429手目 貴公子
※ここからは、日高くん視点です。
おーい、どうなってるんだ。
役員が何人かいないんだが。
俺は対局会場を見回して、欠けたメンバーがいることに気づいた。
だけど、時間は無情に流れる。
俺のとなりにいた傍目さんは、
「日高さん、もうすぐ開始時刻です」
と言って、気を取られていた俺を引きもどした。
「あ、はい」
そもそも、今の連合の状況はおかしいんだよ。
副会長が空席なんだぞ、副会長が。
引退したら、後任は指名しておいて欲しい。
こういうのは、風切会長の仕事だと思うんだけどな。
会長、なんか事務が苦手っぽい。
だれかが言わないと、気づかないんじゃないだろうか。
え、だったら、おまえが言えって?
俺が言ったら、俺がやることになるだろ。みんな気づいてるけど、じゃあおまえがやれって言われるのがイヤで、口に出さないっぽいんだよなあ。
俺は、傍目さんをちらりと見た。
「傍目さん」
「はい」
「『昇進』っていう言葉に、興味ありませんか?」
「ありません」
あ、はい──30秒前。
俺は、
「対局準備は、よろしいですか?」
とたずねた。
返事はない。
入り口からみて、部屋の奥が風切vs朽木、ドアに近いほうが、橘vs志邨。
朽木さんと志邨さんは、窓を背に、風切さんと橘さんは、壁を背にしている。
俺は、風切さんのちょうどうしろに立っていた。
4人とも、黙って精神を集中させている。
時間だ。
「それでは、始めてください」
一斉に一礼して、対局開始。
同時に春日さんが、カメラのシャッターを押した。
順番に撮って行って、俺のそばまで来ると、小声で、
「氷室がどこにいるか、知ってる?」
と訊いてきた。
「いえ……廊下じゃないですか?」
「さっき捜したけど、いなかったのよね」
広報予算のことで話があると、春日さんは言った。
会計の朽木さんが対局中だから、話しかけにくいらしい。
とはいえ、会計監査の氷室に相談しても、解決しないんじゃないだろうか。
あいつが連合の裏方に詳しいとは、思えない。
春日さんは、
「都ノ組と火村ちゃんも、いないのよね。磐もどっか行ったし、太宰は最初からいないでしょ」
とつけくわえた。
よく見てるな。
磐と太宰がいないのは気づいたが、他は気づかなかった。
火村たちは役員じゃない、ってのもあるが、端的に観察力の問題だろう。
俺は、
「まあ、息抜きも必要ですよね。太宰から欠席の連絡すらないのは、気になりますが」
と返した。
春日さんは眼光鋭く、さらに声をひそめた。
「太宰、氷室、磐、大谷、火村、裏見、松平……この7人、なーんかいっしょに動いてる気がするのよね」
「え? どういうことですか?」
「ジャーナリストの勘」
なんというか、返しに困る。
俺はこの話題を終わらせるため、視線を局面へ向けた。
【先手:風切隼人(都ノ) 後手:朽木爽太(晩稲田)】
三間だ。
春日さんは、さっそくメモを取り始めていた。
俺は、
「三間飛車の連投ですけど、なんかあるんですかね」
と話しかけた。
春日さんは、ペンを走らせながら、
「研究時間の節約でしょ」
と答えた。
「研究時間の節約? 会長職って、そんなに忙しいんですか?」
「それもあるけど、大学の勉強とか、そういうことにも時間を取られてるんでしょうね。就職するにせよ、大学院に進むにせよ、資格試験を受けるにせよ、3年生の秋だから、本格化してる」
はぁ、そんなもんか。
インターン行ってるやつは、2年生でも行ってるもんな。
「でも、朽木さんだって、条件は同じですよね。3年生です」
「同条件だからこそ、成績で劣後してるんでしょ。棋力差」
なんつー辛口。
春日さんって、ちょっと浮いてるところがあると思う。
ストレートな物言いが、キツイからかもしれない。
戦うジャーナリズムは、今の日本じゃ流行らないんだよね。
5三銀、2八玉、3三角、7五歩。
オーソドックスに、穴熊戦っぽい。
と思いきや、朽木さんは2二玉、5八金左に、3二銀と上がった。
左美濃だ。穴熊は間に合わないのか、それとも、あとで組み替えるのか。
5六歩、4四歩、5九角、4三金、4六歩。
組み換えは、目指してないっぽいか?
俺は、
「準決勝と違って、古いかたちになるかもしれませんね」
と言った。
春日さんは、そうね、とそっけなく、となりの対局へ移った。
それと入れ替わるように、大河内が入ってきた。
「どうです?」
「見ての通りだぞ」
大河内はメガネをなおしつつ、盤面を見た。
「……なるほど、左美濃ですか」
「準決勝の穴熊戦を見て、変えた可能性もあるよな」
「そうなのですか?」
大河内は和室で対局してたから、見てないか。
俺が説明しかけたとき、駒音が聞こえた。
大河内は、
「攻めというより、飛車先交換ですね」
と言った。
だろうな。
同歩、同飛、7三歩、7八飛、2四歩、4七金、2三銀。
駒組みを再開。
2六歩、1二香。
組み替えだったか。しかし──
「組み替えられるか?」
大河内は、
「3二金からの2二金型にするしか、ないです。銀は無理だと思います」
という意見だった。
俺も同感だ。
風切さんは、この手にちょっと考えた。
5八銀と固めて、1一玉に3六歩、3二金、3七桂と跳ねた。
4二角、7七角、3三金寄、9六歩、2二金。
意外と様子見してる。
それとも、攻めの糸口がないのか。
急所らしいものはある。4筋だ。
4五歩、同歩、同桂は、金銀両当たり。
もちろん、対局者が見落としているわけがない。
すぐに突いても弱い、ということなんだろう。
7九飛、7四歩、6八角、7二飛。
大河内は、
「動かないとマズいです」
とつぶやいた。
その通りに、先手は動いた。
4五歩。
このタイミングだったか。
同歩、同桂、4四金。
上ずったぞ。
「だいじょうぶなのか、これ」
「さあ、どうでしょう……いずれにせよ、先手は一気に行くはずです」
7三歩、同飛、5三桂成、同角、7七桂、6四角。
朽木さんは、一度王手した。
4六歩と打たせて、7二飛、6五桂、3一角と撤退する。
これもどうなんだ?
角に紐がついていない。
先手のダイヤモンド美濃に対して、後手の2枚穴熊。
それとも、先手の攻めが薄いか?
風切さんも、ここは長考した。
俺は大河内と相談する。
「8三銀で、ムリヤリ突破するのは、どうだ?」
「それもアリですが……銀がどうしても遊んでしまいます」
たしかに、というか、それは織り込み済みで提案している。
大河内は、もう10秒ほど考えて、
「5五歩が繋がれば、これが最有力です。ただ、繋がるかどうか……」
と、言葉を濁した。
「同歩で?」
「6一銀と打ちます」
けっきょく銀打ちか。まあ、そうするしかない。
そう思った矢先、風切さんは5五歩と突いた。
同……ん?
朽木さんは、7筋を突き返した。
これは──外野全体が動揺した。
大河内は、その雰囲気を代弁した。
「先手の攻めが繋がったのでは?」
そうだ。同歩だったらあやしかった攻めが、繋がりそうに見える。
俺は朽木さんの顔を見た。
動揺も後悔も、まったく現れていない。
粛然としたたたずまいで、微動だにせず、盤に向かっていた。
能演者のような趣すらある。俺じゃ絶対に出せない雰囲気だ。
「……大河内は、囃子原と全国で指したことがあるよな?」
「はい……なぜ急にその話を?」
「ふたりとも、貴公子って感じだよな、と思って」
大河内は、メガネの繋ぎ目を、ひとさしゆびで持ち上げた。
「囃子原くんを貴公子だと思ったことは、ないですね」
「ん? そうなのか?」
「彼は帝王ですよ。ああいう人間が僕たちのそばにいたことが、当時から不思議でした。日本経済のニューリーダーが、同世代と将棋を指すなんて、はっきり言って時間の無駄です。彼にとって将棋とは、なんだったんですかね。想像もつきません」
俺は、朽木さんをもういちど見た。
帝王……ってガラじゃない。
そもそも帝王って、誉め言葉か?
朽木さんはかっこいい。すくなくとも、俺はそう思う。中学生のとき、実家が倒産して、富裕層から転落した。でも、屹然と大会に来ていた。ザマァって思ってたやつは、大勢いると思う。俺だって、ちょっとは……いや、だいぶ思ったさ。聖人ぶるつもりはない。
朽木さんにとって、将棋ってなんだ?
これだって、時間の無駄じゃないのか?
もっとお金儲けに専念すれば……すれば?
すれば、なんなんだ?
次に聞こえたのは、風切さんの駒音だった。




