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凛として駒娘──裏見香子の大学将棋物語  作者: 稲葉孝太郎
第75章 2018年度春季個人戦1日目(2018年4月15日日曜)
495/496

477手目 仮定の成績

 好きなものといっても、財布には限りがある。

 俺はメックで、ちょっと豪華なハンバーガーを食べていた。

 窓際で、通行人を眺めながらの食事。

 すると、車田くるまだ重信しげのぶ先輩が、トレーを持ってあらわれた。

 先輩は、

「いっしょにいい?」

 と訊いてきた。

「ええ、もちろん」

 ふたりは、俺の右どなりに座った。

 先輩が俺のそばで、その右が車田。

 俺はポテトをつまみながら、

「ふたりとも、俺より先に終わってませんでした?」

 と訊いた。

 重信先輩は、

「ちょっと本屋に寄ってた。車田くんが、本を探してて」

 と答えた。

 当の車田は、

「いやあ、個人戦で初めて勝ちましたよ」

 と上機嫌だった。

 俺は、どういう将棋だったか訊いた。

「普通にバシバシやって勝ちました。あいては、なんかビビってる感じでしたね。こっちがA級校だったのを、気にしてたみたいです」

 そういう効果もあるのか。

 ブランド価値みたいなもんだよな。

 とはいえ、通用するケースは限られるだろう。

 俺たち3人は、適当にだべってから、キャンパスへもどった。

 控え室よりも先に、対局会場を見て回る。

 残ってる選手は……無難なところが多い。

 金星クラスのひっくり返しは、なかったみたいだ。

 まあ、トップ層は、そもそも今日来てないわけだが。

 あらかたチェックし終えたところで、急に声をかけられた。

 聞きなれた声だったから、かえってびっくりしてしまった。

 新巻あらまきだった。

「先輩、おひさしぶりですッ!」

「ふさしぶりだな。こっちの大学だったか」

 新巻は、あいさつするなり、

古谷ふるやと違う大学になっちゃいました」

 と言って、嘆いた。

 どうやら、小中高まではいっしょだったらしい。

 そういうこともあるよな。

「関東と関西ってわけじゃないんだから、ラッキーとしたもんだろ」

 俺の慰めに対して、新巻は、

「でも、他の大学だと、声をかけにくくて……」

 と渋った。

 そうか? 団体戦でもないし、問題ないと思うが。

 たしかに、違う大学へ進学してから、あまり話さないひとはいる。冴島さえじま先輩とか。八千代やちよ先輩だって、そんなに話す仲じゃない。でもこれは、大学が違うから話さなくなった、じゃないんだよな。高校が同じだったから話してたんだよ。このふたつのあいだには、大きな違いがある。

 俺がそのことを説明すると、新巻は、

「だといいんですが……」

 と、なんとも自信なさげだった。

 なんだなんだ、いつもの新巻らしくないな。

 っと、幹事が来た。

「2回戦が始まりますので、選手は集合してください」

 新巻は、

「あ、もう始まりますね。じゃ、またあとで」

 と言って、教室を出て行った。

 新巻は2回戦進出してるのか。

 やれやれと思いながら、俺はコーヒーを買って、ひと息ついてから、会場へ移動した。

 対局は、もう始まっていた。

 どれどれ……お、古谷がいる。

 古谷は、修文院しゅうぶんいん井伊いいと指していた。


【先手:井伊いい直幸なおゆき(修文院) 後手:古谷ふるや兎丸うさまる八ツ橋やつはし)】

挿絵(By みてみん)


 井伊は研究家タイプ。

 B1で当たったとき、しっかり調べてあった。

 古谷は、この情報を仕入れてるだろうか?

 多分だが、横歩は誘導されてると思う。

 5八玉、7二銀、3六飛、8四飛。

 お互いに手が速い。

 2六飛、8八角成、同銀、4四角、2一飛成。


挿絵(By みてみん)


 このかたちか。

 過激に出た。

 厳密には、どっちかが悪いかもしれない。

 プロレベルなら、結論が出ていそうな局面だ。

 このあとも、手は止まらなかった。

 8八角成、9五角、8九馬、8四角、7八馬。


挿絵(By みてみん)


 俺は、余ったコーヒーを飲みながら、早く終りそうだなあ、と思った。

 すると、左肩のほうから、にゅっと顔が出てきた。

 日センの奥山おくやまだった。

「なんだ、おどかすなよ」

「どうした、1回戦負けか?」

「嫌味を言いに来たのか?」

「安心しろ。俺も1回戦負けだ」

 同士だったか。

 奥山は、盤を見て、

「過激だな……観戦にはもってこいだ。後手は新入生? 見たことない顔だ」

 と言った。

「俺の知り合い」

「棋力は?」

 いきなり情報収集か、と思ったが、尤もな好奇心でもあった。

 この盤面からじゃ、定跡の分かっていない級位者が攻め合ってるのか、そうじゃないのかの区別はつかない。

「そうだな……けっこう強いと思う」

「どれくらい? ブロック代表? 県代表?」

「んー……そういう基準だと、ちょっと測りにくい」

「大会に出ないタイプだった?」

 俺は、捨神すてがみって知ってるか、って訊いた。

 奥山は、もちろん、と答えた。

「有名人だからな……あ、そういえば、同じH島か」

「同じ市だ」

 奥山は、ちょっと考えたあと、察したような顔で、

「なるほどね……じゃあ、捨神がいなかったら、どれくらいいけたと思う?」

 と訊いてきた。

 また難しい質問をするなあ。

 俺は腕組みをして、

「たらればになるが……市代表には何回かなってる……かもな」

 と答えた。

 奥山は笑った。

「悪い悪い、いじわるな質問だった。松平が買ってるのはわかった。お手並み拝見といこうか」

 盤面は進行していた。

 あそこから、4八玉、6七馬、5八金、1二馬、2五龍、3四金、2六龍、8二歩。

 一転して小康状態に、となるわけもなく、井伊は6二歩。


挿絵(By みてみん)


 これは取れない。取ったら7四桂だ。

 古谷は30秒ほど考えて、2五歩と打った。

 5六龍、7一金、7五角。

 先手のほうが、やや指しやすいように思うが……互角ともなんともいえない。数手進んだら、どっちらかがばったり、という可能性もある。

 古谷は6四銀と受けた。

 奥山は、

「先手、どうするかね」

 と首をかしげた。

 俺は、

「急ぐ必要はない。8六角と引いとけばいいんじゃないか」

 と提案した。

 奥山が、一理ある、と言ったところで、古谷は6六角。

 そっちか……目標になりそうだ。

 古谷の雰囲気が、わずかに変わった。

 奥山は、気づかなかったかもしれない。

 7四歩、6一歩成、同金、6五歩、7三銀。

 井伊は7五歩と突いた。


挿絵(By みてみん)


 6二歩を謝って、攻め筋を変えた。

 奥山は、

「あんまり厳しくない」

 と評価した。

 俺も、そう思う。

 ここで古谷の長考が入った。

 7筋を見たあと、視線を移す。

 攻めを考えてるな。

 4四の金は、動かせない。2四桂がある。

 かといって、馬も動かせない──4四桂くらいか?


【参考図】

挿絵(By みてみん)


 これはアリだ……が、具体的にどうするかは、難問。

 4四歩と突いて、相手に攻めさせたほうが、いいかもしれない。

 井伊の棋力なら、古谷も十分に対応できるはずだ。


 パシリ


 4四桂だった。積極策。

 6七龍、2六歩、7四歩、同銀、2八歩。

 ここも謝ってくれるのか。

 先手玉は、急に狭くなってきた。

 7三桂、8四桂、3六歩、7二桂成、同金、8一飛。


挿絵(By みてみん)


 攻め合い。

 奥山は、

「へぇ、古谷は攻め将棋なんだ」

 と面白がっていた。

 いや、そうじゃなかったと思うが。

 3七歩成、同玉、7一歩、9一飛成、3五金。

 馬筋が龍に当たった。

 井伊は、ちょっと考え込む。

 逃げる一手だが、どこへ逃げる?

 奥山は、

「俺なら6九龍と、深く引くね」

 とコメントした。

 俺は、

「6八龍で、金にくっつけといたほうが、よくないか?」

 と指摘した。

「一理ある」


 パシリ


挿絵(By みてみん)


 ……なくはない。

 古谷は、この手に即答しなかった。

 読んでいた順と、違ったのだろう。

 俺は、

「銀に当たってはいるが、6五銀を促しちゃってるよな」

 とつぶやいた。

 奥山は、

「6五銀には9三角成と出られる。これも手順だ」

 と返した。

 そういう側面もあるか。

 井伊としては、6六の角を使いたいのかもしれない。

 そのとき、7四に銀がいると邪魔、と判断した可能性があった。

 1分が経過し、2分が経過した。

 残り時間は、先手が10分、後手が13分。

 並ぶまで考えそうだ。

 俺と奥山は、ああだこうだと分析した。

 評価も難しいし、6五銀、9三角成のあとも難しかった。

 一見、4五馬の調子がいい。

 けれど、6六歩のあと、攻め合えるかどうかが問題だった。


【参考図】

挿絵(By みてみん)


 3六金、4八玉、3五桂は、3七歩くらいでも止まりそうだ。

 攻め合わないなら、一度5五馬と王手することが考えられた。

 奥山は、

「そこで3八玉と引かれたら、続かない気がするんだよなあ」

 という予想だった。

 残り11分を切った。古谷も動く。

 6五銀。

 井伊はノータイムで9三角成。

 4五馬、6六歩と続いて、問題の局面になった。


 パシリ


挿絵(By みてみん)

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