわ……飛車を成らなかった。まさかの3点攻め。
9九飛成は6九金打から歩を払われて切れるとみたのかしら?
火村さんも意外だったのか、すこし悩んだ。
「5、6、7、8、9」
「1三角」
反撃開始――3二玉、2四角成。
「なかなかやるね。速水先輩との棋譜も見させてもらったけど、しつこい将棋だ」
「それ、褒めてんの?」
「もちろん」
ウソっぽくない感じ。火村さんは、胸もとで両腕を組み、満足顔。
「でしょ?」
「というわけで、こっちもしつこく受けるよ。2一飛」
ほぉ、そんな受けが。2三金、同飛、同馬、同玉が怖いけど、それは先手が駒損し過ぎで勝てない。次に1七角と打ち込まれるくらいで終わる。
「5、6、7、8、9」
「1五馬」
火村さん、冷静なときは冷静なのよね。その冷静さで千日手にして欲しかった。
本譜は1七歩成、同香、4九飛成。氷室くんは、懐深く踏み込んだ。
ここであわてて1二香成は、1九角、1八玉、3八龍、同銀、2八金までの詰み。
「1九歩」
そうそう、しっかり受けた。
「と金を作る時間ができた。8七歩成」
「そんなの間に合わないでしょッ! 1二香成ッ!」
「8一飛」
火村さんは長い犬歯をみせて、ニヤリと笑った。氷室くんを指差す。
「8筋を破ったのはミスよ。8二歩」
うまい。8筋を逆用した。同飛なら後手陣が弱体化する。
横に逃げたら、8筋から飛車を成り込む順が消える。
「……取るしかないようだね。同飛」
「2五桂」
4四銀直、3三桂成、同銀。
「4五桂ッ!」
ん、決まった?




