419手目 風切対策
風切先輩が残した台詞──それについて、私と松平のあいだでは解釈が分かれた。松平は、個人戦でも情報収集はできる、という意味で受け取ったみたい。私は、個人戦で勝敗をつけておくことは、のちのち団体戦でも効いてくる、っていう意味じゃないかな、と思った。
いずれにせよ、王座戦予選とは、どこかでつながっているはずだ。私たちは各人各様、手を動かしてみることにした。松平は穂積さんたちといっしょに、王座戦予備軍(つまりC級1位、B級1位、2位、A級の2位から8位まで)を偵察して回ることに。
これは思ったよりも、大変な作業だった。男子はベスト32、女子はベスト16まで来ている。でも、残っているメンバーは、上位大学のレギュラー陣ばかりだから、ほとんどのひとが王座戦予備軍という状態だった。例外は、王座戦出場が確定している晩稲田くらい。志邨さんや橘先輩、それと朽木先輩を除外できる程度。
だから、私が風切先輩の観戦にまわったときには、すでに中盤になっていた。
【先手:風切隼人(都ノ) 後手:西海渚(治明)】
テーブルのまわりには、そこそこの人だかりができていた。
風切先輩と、治明の新人エース。好カード。西海くんは、新人戦でベスト16まで行ったひとだ。けっこうふっくらとしている、身長があまり高くない男子だった。髪型はワイルドパーマで、秋物のカジュアルシャツを着ていた。迫力がすごくあって、読んでいるときのようすは、こちらが気圧されそうなオーラがあった。
私はしばらくのあいだ、局面の把握に努めた。それから、周囲の野次馬をチェック。だれがどこを観戦しているのかも、重要な情報だ。私のちょうど右どなりは、聖ソの明石くんだった。観戦だからか、いつものとっつきにくい分析家のような雰囲気じゃなかった。ちょっと距離をおいているところはあったけど、周囲に溶け込んでいた。
明石くんはこちらに気づいて、
「序盤は三間でしたよ」
と教えてくれた。
その言葉の欄外には、最初からは観戦しなかったんですね、というニュアンスが込められていた。
私は、
「明石くんは、最初から観てるの?」
とたずねた。
「ええ」
「……」
「偵察しないのか、ですか? 聖ソはもともと、そう熱心にやっていません」
これは事実だった。
というより、ここまで熱心に情報収集しているのは、都ノくらいだった。大学将棋界から一度追放されて、コネクションのない状態でやってきた、というのが大きいのだろう。とはいえ、聖ソもそうなのだから、やはりそこは温度差というか、個性の差とも思えた。
私は、
「互角……かな」
と、盤面のほうに集中した。
明石くんは、
「そうですね、互角だと思います」
と返した。
私は残り時間を確認した。
先手が16分、後手が14分。
これだけ使ってこの局面だと、途中の折衝が長かったようだ。
おそらく、開戦のタイミングを見計らって、駒組みが長期化したのだろう。
私たちギャラリーは、両者がどう打開するのか、それを見守っていた。
風切先輩は1分使って、まだ考慮中。
時間的に並びそうだ。
明石くんは、
「どう動くと思いますか?」
とたずねてきた。
私はちょっと答えに迷ったあと、
「……先手から攻める展開かも」
と予想した。
明石くんは、
「ええ、ふたりの棋風からして、そうなりますね。そもそも西海くんの狙いは、先手からの無理攻めでしょう。後手からは動きません。彼は序中盤型ですから」
とつけくわえた。
あれ? それ言っちゃうんだ。
私は、情報戦の一種かな、と思った。
西海くんは、序中盤に定評がある。これは調べてあった。主に1年生ルート。今年の1年生は東京組が多くて、そのネットワークはやはり侮れないものがあった。
西海くんの情報については、明石くんも把握してるっぽい。
けど、ライバルチームに流すのは、解せなかった。
こっちも知ってると思ったから?
それとも、じぶんが入手した情報を、検証したいから?
私は警戒して、とくにコメントはしなかった。
パシリ
やっぱり先手から開戦した。
西海くんは、うんとうなずいて、同歩とした。
狙った路線に入っている。
このタイミングで攻められるのが、分かっていた手つきだった。
同桂、7七角成、同桂、7八角。
うーん、銀桂交換で、収める感じ?
5三桂成、同飛、7九飛が第一感だった。
でも、風切先輩は、そう指さなかった。
6八飛と単に浮いた。
西海くんは、この手に驚かず、8七角成とノータイムで成った。
すごい研究家だ。この手は、あんまり検討に入れないと思う。
っていうか、ここまで研究範囲というのが、どうにも信じられなかった。
風切先輩も、ちょっと気になったのか、すこし考えた。
ここで持ち時間が逆転して、先手が13分、後手が14分に。
さすがにそれ以上は消費しないで、先輩は5三桂成とした。
同飛、7八歩、5五歩。
このかたちか──私が予想していたのとは、ちがう。
明石くんは、興味深いですね、とつぶやいてから、
「今の応酬は、風切さんが先に仕掛けましたね。6八飛は、AIで検討しても第一候補ではないと思います。西海くんの狙いを察して、乗ったフリをしながら先攻。じっさいにはその先で手を変化させ、後手に長考を強いろうとしました……が、不発だったようです。西海くんは、6八飛の意図に頓着せず、必然の一手を指して、持ち時間を温存してます」
と解説した。
私は、明石くんがいつもより饒舌過ぎて、なんだか不気味に感じてしまった。
うーん、そうね、と、あたりさわりのないことを言っておく。
一方、私たちの会話とはうらはらに、周囲のギャラリーは対局に魅入っていた。
いや、魅入っていたというのは、語弊があるかもしれない。
ギャラリーが注目しているのは、西海くんの作戦の成否だ。
穴熊で振り飛車のムリ攻めを誘う、というアイデアは、風切先輩対策として、いろんなひとが考えたはず。現に、私も試したことがあった。でも、全然歯がたたない。
他の大学は、風切先輩と指す機会が少ないから、そもそも試すチャンスすらないひとが多いだろう。それを今、序中盤巧者の西海くんが試している。周囲の注目が集まるのも、当然のことだった。
パシリ
7一角。
風切先輩のほうが、時間を使っている。
西海くんは、すぐに5四飛と浮いて、5五歩、同飛、5七歩と収めさせた。
5筋に歩が打てなくなった。
とはいえ、後手も手がなくなったのでは?
8六桂と打って、露骨に攻めるくらいしか、ないような?
ところが、この予想は外れた。
西海くんは5四飛で、4四角成を先に消した。
この手は、さすがだ。
風切先輩は、それでも6四歩と攻めた。
西海くんは、5六歩の反撃。
同銀、4六桂で、先着した。
これは……もしかして、5六飛と切るつもり?
この予感は当たった。
3九金の引きに、西海くんは5六飛と突っ込んだ。
同歩、5九銀。
割り打ち。
私は思わず、
「方針ががらりと変わったわね」
と口走った。
明石くんは、これを否定した。
「いえ、予定通りだと思います。西海くんの作戦は、あくまでも先手にムリ攻めさせることですからね。それが成立したあと、消極策に出る意味はありません。盛り返されるリスクが生じるだけなので」
な、なるほど、冷静な分析。
今のところ、西海くんの理想的な展開になっている。
本人からも、自信を感じられた。
だけど──風切先輩は、ここからが強いわよ。
先輩は先輩で、まったく動じていない。
いつも通り、比較的綺麗な姿勢で、盤を凝視している。
奨励会時代につちかわれた対局態度が、体に染みついているのだろう。
その視線は、敵陣を見ていた。
これは──来る。強烈な攻めが。
1分後、風切先輩は敵陣深く、飛車を下ろした。




