440手目 ゼミ見学
いやはや、なんというか、かんというか。
お昼ご飯を食べた私は、部室でぼんやりと椅子にもたれかかっていた。
正面に座った松平は、
「やっぱ、もうちょっと考えたほうが良かったかあ」
と、あいかわらずくよくよしていた。
こらこら、いつまでも引きずらない。
もちろん、私もちょっとは後悔していた。
でも、冷静に考えてみて、あのトーナメントは勝ち抜けない。
行き詰まった──感はある。
と同時に、次へのステップにもなった。
このままではムリ、ということがわかったのは大きい──と、そう思いたくもあり。
私があれこれ考えていると、松平は、
「そのパンフレット、なんだ?」
と言って、テーブルのうえをゆびさした。
私が読んでいたものだ。
「ゼミの募集要項」
松平は納得して、
「そうか、文系は3年からか」
と返した。
「理系は?」
「4年からだ。3年後期のところもあるらしいが……そもそも、ゼミナールじゃなくて、卒業研究だしな」
「なにするの?」
実験なんかをして論文にする、と松平は言った。
「それ、1年でまとまるの? 就活は?」
「就活したことないから、どれだけ忙しいのかわからん。修士に進む学生も多いし、俺もその予定だ」
うーむ、大学生活、未だ不可解なり。
松平は、パンフレットを覗き込んで、
「で、もう決めたのか?」
と尋ねてきた。
「2つに絞った」
「具体的には?」
「応用計量経済か、ゲーム理論」
松平は、難しそうな顔をして、
「ゲーム理論はわかるが、応用なんとかは?」
と訊き返した。
「データを使って、経済現象を分析する科目」
「応用力学みたいな?」
それはこっちがわからない。
私は、
「応用計量経済の先生は、オープンキャンパスで講義してたひとなの」
と返した。
「その授業が面白かったから?」
「うーん、そういうわけじゃないけど……」
正直、あのときはほぼ理解できなかった。
2年間色々勉強してわかったのは、クラスタリングの話をしていた、ということくらいだ。
「最低賃金の因果推論とか、面白そうなのよねえ」
「くッ、裏見がめっちゃ経済学部してる」
オホホホ、そうでもありましてよ。
っと、もうこんな時間だ。
「ゼミナールの説明会があるから、いったん出るわね」
私は経済学部棟へ移動した。
えーと、5階の……あ、いたいた、粟田さんを発見。
私は手を振って、
「ごめん、お待たせ」
と駆け寄った。
「あ、香子ちゃん、おはよ。私も今来たところ」
心細いので、お互いの見学には同席する、という約束になっていた。
廊下を進むと、会場の教室。
入り口には、ブースが設けてあった。
ゼミ生がなにかを配っている──けど、だれも並んでいない。
早過ぎたかな、というわけでもなく、多分不人気。
こういうのは事前情報でわかる。
私たちが接近すると、男性のスタッフが、
「あ、見学希望者ですか?」
と訊いてきた。
「はい」
「こちらがレジュメになります。名簿はないので、そのまま入室してください」
私たちは1枚受け取って、教室に入った。
長机を4つ、長方形に組んであるスタイルだった。
私服の男女が5人ほどいる。
だいたいマジメそうな感じの学生。
それもそのはずで、この計量系ゼミ──五十嵐ゼミは、厳しいらしい。
パワハラ系じゃないといいけど。
私は見学者用の、すみっこの席に移動した。
黒板を前とすると、うしろのドアに近い、廊下側。
先客も一応いた。メガネをかけた男子。
そのひとは、一番ドアに近いところに座っていた。
私たちは、それよりも前方に着席。
5分ほどして、五十嵐先生も入室した。
オープンキャンパスのときと同じで、キチっとスーツを着た、メガネの三十代男性。
黒板の前に座ると、書類をトンとまとめた。
まだ開始まで1分ある。ちょっと緊張。
さらに見学者が2人ほど入って来て、チャイムが鳴った。
五十嵐先生は、
「それでは、公開ゼミナールを始めましょう。佐藤さん、前回の話をまとめてもらえますか?」
と切り出した。
ちょっと体格のいい男子が、はい、と返事をした。
「えー、レジュメの『ふりかえり』の部分に書いてありますが、前回は非階層クラスター分析で、アメリカの景気循環を研究する論文を読みました」
「その論文の主要な結論は、なんでしたか?」
「従来は、景気拡大の期間によってリセッションを予測する見解が根強かったのですが、リセッションの確率は景気拡大の期間に左右されないのではないか、というものです」
「それは、どういう風に言い換えられますか?」
「好景気が長く続いたからと言って、不景気になる確率がどんどん高くなるわけではない、という意味です」
五十嵐先生は、はい、ありがとうございます、と結んだ。
そして、書類──と思ったものは、どうやら論文かなにかのようだった。
「その通りです。では、山田さん」
メガネの女子が、はい、と返事をした。
「クラスター分析という言葉を、説明してもらえますか?」
「クラスター分析というのは、対象の中から、特定の類似性を持つものを集める分析方法です」
五十嵐先生は席を立って、黒板に【非階層クラスター分析】と書いた。
チョークでそれを指し示しながら、山田さんに、
「この『非階層』とは、どういう意味ですか?」
と尋ねた。
「分類するグループの数を、あらかじめ決めておく方法です。例えば、3分割したいとか、4分割したいとか、そういう場合です」
五十嵐先生は、非の字をチョークで消した。
「では、階層クラスター分析は?」
「階層クラスター分析は、グループの数をあらかじめ決めないで、アルゴリズムに任せておく方法です」
五十嵐先生は、ありがとうございます、と言って、黒板へ向き直った。
「直感的な例を挙げましょう。今、次のような10種類の生物がいます」
イヌ ネコ サンマ ガチョウ スズメ ブリ ブタ セミ カンガルー パンダ
「非階層クラスター分析の場合は、分けるグループをあらかじめ決めます。例えば、3グループに分けるとすると……」
A イヌ ネコ ブタ カンガルー パンダ
B サンマ ブリ
C スズメ セミ ガチョウ
「こうなる可能性があります。分け方は、特徴量をどう選択するか、に拠ります」
五十嵐先生は、そうですね、と独り言を言ってから、私たちのほうを見た。
「見学席の、1番前のかた」
1番前──私じゃないッ!
「え、あ、はい」
「ABCの特徴を解釈するとしたら、どう解釈しますか?」
「え、その……たしか、クラスター分析っていうのは、最小二乗法などで……」
「数学的構造ではなく、人間の主観で答えてください」
と、とりあえず落ち着く。
「えーと……Bが魚、Cが空を飛ぶもの……あ、違います、Cは羽があるもので、Aはそれ以外、陸上を歩くものだと思います」
「はい、それがひとつの尤もらしい解釈ですね。では、2番目のかた」
粟田さんにバトンタッチ。
「はい」
「非階層クラスター分析には、どのようなデメリットがあると思いますか?」
これはすぐわかった。
粟田さんも気付かないはずがなく、
「グループ数があらかじめ決まってるので、むりやり分類される可能性がある、ですか?」
と返した。
五十嵐先生は、
「正解です。もしクラスターの数を3ではなく4で指定した場合、哺乳類、魚類、鳥類、昆虫に分けられたかもしれません。しかし、今回は3なのでできません。では、このデメリットを意識したうえで、先ほどの論文を、もう一度読み直してみましょう」
そこからは、ゼミ生の議論が始まった。
理解できた部分もあるし、できなかった部分もあった。
それからレジュメに戻って、半分も進まないうちにチャイムが鳴った。
五十嵐先生は、
「今日はここまでにしましょう。次回はレジュメの続きをやります」
と言って、解散になった。
私と粟田さんは、教室を出たあと、少し散歩した。
カフェテリアへ向かう。
粟田さんは、
「難しい話だったけど、けっきょくよくわかんないです、みたいな結論じゃなかった?」
と首をかしげた。
むむッ、それは聞き捨てならない。
「けっこう発見的な部分もなかった?」
「んー、でもなあ、やっぱり数理モデルの限界っていうか~」
見解の相違。
まあこれはもうしょうがない。
次は、粟田さんの希望ゼミに──ん? あそこにいるのは、穂積さん?




