441手目 約束の解釈
えー、というわけで、穂積さんと合流したわけですが──3人とも、なぜか法学部棟に。
しかも、ゼミナール見学に同席していた。民法の。
温厚そうな女性の教員が、ニコニコしながら、
「はい、それでは、レジュメの『事実の概要』に目を通してください」
と指示した。
どれどれ。
Yは、自身が所有する土地甲およびその上に建つ中古住宅乙をXに売却した。契約時には特に問題は指摘されず、Xも現地を確認し、特段の異常を感じなかった。売買契約には「現状有姿で引き渡す」との条項があり、売主は特に修繕義務を負わないとされていた。Xは購入してから1ヶ月後に建物を取り壊し、新しい住宅を建設しようとした。しかし、基礎工事を開始すると、地中に大量のコンクリート塊や廃材が埋まっていることが判明し、建設工事が中断された。工事業者の調査によると、これらの埋設物は乙の建築時に適切に撤去されず、そのまま埋められたものであった。XがYに対して民法上取りうる法的手段と、その法的論点をまとめよ。
……でっていう。
とりあえず、トラブルになっていることはわかった。
先生は、
「では、担当の鈴木さん、どうぞ」
と指名した。
茶髪の男子が、はい、と答えた。
「今回のケースで、XはYと売買契約を締結しており、Yは目的物の引渡しおよび所有権移転の義務を負います。契約には『現状有姿で引き渡す』旨の条項が付け加えられていたので、土地や建物を修繕しておく義務はYにありません。しかし、現状有姿特約は、瑕疵担保責任を免責する意思を含まないので、XはYに対して瑕疵担保責任を追及することが考えられます。昭和5年4月16日の大審院判決では、買主がこれを知り、もしくはある程度の注意をすれば知りえた場合には、瑕疵担保責任は追及できないとされていますが、特段の事情がない限り、本件は当たらないです」
???
先生は、
「すぐに瑕疵担保責任の話へ入りましたが、他の手段はありませんか?」
と尋ねた。
鈴木くんは、レジュメから顔をあげた。
「そうですね、錯誤取消の主張も考えられますが……今回のケースでは、まず損害賠償請求、建設工事がこのままでは不可能なレベルであれば、契約解除、という流れだと思います。それに、この土地建物の購入目的が不明なので……1ヶ月後に解体したところをみると、もともと建て替える予定だった、と考えてもいいかもしれません」
???
先生は、
「損害賠償と契約解除を挙げましたね。例えば、埋設物の撤去は請求できますか?」
と質問した。
「現行法では、できません。もちろん、条文に書かれていないだけで、当事者間でそのように解決することはできますし、どちらかというと、それが合理的だと思います。まだ施行されていませんが、今年6月に公布された新民法では、契約不適合責任として、代金減額か追完請求になると思います」
「そうでしょうか? 埋設物はXの所有物ですか?」
「え……あ、少し考えさせてください。附合の問題だから……」
???
さっきから、言ってることがさっぱりわからない。
これが学部の壁?
そのあとも議論が盛んだったけど、聞き慣れない用語ばかりだった。
ひとつわかったこと──商品に欠陥があった場合、気づきませんでした、ごめんなさい、では済まない。当たり前。
終わったあと、粟田さんは、
「さっきの話、謝罪金を渡すか、工事代金を肩代わりするかで、終わりじゃない?」
と首をかしげていた。
穂積さんは、
「ハァ~、経済学部は、お金で解決することしか考えないんだから」
と嘆息した。
なんですか、それは。
穂積さんが不安だとかなんとかいうから、付き合ってあげたんでしょ。
まったく。
さて、ゼミ見学も終わったので──夕食。
まだ4時半でちょっと早いけど、いいでしょう。
食堂で食券を買って、整列。
私は迷った挙句、うどんにした。
粟田さんもそれに便乗してきて、穂積さんはカレー。
3人席を探すのは、なかなか大変だった。
食事をしない学生は席取り禁止。帰った帰った。
いただきまーす。
最初のほうは、ゼミの話になった。
わからないなりに、情報交換する。
粟田さんは、行動経済学のゼミでほぼ決まり、みたいな感じ。
でなきゃ、自分のゼミ見学まで譲って、法学部にお邪魔しないわよね。
建前上は、公開ゼミは複数回あるから、次回でもいい、ということだった。
穂積さんは、ミンジケイがどうこう言いながら、
「どのゼミも、なーんかピンと来ないのよね」
と、愚痴をこぼしていた。
粟田さんは、
「八花ちゃんの目標が明確じゃないから、そうなるんじゃない?」
と指摘した。
穂積さんは苦しそうな顔をして、
「た、卓上以外で攻撃するの禁止。ヤル気がないわけじゃないから」
と反論した。
粟田さんは、
「ごめんごめん、でも、ゼミナールってただのカリキュラムなんだし、全員にヤル気があったら、かえっておかしくない?」
と笑った。
むッ、それは一理ある。
これって学校全般にあてはまることで、授業はパッケージになってるのよね、基本的に。小中高は、自分で授業をほぼ動かせないし、大学だって、指定された枠の中で単位を取らないといけない。教養科目が何単位で、専門科目が何単位で、みたいに。
ゼミナールは、うちの大学では必修じゃない。でも、これを取らないときは、他の科目をたくさん履修しないといけない。だから渋々ゼミナール登録する、というケースもあると聞いた。そういう学生が多いゼミナールは、ヤル気のない感じになってしまう。
粟田さんは、
「経済学部は、ゼミナールを必修化したいらしいんだけど、先生からの反対も強いみたい。そんなことしたら、全然ヤル気のない学生でも、どこかに登録してきちゃうもんね。理系は卒業研究が必修だから、すでに問題が起きてるんだって」
と教えてくれた。
穂積さんは、
「法学部にもそういう話があるって、だれか言ってたわね。何年後かで予定してるらしいけど、実際になるかどうかは、わかんないって」
と返したあと、
「ま、私は卒業してるし~」
と付け加えて、カレーを頬張った。
そういう他人事扱いがですね、こんにちの日本社会をですね。
そのあとは、話題がとりとめもなく移ろった。
食べ終わった頃に、粟田さんは、
「あ、そういえば、おっきい大会があるとか言ってたの、どうなったの?」
と訊いてきた。
私は、
「え、大会?」
と訊き返した。
「たしか、八花ちゃんが言ってたような……」
穂積さんは、
「ああ、王座戦の予選? 負け負け、一回戦負け」
と、ぶっきらぼうに返した。
粟田さんは、
「そっかあ、麻雀断ちしたのに、残念」
と言った。
あ、そうなんだ。
意外──というと、失礼か。
なんだかんだで、みんな頑張ってたからなあ。
ララさんも星野くんも、部室にわりと来てたし。
1年生組も集まって、自主練しているようだった。
それだけに、今回のショックは大きいわけで。
穂積さんは、
「ま、あと2回チャンスあるし」
と付け加えて、水を飲んだ。
私は、
「1回じゃない?」
と、思わず反応してしまった。
穂積さんは、眉をひそめた。
「香子、4年生になったら辞めるの?」
「え……あ、ごめん、風切先輩は、あと1回、っていう意味」
穂積さんは、
「その点なんだけどさ、将棋部の目標って、王座戦出場なの? それとも、風切先輩を王座戦へ連れて行くことなの?」
と、確認を入れてきた。
私は、はたと困ってしまった。
「部の立ち上げのときは……後者だったかも」
「なんでそんなにパーソナライズされたの?」
あんまりしゃべっていいことじゃないので、私は省略しつつ説明した。
ようするに、風切先輩の入部の条件が王座選出場だったから、約束としては、風切先輩を王座戦に連れて行くことなんじゃないか、と。卒業後でもいい、というニュアンスは、なかったように思う。
ただ──
「なんていうか、約束がそもそも曖昧だったし……なんとも……」
「破ったら、どうなるの?」
「……なにも起こらない……んじゃない?」
条件設定としては、不出場=即時返金、よね。
部費の横領を穴埋めしたのは、風切先輩の貯金だ。
でも、今の雰囲気でそういう話になるかなあ。
私がしどろもどろになっていると、穂積さんは、
「つまり、王座戦がどうこうって話は、当初と違ってきてるわけでしょ。だいたい、1年生がそんな話されても、知らんがな、で終わるんじゃない?」
とまくしたてた。
一理ある、というか、二理くらいある。
たぶん、平賀さんにこの話をしたら、「え、それってボクたちの入部前の話ですよね?」って突っ込まれそうだし、愛智くんに話したら、「そうですか……とりあえず、僕らは僕らで最善を尽くします」云々で、うまくスルーされそう。青葉くんは、そんな話されても困ります、ってなって、返事に詰まりそうだし、マルコくんは笑って、「あ、そうなんですか、じゃあがんばりますッ!」で終わらせそう。
私が反論できないでいると、粟田さんは、
「八花ちゃん、ロジハラはダメだよ~」
と、たしなめた。
穂積さんは、
「ハラスメントじゃないってば。事実の指摘。来年、新1年生が入ってきたら、もっと曖昧になるでしょ。伝統芸能じゃないんだから」
と返した。
穂積さんと粟田さんは、なんだかんだと議論を始めた。
その横で、私はここまでの考えを整理していた。
たしかに、そうだ。
風切先輩を王座戦に連れて行く、という約束は、現2年生までの話。
現1年生は、王座戦出場がこの部の目標だ、としか思っていない。
来年度は? 風切先輩が卒業したあとの、再来年度は?
部員のモチベは、一枚岩にはなれない。
今さらになって、あのときの辻姉の言葉*が、思い出されるのだった。
*11手目 辻姉のアドバイス
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