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凛として駒娘──裏見香子の大学将棋物語  作者: 稲葉孝太郎
第68章 ゼミナール見学(2017年11月1日水曜)
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441手目 約束の解釈

 えー、というわけで、穂積ほづみさんと合流したわけですが──3人とも、なぜか法学部棟に。

 しかも、ゼミナール見学に同席していた。民法の。

 温厚そうな女性の教員が、ニコニコしながら、

「はい、それでは、レジュメの『事実の概要』に目を通してください」

 と指示した。

 どれどれ。


Yは、自身が所有する土地甲およびその上に建つ中古住宅乙をXに売却した。契約時には特に問題は指摘されず、Xも現地を確認し、特段の異常を感じなかった。売買契約には「現状有姿で引き渡す」との条項があり、売主は特に修繕義務を負わないとされていた。Xは購入してから1ヶ月後に建物を取り壊し、新しい住宅を建設しようとした。しかし、基礎工事を開始すると、地中に大量のコンクリート塊や廃材が埋まっていることが判明し、建設工事が中断された。工事業者の調査によると、これらの埋設物は乙の建築時に適切に撤去されず、そのまま埋められたものであった。XがYに対して民法上取りうる法的手段と、その法的論点をまとめよ。


 ……でっていう。

 とりあえず、トラブルになっていることはわかった。

 先生は、

「では、担当の鈴木すずきさん、どうぞ」

 と指名した。

 茶髪の男子が、はい、と答えた。

「今回のケースで、XはYと売買契約を締結しており、Yは目的物の引渡しおよび所有権移転の義務を負います。契約には『現状有姿で引き渡す』旨の条項が付け加えられていたので、土地や建物を修繕しておく義務はYにありません。しかし、現状有姿特約は、瑕疵担保責任を免責する意思を含まないので、XはYに対して瑕疵担保責任を追及することが考えられます。昭和5年4月16日の大審院判決では、買主がこれを知り、もしくはある程度の注意をすれば知りえた場合には、瑕疵担保責任は追及できないとされていますが、特段の事情がない限り、本件は当たらないです」

 ???

 先生は、

「すぐに瑕疵担保責任の話へ入りましたが、他の手段はありませんか?」

 と尋ねた。

 鈴木くんは、レジュメから顔をあげた。

「そうですね、錯誤取消の主張も考えられますが……今回のケースでは、まず損害賠償請求、建設工事がこのままでは不可能なレベルであれば、契約解除、という流れだと思います。それに、この土地建物の購入目的が不明なので……1ヶ月後に解体したところをみると、もともと建て替える予定だった、と考えてもいいかもしれません」

 ???

 先生は、

「損害賠償と契約解除を挙げましたね。例えば、埋設物の撤去は請求できますか?」

 と質問した。

「現行法では、できません。もちろん、条文に書かれていないだけで、当事者間でそのように解決することはできますし、どちらかというと、それが合理的だと思います。まだ施行されていませんが、今年6月に公布された新民法では、契約不適合責任として、代金減額か追完請求になると思います」

「そうでしょうか? 埋設物はXの所有物ですか?」

「え……あ、少し考えさせてください。附合の問題だから……」

 ???

 さっきから、言ってることがさっぱりわからない。

 これが学部の壁?

 そのあとも議論が盛んだったけど、聞き慣れない用語ばかりだった。

 ひとつわかったこと──商品に欠陥があった場合、気づきませんでした、ごめんなさい、では済まない。当たり前。

 終わったあと、粟田あわたさんは、

「さっきの話、謝罪金を渡すか、工事代金を肩代わりするかで、終わりじゃない?」

 と首をかしげていた。

 穂積さんは、

「ハァ~、経済学部は、お金で解決することしか考えないんだから」

 と嘆息した。

 なんですか、それは。

 穂積さんが不安だとかなんとかいうから、付き合ってあげたんでしょ。

 まったく。

 さて、ゼミ見学も終わったので──夕食。

 まだ4時半でちょっと早いけど、いいでしょう。

 食堂で食券を買って、整列。

 私は迷った挙句、うどんにした。

 粟田さんもそれに便乗してきて、穂積さんはカレー。

 3人席を探すのは、なかなか大変だった。

 食事をしない学生は席取り禁止。帰った帰った。

 いただきまーす。

 最初のほうは、ゼミの話になった。

 わからないなりに、情報交換する。

 粟田さんは、行動経済学のゼミでほぼ決まり、みたいな感じ。

 でなきゃ、自分のゼミ見学まで譲って、法学部にお邪魔しないわよね。

 建前上は、公開ゼミは複数回あるから、次回でもいい、ということだった。

 穂積さんは、ミンジケイがどうこう言いながら、

「どのゼミも、なーんかピンと来ないのよね」

 と、愚痴をこぼしていた。

 粟田さんは、

八花やつかちゃんの目標が明確じゃないから、そうなるんじゃない?」

 と指摘した。

 穂積さんは苦しそうな顔をして、

「た、卓上以外で攻撃するの禁止。ヤル気がないわけじゃないから」

 と反論した。

 粟田さんは、

「ごめんごめん、でも、ゼミナールってただのカリキュラムなんだし、全員にヤル気があったら、かえっておかしくない?」

 と笑った。

 むッ、それは一理ある。

 これって学校全般にあてはまることで、授業はパッケージになってるのよね、基本的に。小中高は、自分で授業をほぼ動かせないし、大学だって、指定された枠の中で単位を取らないといけない。教養科目が何単位で、専門科目が何単位で、みたいに。

 ゼミナールは、うちの大学では必修じゃない。でも、これを取らないときは、他の科目をたくさん履修しないといけない。だから渋々ゼミナール登録する、というケースもあると聞いた。そういう学生が多いゼミナールは、ヤル気のない感じになってしまう。

 粟田さんは、

「経済学部は、ゼミナールを必修化したいらしいんだけど、先生からの反対も強いみたい。そんなことしたら、全然ヤル気のない学生でも、どこかに登録してきちゃうもんね。理系は卒業研究が必修だから、すでに問題が起きてるんだって」

 と教えてくれた。

 穂積さんは、

「法学部にもそういう話があるって、だれか言ってたわね。何年後かで予定してるらしいけど、実際になるかどうかは、わかんないって」

 と返したあと、

「ま、私は卒業してるし~」

 と付け加えて、カレーを頬張った。

 そういう他人事扱いがですね、こんにちの日本社会をですね。

 そのあとは、話題がとりとめもなく移ろった。

 食べ終わった頃に、粟田さんは、

「あ、そういえば、おっきい大会があるとか言ってたの、どうなったの?」

 と訊いてきた。

 私は、

「え、大会?」

 と訊き返した。

「たしか、八花ちゃんが言ってたような……」

 穂積さんは、

「ああ、王座戦の予選? 負け負け、一回戦負け」

 と、ぶっきらぼうに返した。

 粟田さんは、

「そっかあ、麻雀断ちしたのに、残念」

 と言った。

 あ、そうなんだ。

 意外──というと、失礼か。

 なんだかんだで、みんな頑張ってたからなあ。

 ララさんも星野ほしのくんも、部室にわりと来てたし。

 1年生組も集まって、自主練しているようだった。

 それだけに、今回のショックは大きいわけで。

 穂積さんは、

「ま、あと2回チャンスあるし」

 と付け加えて、水を飲んだ。

 私は、

「1回じゃない?」

 と、思わず反応してしまった。

 穂積さんは、眉をひそめた。

香子きょうこ、4年生になったら辞めるの?」

「え……あ、ごめん、風切かざぎり先輩は、あと1回、っていう意味」

 穂積さんは、

「その点なんだけどさ、将棋部の目標って、王座戦出場なの? それとも、風切先輩を王座戦へ連れて行くことなの?」

 と、確認を入れてきた。

 私は、はたと困ってしまった。

「部の立ち上げのときは……後者だったかも」

「なんでそんなにパーソナライズされたの?」

 あんまりしゃべっていいことじゃないので、私は省略しつつ説明した。

 ようするに、風切先輩の入部の条件が王座選出場だったから、約束としては、風切先輩を王座戦に連れて行くことなんじゃないか、と。卒業後でもいい、というニュアンスは、なかったように思う。

 ただ──

「なんていうか、約束がそもそも曖昧だったし……なんとも……」

「破ったら、どうなるの?」

「……なにも起こらない……んじゃない?」

 条件設定としては、不出場=即時返金、よね。

 部費の横領を穴埋めしたのは、風切先輩の貯金だ。

 でも、今の雰囲気でそういう話になるかなあ。

 私がしどろもどろになっていると、穂積さんは、

「つまり、王座戦がどうこうって話は、当初と違ってきてるわけでしょ。だいたい、1年生がそんな話されても、知らんがな、で終わるんじゃない?」

 とまくしたてた。

 一理ある、というか、二理くらいある。

 たぶん、平賀ひらがさんにこの話をしたら、「え、それってボクたちの入部前の話ですよね?」って突っ込まれそうだし、愛智あいちくんに話したら、「そうですか……とりあえず、僕らは僕らで最善を尽くします」云々で、うまくスルーされそう。青葉あおばくんは、そんな話されても困ります、ってなって、返事に詰まりそうだし、マルコくんは笑って、「あ、そうなんですか、じゃあがんばりますッ!」で終わらせそう。

 私が反論できないでいると、粟田さんは、

「八花ちゃん、ロジハラはダメだよ~」

 と、たしなめた。

 穂積さんは、

「ハラスメントじゃないってば。事実の指摘。来年、新1年生が入ってきたら、もっと曖昧になるでしょ。伝統芸能じゃないんだから」

 と返した。

 穂積さんと粟田さんは、なんだかんだと議論を始めた。

 その横で、私はここまでの考えを整理していた。

 たしかに、そうだ。

 風切先輩を王座戦に連れて行く、という約束は、現2年生までの話。

 現1年生は、王座戦出場がこの部の目標だ、としか思っていない。

 来年度は? 風切先輩が卒業したあとの、再来年度は?

 部員のモチベは、一枚岩にはなれない。

 今さらになって、あのときの辻姉つじねえの言葉*が、思い出されるのだった。

*11手目 辻姉のアドバイス

https://book1.adouzi.eu.org/n0474dq/12

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