418手目 手を動かす
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
私は持ち駒にかるくさわった。
「負けました」
「ありがとうございました」
チェスクロを止める。
勝った松平は、桂打ちが微妙じゃなかったか、と言った。
私は、そうね、と認めてから、しばらく検討した。
けど、ふたりとも手が止まってしまった。
昼休みの練習将棋。
がらんとした控え室の会場で、ほかには数人の男子ばかり。
スキマ時間の有効活用ではあるけれど、どこか空回りしていた。
その理由も、見当はついていた。
王座戦予選は目前なのに、個人戦の結果がパッとしないのだ。
2日目の第1局が終わって、残っているのは風切先輩と大谷さんだけ。
もちろん、現状が悪いってわけじゃない。3日目まで残った経験があるのは、もともとこのふたりだけだし、2日目の壁が高いのは、承知済み。クジ運もある。
だけどそれって、これまでと変わりばえがないわけで、まあなんというか、進歩してないといえば、進歩してないわけで。
私は、
「2週間でなにか変わるわけもないし、しょうがないわよね」
と言った。
松平は、
「俺も、その線は追ってない……期待してないといえばウソになるが、こっから爆発的に強くなるのは、現実的じゃないからな。別のルートで、手を打ってはいるんだが……」
と小声で返した。
「別のルート?」
「情報収集」
なるほどね、と私は思った。
「で、なにかわかった?」
松平は椅子にもたれかかって、後頭部に両手をまわした。
「ダメだ。もっと早く動けばよかった。三宅先輩もさぐりを入れてるが、無理みたいだ。星野からは、ちょっと入ってくる」
Aに上がるまえの段階が、スパイのタイムリミットだったみたい。
警戒対象に入ってしまった、ということだ。
星野くんは都ノの幹事で、幹事会に出ている。多少は融通が利くのだろう。それにあの性格だから、うまく立ち回っているっぽい。だけど、王座戦に役立ちそうな情報は、ほとんどないということだった。
私は声を落として、
「赤学あたりから、なにか聞いてない?」
と確認を入れた。
松平は姿勢をもどして、今度は片肘をテーブルについた。
手でほほを支える。
「脇は、ここにきて急に渋くなった。火村は?」
「火村さんは、考えが読みにくいのよね。ノイマンさんは、あんな感じだし」
「聖ソのブレインは明石だろうから、アプローチはむずかし……」
そのときだった。
横合いから、いきなり声をかけられた。
日センの奥山くんだった。
松平は挙動不審になって、
「いや、これはだな……」
と、しどろもどろになった。
奥山くんは笑いながら、
「控え室でヤバい話をするからだぞ。座っていいか?」
と言って、となりのテーブルをゆびさした。
私たちは許可した。
奥山くんは腰をおろすと、すぐに、
「王座戦の相談?」
と訊いてきた。
私と松平は顔を見合わせたあと、
「まあ……」
と返した。
奥山くんは破顔一笑して、
「議論しても王座戦は出れないよ」
と言った。
まあなんという直球。
松平は、
「わかっちゃいるが、最善は尽くしたい」
と答えた。
奥山くんは足を組んで、右手をかるく挙げた。
「最善を尽くすっていうのは、効果を最大化するってことだろう。細部にこだわるって意味じゃない。大学受験で最善を尽くしたいなら、勉強することが第一。ペンにこだわるのは二の次だ」
松平は、
「書きにくいペンで集中できないのは、ふつうにリスクだと思うぞ」
と反論した。
「都ノは、そういうレベルで戦ってる?」
松平は、すこしばかりムスッとした。
けど、肩をすくめて、
「ボーダーラインになってからこだわれ、か」
と嘆息した。
奥山くんは、マジメな顔になった。
「べつに侮辱するつもりはないんだ。気を悪くしたなら、謝る。だけど、俺たちがやってるのは将棋だろ。将棋が強くなくっちゃ、スタート地点には立てない。プロが散々教えてくれてることだ」
奥山くんの言う通りだった。
土俵に乗れていない。
級位者が道具にこだわっても、有段者には勝てないのといっしょだ。
将棋には、そういう非情な部分が、たしかにあった。
でも、納得できない部分──というよりも、そうするしかない部分もあった。
私は、
「今から棋力向上は難しいと思う」
と指摘した。
奥山くんも、それは認めた。
「もちろん、今から土俵にあがろうとしても、ムリがある」
「じゃあ、細部で工夫するしかなくない?」
奥山くんは、両手の五指を組んで、やや身を乗り出した。
「ふたりは、辻先輩の知り合いだったよね?」
私たちは、そうだ、と答えた。
「これは俺が入学する前の話だけど、おととし、日センは王座戦に出た。ひさしぶりの快挙だよ。王座戦出場を目指そう、って言い出したのは、辻先輩だったらしい。でも、辻先輩が主将のときは、出られなかった。ある部員が、残念でしたね、ってなぐさめたとき、辻先輩は、なんて言ったと思う?」
私たちは、わからない、と答えた。
奥山くんは、すこしタメを作ったあとで、
「答えは……秘密だ」
と、はぐらかした。
松平はあきれて、
「おーい、からかいに来たのか?」
と声を出した。
「ハハハ、ごめんごめん。これは今、教えちゃいけない気がするんだよね」
「王座戦に出られるマル秘テクか?」
「そんな情報商材みたいな話はないよ」
「だな」
松平は大きく息をつくと、腕組みをした。
そして、ちょっと笑った。
「雁首そろえて議論しても、王座戦には出られないな。気が滅入るだけだ」
「それを言いたかった」
「ほんとかぁ?」
奥山くんは、ほんとだよ、と言いながら、席を立った。
「日センvs都ノも、ふつうにありえる。そのときはよろしく」
「ああ、ボコボコにしてやる」
奥山くんは手であいさつして、教室を出て行った。
それと入れ替わるように、風切先輩が帰ってきた。
手にはコンビニの袋を持っていた。
テーブルに近づいてくるなり、
「どうした? 奥山のやつ、ニヤニヤしてたが」
と訊いてきた。
私たちは、さっきの会話を伝えた。
風切先輩はサンドイッチの包装をときながら、思案顔になった。
「……なるほどな、考えるより手を動かせ、ってやつか」
私は、どういう意味ですか、とたずねた。
「裏見と松平は、数学にどういうイメージがある?」
唐突な質問。
松平は、厳密、実用的、私は、モデル、尺度と答えた。
風切先輩は、
「松平は、いかにも工学って感じだな。裏見のは、どうしてそのふたつだ? シャクドっていうのがなんなのか、よくわからなかった」
と、深掘りしてきた。
「まずパッと思いつくのが、経済モデルなんですよね。モデルは数学的に作ることが多いので……尺度っていうのは、経済学だと価値尺度が有名です。風切先輩は、そのヒレカツサンドを買うとき、他の商品と比較しませんでしたか?」
「ああ、した」
「そのとき、高いほうのサンドイッチだったか、安いほうのサンドイッチだったか、覚えてます?」
風切先輩は、そういうことか、と納得した。
「値段が数字で書いてないと、高いか安いかわかんない、って話か」
「そうです。そういうのを価値尺度っていうんです。これはお金のすごく重要な機能で、物々交換がなぜ不便なのか、という答えにもなってます」
風切先輩は、
「勉強になる……が、ふたりとも、俺の予想してた答えと違うな。論理的だとか、頭脳だけでやるとか、そういう回答を期待してた」
と言った。
松平は、
「いや、まあ、そう言われると、そういうイメージはありますよ」
と答えた。
「なら話は早い。数学者って、よれよれの私服を着た、いつも数学のことを考えてる変人ってイメージがあるよな。よれよれの私服は事実だ……待て、そういう顔をするな。だけど、いつも数学のことを考えてるわけじゃないし、そもそも数学は考えたらわかる学問じゃない。手を動かせ、つまり、紙とペンでちゃんと計算しろ、って言われる」
私は、ちょっと疑問に思って、口を挟んでしまった。
「数学科の数学って、証明がメインなんじゃ?」
風切先輩は、うなずいた。
「それはその通りだ。新しい体系を考える、自然科学への応用を考える、っていう例外もあるが、基本的には定理の証明が中心だ。だけど、定理を証明するには、いくつかの実例から入らないといけない。具体的な数値を入れたときに成り立つかどうか、とか、どういう傾向が出るか、とか、そういうことだ」
私と松平は、へえ、そうなんですね、という感想だった。
一番抽象的な学問だと思うんだけど。
でも、よくよく考えてみたら、なんだか納得がいった。
松平は、
「言われてみれば、将棋も数学ですよね。どういう分野かはわかんないですが、コンピュータで計算したら、解が出るわけですし。だからといって、盤の前で考え込んでもダメ、と。駒を動かしたら、急に視界がひらけたりしますから」
と言った。
「だろ。王座戦は数学じゃないが、理屈はいっしょだ。複雑な問題は、考えるだけじゃ解決しない。ちょっとずつ具体的に試してみて、初めて前に進める」
風切先輩は、ようやくサンドイッチを食べ始めた。
私たちは邪魔しちゃ悪いと思い、感想戦を再開した。
先輩は食べ終わると、ペットボトルのコーヒーを飲んで、席を立った。
「さーて、手を動かしてくるとするか」
私たちは、がんばってください、と応援した。
風切先輩は背中越しに、親指を立てた。
「次は王座戦予備軍と当たる。こういうのも、手を動かすってことだと思うぜ」




