478手目 待ち
単純に王手。
奥山と俺も、本線で読んでいた順だった。
奥山は、
「俺は、玉引きで受かってると思う」
と持論を繰り返した。
井伊は、どう考えてるんだろうな。
古谷も、確信のある手つきじゃなかった。
実際、3八玉と引いて、2七歩成、同歩、2八歩、同銀、3六桂でも、続かないように思う。後手が悪いわけじゃない。ただ、攻めが続くイメージを持ちづらい。
とはいえ──俺は井伊を、ちらりと見た。
井伊の棋力的に、どうだ?
受け将棋は、実力がないと難しい。
軽いうっかりでも、取り返しがつかなくなるからだ。
井伊は、残り10分のうち、1分使って、3八玉と引いた。
2七歩成、同歩、2八歩、同銀、3六桂。
やっぱりこの流れか。
俺は、
「4四の桂馬を使われていて、気分的にはイヤだな」
とつぶやいた。
奥山は、
「気分的には、ね。左が広いから、先手は捕まらない」
と、意見を変えなかった。
3七銀、4五桂、4六香。
奥山は、
「っと、これは俺が考えてた受けじゃない」
と、軽く悲鳴をあげかけた。
外野は静かに、な。
手の狙いはわかる。馬筋の遮断だ。
でも、馬の利きは、そこまで重要じゃなかったと思う。
古谷の雰囲気が変わった。
1分考えて、3七桂成と攻め込んだ。
同桂、2六歩、3九桂。
ん? これはなんだ?
受けの手にしては、ちょっと違和感がある。
古谷も、この進行は念頭になかったのか、手が止まった。
妙桂だと困る、というのもあったのだろう。
俺と奥山も検討した。
奥山は、
「んー、なるほどな、2七歩成、同桂の瞬間、金当たりってわけだ……が」
といったん区切って、
「後手からの攻めは、あると思う。2七歩成、同桂、4六金と、ムリヤリ食いちぎって、イケる」
と楽観的だった。
俺は、
「たしかに、先手は馬と龍が渋滞してて、すぐには反撃できない。金を渡しても、後手は問題なさそうだ」
と相槌を打った。
だとすると……井伊の失着か?
相当いい手がないと、厳しい気がしてきた。
古谷はさらに1分使って──
パシリ
これは読んでなかった。
古谷はチェスクロを押して、水を飲んだ。
そのあいだ、教室から見える外の風景を眺めていた。
この席は、窓際から2列目だ。ちょっと離れている。
東京のなんとなくせわしない風景は、それでも十分に見えた。
奥山は、あごに手をあてて、しばらく考えた。
「……いい手っぽい」
俺は、
「2六歩、同金、4九玉?」
と訊いた。
「そうだな……しかしこうなると、早逃げに自信がなくなってきた」
「入玉を見せつつ、後手をあせらせるのは?」
俺の提案に対して、奥山は、
「そういう展開だと、後手も入玉できそうだけどなあ」
と返した。
一理ある。
井伊は困ったようで、頭をかいていた。
読んでいなかったのもあるだろうが、読み進めると先手が悪いのもあるだろう。
とはいえ、残り時間も少ないから、そのうち2六歩で緩和した。
同金、4九玉、3七金、5九玉。
早逃げコース。
古谷は30秒読みなおして、持ち駒の桂馬を手にした。
パシリ
これだなあ。
この桂打ち一発で、広範囲に押さえ込んでいるようにみえた。
奥山も、
「組合せの妙だ。3七金で桂馬を拾えたから、この重ね打ちが生じた」
と感心した。
井伊、また手が止まる。
龍の逃げ場所も、惑わしい。
7五龍は、6四馬の手順がある。
ただ、それが悪いかと言われると、これも微妙。
同龍はよくないだろうが、9三の馬の紐があるから、放置でもいい。
井伊のほうは、5分を切った。
時間を調整するタイプだと思うが……あ、指すな。
パシリ
7五龍。
まあそこだよな。
古谷は6四馬。
これは取らずに、井伊は6八玉と上がった。
奥山は、
「井伊の指し手は一貫してる。とはいえ、後手良しだ」
と評価した。
4八桂成、6七金、7五馬、同馬、3九銀不成。
この瞬間、井伊は、おやッ、という表情になった。
やや姿勢が前に傾いた。
右手が持ち駒にいきかける──もしかして、1五角か?
待て、それはちょっとよく考えたほうがいいぞ。
罠くさいというか、先手玉の位置は、今かなり危ない。
井伊も、この点には気づいたっぽく、手を引っ込めた。
奥山は、
「1五角は死んでた。3三歩、3七角のあと、5八飛、7九玉、8七桂で寄る」
とコメントした。
【参考図】
しかし、ここで反撃できないとなると……キツイな。
井伊は、大長考になった。
もちろん、10分も20分も考えられない。
残り時間は、とっくに一桁になってるからだ。
ピッ
1分将棋に。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
7八玉。
8七からすり抜けるつもりだ。
古谷は腰を落とした。
両肘をテーブルについて、じっと盤を睨む。
2分残して、5五桂と打った。
7六金、同銀、同馬、6七金、8七玉、7七金。
先手、敗勢。
入玉も見込めない。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
井伊は8六玉と立った。
この時点で、古谷も1分将棋になっていた。
59秒ずつ考えて、この局面にきてる。
寄せは考え済みだろう。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
7六金。
以下、同玉、7八飛、8六玉、7七飛成、9六玉。
古谷は9五歩と打った。
詰みだ。
井伊は数手前から諦めていたらしく、すぐに投了した。
「負けました」
「ありがとうございました」
井伊は頭をかきながら、
「攻め潰されちゃったね。2六歩のところでは、もうこっちがダメかな?」
と感想戦を始めた。
俺と奥山は、このタイミングで場を離れた。
廊下に出る。
空気が弛緩して、呼吸が楽になった。
奥山は歩きながら、
「そういえば、俺が言った通りになったな」
と口走った。
「……どの局面だ?」
「あ、さっきの将棋の話じゃない」
奥山は、以前、日センが王座戦へ行ったときのヒントの話をした*、と語った。
俺は、すっかり忘れていた。
奥山の口ぶりだと、そのときのヒントはもう実現した、という感じだった。
「つまり……強いメンバーが入るまで待て、ってことだったのか?」
「半分は、な」
「半分? もう半分は?」
奥山は、自販機のまえで止まった。
スマホを取り出しながら、視線だけ俺のほうへ固定した。
「けっきょくさ、ダメなときはダメなんだよ。将棋といっしょだろ」
俺は眉をひそめた。
ただの諦念だと思ったからだ。
奥山は自販機のボタンを押し、スマホで支払いをした。
ガチャンと音がして、奥山は炭酸飲料をとりだした。
「そういう顔するなよ。将棋漫画とスポーツ漫画の違いって、なんだと思う?」
また話が変わって、俺は困惑した。
頭をかいて、
「なんだ、大谷の説法が移ったか」
と皮肉った。
「将棋漫画は、勝つまでのプロセスをごまかせないんだよ。桂馬がヤル気になって二段飛びするとか、飛車がおじけづいて1マスしか進めなくなったとか、そういうことはないだろ。駒が動けない場所へは、アングルをいじっても動けないし、仲間が祈っても、詰まないものは詰まない」
「だけど、天才的ひらめきの一手で勝つ、っていう展開はできる」
「それはAIに読ませれば、予測ができる。ほんとうに天才的ひらめきだったのかどうかも、検証できてしまう。スポーツ漫画の必殺技は、そういう理詰めで発生するもんじゃない。野球のボールは作者の思うように曲がるし、アメフトのラインは作者の思うように下げられる」
なるほどな、と思う反面、内心首をかしげるところもあった。
とりあえず、俺は話を進めた。
「で、なにが言いたい?」
「俺たちは、ロジックをジャンプできないことに慣れてるわけだ。王座戦だって、そうだよ。王座戦に出るためには、それぞれの大会で、決まったプロセスを踏まないといけない。大会中の将棋は、全部理詰めだ。駒はワープしない。持ち駒は増殖しない。だから、待ちってのが大事になる」
「待ちぼうけの可能性もある」
奥山は笑った。
「それはそうだ。機が到来したのかどうかは、やってみないとわからない」
「なんだなんだ、けっきょく後づけ理論かあ」
奥山は、いきなり右手の拳を突き出してきた。
俺は驚いて、奥山の目を見た。
「落ちるなよ。Aにいるだけで、王座戦の予選には出られるんだからな。今度は俺たちが追う番だ」
俺はしばらく黙って、拳を合わせた。
「さっさと上がって来いよ」
*418手目 手を動かす
https://book1.adouzi.eu.org/n0474dq/432
場所:2018年度 春季個人戦1日目 男子2回戦
先手:井伊 直幸
後手:古谷 兎丸
戦型:横歩取り
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩
▲7八金 △3二金 ▲2四歩 △同 歩 ▲同 飛 △8六歩
▲同 歩 △同 飛 ▲3四飛 △4二玉 ▲5八玉 △7二銀
▲3六飛 △8四飛 ▲2六飛 △8八角成 ▲同 銀 △4四角
▲2一飛成 △8八角成 ▲9五角 △8九馬 ▲8四角 △7八馬
▲4八玉 △6七馬 ▲5八金 △1二馬 ▲2五龍 △3四金
▲2六龍 △8二歩 ▲6二歩 △2五歩 ▲5六龍 △7一金
▲7五角 △6四銀 ▲6六角 △7四歩 ▲6一歩成 △同 金
▲6五歩 △7三銀引 ▲7五歩 △4四桂 ▲6七龍 △2六歩
▲7四歩 △同 銀 ▲2八歩 △7三桂 ▲8四桂 △3六歩
▲7二桂成 △同 金 ▲8一飛 △3七歩成 ▲同 玉 △7一歩
▲9一飛成 △3五金 ▲7七龍 △6五銀 ▲9三角成 △4五馬
▲6六歩 △5五馬 ▲3八玉 △2七歩成 ▲同 歩 △2八歩
▲同 銀 △3六桂 ▲3七銀 △4五桂 ▲4六香 △3七桂成
▲同 桂 △2六歩 ▲3九桂 △2八銀 ▲2六歩 △同 金
▲4九玉 △3七金 ▲5九玉 △8五桂打 ▲7五龍 △6四馬
▲6八玉 △4八桂成 ▲6七金 △7五馬 ▲同 馬 △3九銀不成
▲7八玉 △5五桂 ▲7六金 △同 銀 ▲同 馬 △6七金
▲8七玉 △7七金 ▲8六玉 △7六金 ▲同 玉 △7八飛
▲8六玉 △7七飛成 ▲9六玉 △9五歩
まで118手で古谷の勝ち




