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凛として駒娘──裏見香子の大学将棋物語  作者: 稲葉孝太郎
第66章 聖生復活(2017年10月23日月曜)
443/496

429手目 貴公子

※ここからは、日高ひだかくん視点です。

 おーい、どうなってるんだ。

 役員が何人かいないんだが。

 俺は対局会場を見回して、欠けたメンバーがいることに気づいた。

 だけど、時間は無情に流れる。

 俺のとなりにいた傍目はためさんは、

「日高さん、もうすぐ開始時刻です」

 と言って、気を取られていた俺を引きもどした。

「あ、はい」

 そもそも、今の連合の状況はおかしいんだよ。

 副会長が空席なんだぞ、副会長が。

 引退したら、後任は指名しておいて欲しい。

 こういうのは、風切かざぎり会長の仕事だと思うんだけどな。

 会長、なんか事務が苦手っぽい。

 だれかが言わないと、気づかないんじゃないだろうか。

 え、だったら、おまえが言えって?

 俺が言ったら、俺がやることになるだろ。みんな気づいてるけど、じゃあおまえがやれって言われるのがイヤで、口に出さないっぽいんだよなあ。

 俺は、傍目さんをちらりと見た。

「傍目さん」

「はい」

「『昇進』っていう言葉に、興味ありませんか?」

「ありません」

 あ、はい──30秒前。

 俺は、

「対局準備は、よろしいですか?」

 とたずねた。

 返事はない。

 入り口からみて、部屋の奥が風切vs朽木くちき、ドアに近いほうが、たちばなvs志邨しむら

 朽木さんと志邨さんは、窓を背に、風切さんと橘さんは、壁を背にしている。

 俺は、風切さんのちょうどうしろに立っていた。

 4人とも、黙って精神を集中させている。

 時間だ。

「それでは、始めてください」

 一斉に一礼して、対局開始。

 同時に春日かすがさんが、カメラのシャッターを押した。

 順番に撮って行って、俺のそばまで来ると、小声で、

氷室ひむろがどこにいるか、知ってる?」

 と訊いてきた。

「いえ……廊下じゃないですか?」

「さっき捜したけど、いなかったのよね」

 広報予算のことで話があると、春日さんは言った。

 会計の朽木さんが対局中だから、話しかけにくいらしい。

 とはいえ、会計監査の氷室に相談しても、解決しないんじゃないだろうか。

 あいつが連合の裏方に詳しいとは、思えない。

 春日さんは、

都ノみやこの組と火村ほむらちゃんも、いないのよね。ばんもどっか行ったし、太宰だざいは最初からいないでしょ」

 とつけくわえた。

 よく見てるな。

 磐と太宰がいないのは気づいたが、他は気づかなかった。

 火村たちは役員じゃない、ってのもあるが、端的に観察力の問題だろう。

 俺は、

「まあ、息抜きも必要ですよね。太宰から欠席の連絡すらないのは、気になりますが」

 と返した。

 春日さんは眼光鋭く、さらに声をひそめた。

「太宰、氷室、磐、大谷おおたに、火村、裏見うらみ松平まつだいら……この7人、なーんかいっしょに動いてる気がするのよね」

「え? どういうことですか?」

「ジャーナリストの勘」

 なんというか、返しに困る。

 俺はこの話題を終わらせるため、視線を局面へ向けた。


【先手:風切かざぎり隼人はやと(都ノ) 後手:朽木くちき爽太そうた晩稲田おくてだ)】

挿絵(By みてみん)


 三間だ。

 春日さんは、さっそくメモを取り始めていた。

 俺は、

「三間飛車の連投ですけど、なんかあるんですかね」

 と話しかけた。

 春日さんは、ペンを走らせながら、

「研究時間の節約でしょ」

 と答えた。

「研究時間の節約? 会長職って、そんなに忙しいんですか?」

「それもあるけど、大学の勉強とか、そういうことにも時間を取られてるんでしょうね。就職するにせよ、大学院に進むにせよ、資格試験を受けるにせよ、3年生の秋だから、本格化してる」

 はぁ、そんなもんか。

 インターン行ってるやつは、2年生でも行ってるもんな。

「でも、朽木さんだって、条件は同じですよね。3年生です」

「同条件だからこそ、成績で劣後してるんでしょ。棋力差」

 なんつー辛口。

 春日さんって、ちょっと浮いてるところがあると思う。

 ストレートな物言いが、キツイからかもしれない。

 戦うジャーナリズムは、今の日本じゃ流行らないんだよね。

 5三銀、2八玉、3三角、7五歩。


挿絵(By みてみん)


 オーソドックスに、穴熊戦っぽい。

 と思いきや、朽木さんは2二玉、5八金左に、3二銀と上がった。

 左美濃だ。穴熊は間に合わないのか、それとも、あとで組み替えるのか。

 5六歩、4四歩、5九角、4三金、4六歩。


挿絵(By みてみん)


 組み換えは、目指してないっぽいか?

 俺は、

「準決勝と違って、古いかたちになるかもしれませんね」

 と言った。

 春日さんは、そうね、とそっけなく、となりの対局へ移った。

 それと入れ替わるように、大河内おおこうちが入ってきた。

「どうです?」

「見ての通りだぞ」

 大河内はメガネをなおしつつ、盤面を見た。

「……なるほど、左美濃ですか」

「準決勝の穴熊戦を見て、変えた可能性もあるよな」

「そうなのですか?」

 大河内は和室で対局してたから、見てないか。

 俺が説明しかけたとき、駒音が聞こえた。


挿絵(By みてみん)


 大河内は、

「攻めというより、飛車先交換ですね」

 と言った。

 だろうな。

 同歩、同飛、7三歩、7八飛、2四歩、4七金、2三銀。

 駒組みを再開。

 2六歩、1二香。


挿絵(By みてみん)


 組み替えだったか。しかし──

「組み替えられるか?」

 大河内は、

「3二金からの2二金型にするしか、ないです。銀は無理だと思います」

 という意見だった。

 俺も同感だ。

 風切さんは、この手にちょっと考えた。

 5八銀と固めて、1一玉に3六歩、3二金、3七桂と跳ねた。

 4二角、7七角、3三金寄、9六歩、2二金。


挿絵(By みてみん)


 意外と様子見してる。

 それとも、攻めの糸口がないのか。

 急所らしいものはある。4筋だ。

 4五歩、同歩、同桂は、金銀両当たり。

 もちろん、対局者が見落としているわけがない。

 すぐに突いても弱い、ということなんだろう。

 7九飛、7四歩、6八角、7二飛。

 大河内は、

「動かないとマズいです」

 とつぶやいた。

 その通りに、先手は動いた。

 4五歩。

 このタイミングだったか。

 同歩、同桂、4四金。


挿絵(By みてみん)


 上ずったぞ。

「だいじょうぶなのか、これ」

「さあ、どうでしょう……いずれにせよ、先手は一気に行くはずです」

 7三歩、同飛、5三桂成、同角、7七桂、6四角。

 朽木さんは、一度王手した。

 4六歩と打たせて、7二飛、6五桂、3一角と撤退する。


挿絵(By みてみん)


 これもどうなんだ?

 角に紐がついていない。

 先手のダイヤモンド美濃に対して、後手の2枚穴熊。

 それとも、先手の攻めが薄いか?

 風切さんも、ここは長考した。

 俺は大河内と相談する。

「8三銀で、ムリヤリ突破するのは、どうだ?」

「それもアリですが……銀がどうしても遊んでしまいます」

 たしかに、というか、それは織り込み済みで提案している。

 大河内は、もう10秒ほど考えて、

「5五歩が繋がれば、これが最有力です。ただ、繋がるかどうか……」

 と、言葉を濁した。

「同歩で?」

「6一銀と打ちます」

 けっきょく銀打ちか。まあ、そうするしかない。

 そう思った矢先、風切さんは5五歩と突いた。

 同……ん?

 朽木さんは、7筋を突き返した。


挿絵(By みてみん)


 これは──外野全体が動揺した。

 大河内は、その雰囲気を代弁した。

「先手の攻めが繋がったのでは?」

 そうだ。同歩だったらあやしかった攻めが、繋がりそうに見える。

 俺は朽木さんの顔を見た。

 動揺も後悔も、まったく現れていない。

 粛然としたたたずまいで、微動だにせず、盤に向かっていた。

 能演者のうえんじゃのような趣すらある。俺じゃ絶対に出せない雰囲気だ。

「……大河内は、囃子原はやしばらと全国で指したことがあるよな?」

「はい……なぜ急にその話を?」

「ふたりとも、貴公子って感じだよな、と思って」

 大河内は、メガネの繋ぎ目を、ひとさしゆびで持ち上げた。

「囃子原くんを貴公子だと思ったことは、ないですね」

「ん? そうなのか?」

「彼は帝王ですよ。ああいう人間が僕たちのそばにいたことが、当時から不思議でした。日本経済のニューリーダーが、同世代と将棋を指すなんて、はっきり言って時間の無駄です。彼にとって将棋とは、なんだったんですかね。想像もつきません」

 俺は、朽木さんをもういちど見た。

 帝王……ってガラじゃない。

 そもそも帝王って、誉め言葉か?

 朽木さんはかっこいい。すくなくとも、俺はそう思う。中学生のとき、実家が倒産して、富裕層から転落した。でも、屹然と大会に来ていた。ザマァって思ってたやつは、大勢いると思う。俺だって、ちょっとは……いや、だいぶ思ったさ。聖人ぶるつもりはない。

 朽木さんにとって、将棋ってなんだ?

 これだって、時間の無駄じゃないのか?

 もっとお金儲けに専念すれば……すれば?

 すれば、なんなんだ?

 次に聞こえたのは、風切さんの駒音だった。

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