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凛として駒娘──裏見香子の大学将棋物語  作者: 稲葉孝太郎
第65章 2017年度秋季個人戦2日目(2017年10月22日日曜)
432/496

418手目 手を動かす

 ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!


 私は持ち駒にかるくさわった。

「負けました」

「ありがとうございました」

 チェスクロを止める。

 勝った松平まつだいらは、桂打ちが微妙じゃなかったか、と言った。

 私は、そうね、と認めてから、しばらく検討した。

 けど、ふたりとも手が止まってしまった。

 昼休みの練習将棋。

 がらんとした控え室の会場で、ほかには数人の男子ばかり。

 スキマ時間の有効活用ではあるけれど、どこか空回りしていた。

 その理由も、見当はついていた。

 王座戦予選は目前なのに、個人戦の結果がパッとしないのだ。

 2日目の第1局が終わって、残っているのは風切かざぎり先輩と大谷おおたにさんだけ。

 もちろん、現状が悪いってわけじゃない。3日目まで残った経験があるのは、もともとこのふたりだけだし、2日目の壁が高いのは、承知済み。クジ運もある。

 だけどそれって、これまでと変わりばえがないわけで、まあなんというか、進歩してないといえば、進歩してないわけで。

 私は、

「2週間でなにか変わるわけもないし、しょうがないわよね」

 と言った。

 松平は、

「俺も、その線は追ってない……期待してないといえばウソになるが、こっから爆発的に強くなるのは、現実的じゃないからな。別のルートで、手を打ってはいるんだが……」

 と小声で返した。

「別のルート?」

「情報収集」

 なるほどね、と私は思った。

「で、なにかわかった?」

 松平は椅子にもたれかかって、後頭部に両手をまわした。

「ダメだ。もっと早く動けばよかった。三宅みやけ先輩もさぐりを入れてるが、無理みたいだ。星野ほしのからは、ちょっと入ってくる」

 Aに上がるまえの段階が、スパイのタイムリミットだったみたい。

 警戒対象に入ってしまった、ということだ。

 星野くんは都ノみやこのの幹事で、幹事会に出ている。多少は融通が利くのだろう。それにあの性格だから、うまく立ち回っているっぽい。だけど、王座戦に役立ちそうな情報は、ほとんどないということだった。

 私は声を落として、

赤学あかがくあたりから、なにか聞いてない?」

 と確認を入れた。

 松平は姿勢をもどして、今度は片肘かたひじをテーブルについた。

 手でほほを支える。

わきは、ここにきて急に渋くなった。火村ほむらは?」

「火村さんは、考えが読みにくいのよね。ノイマンさんは、あんな感じだし」

「聖ソのブレインは明石あかしだろうから、アプローチはむずかし……」

 そのときだった。

 横合いから、いきなり声をかけられた。

 日センの奥山おくやまくんだった。

 松平は挙動不審になって、

「いや、これはだな……」

 と、しどろもどろになった。

 奥山くんは笑いながら、

「控え室でヤバい話をするからだぞ。座っていいか?」

 と言って、となりのテーブルをゆびさした。

 私たちは許可した。

 奥山くんは腰をおろすと、すぐに、

「王座戦の相談?」

 と訊いてきた。

 私と松平は顔を見合わせたあと、

「まあ……」

 と返した。

 奥山くんは破顔一笑して、

「議論しても王座戦は出れないよ」

 と言った。

 まあなんという直球。

 松平は、

「わかっちゃいるが、最善は尽くしたい」

 と答えた。

 奥山くんは足を組んで、右手をかるく挙げた。

「最善を尽くすっていうのは、効果を最大化するってことだろう。細部にこだわるって意味じゃない。大学受験で最善を尽くしたいなら、勉強することが第一。ペンにこだわるのは二の次だ」

 松平は、

「書きにくいペンで集中できないのは、ふつうにリスクだと思うぞ」

 と反論した。

「都ノは、そういうレベルで戦ってる?」

 松平は、すこしばかりムスッとした。

 けど、肩をすくめて、

「ボーダーラインになってからこだわれ、か」

 と嘆息した。

 奥山くんは、マジメな顔になった。

「べつに侮辱するつもりはないんだ。気を悪くしたなら、謝る。だけど、俺たちがやってるのは将棋だろ。将棋が強くなくっちゃ、スタート地点には立てない。プロが散々教えてくれてることだ」

 奥山くんの言う通りだった。

 土俵に乗れていない。

 級位者が道具にこだわっても、有段者には勝てないのといっしょだ。

 将棋には、そういう非情な部分が、たしかにあった。

 でも、納得できない部分──というよりも、そうするしかない部分もあった。

 私は、

「今から棋力向上は難しいと思う」

 と指摘した。

 奥山くんも、それは認めた。

「もちろん、今から土俵にあがろうとしても、ムリがある」

「じゃあ、細部で工夫するしかなくない?」

 奥山くんは、両手の五指を組んで、やや身を乗り出した。

「ふたりは、つじ先輩の知り合いだったよね?」

 私たちは、そうだ、と答えた。

「これは俺が入学する前の話だけど、おととし、日センは王座戦に出た。ひさしぶりの快挙だよ。王座戦出場を目指そう、って言い出したのは、辻先輩だったらしい。でも、辻先輩が主将のときは、出られなかった。ある部員が、残念でしたね、ってなぐさめたとき、辻先輩は、なんて言ったと思う?」

 私たちは、わからない、と答えた。

 奥山くんは、すこしタメを作ったあとで、

「答えは……秘密だ」

 と、はぐらかした。

 松平はあきれて、

「おーい、からかいに来たのか?」

 と声を出した。

「ハハハ、ごめんごめん。これは今、教えちゃいけない気がするんだよね」

「王座戦に出られるマル秘テクか?」

「そんな情報商材みたいな話はないよ」

「だな」

 松平は大きく息をつくと、腕組みをした。

 そして、ちょっと笑った。

「雁首そろえて議論しても、王座戦には出られないな。気が滅入るだけだ」

「それを言いたかった」

「ほんとかぁ?」

 奥山くんは、ほんとだよ、と言いながら、席を立った。

「日センvs都ノも、ふつうにありえる。そのときはよろしく」

「ああ、ボコボコにしてやる」

 奥山くんは手であいさつして、教室を出て行った。

 それと入れ替わるように、風切先輩が帰ってきた。

 手にはコンビニの袋を持っていた。

 テーブルに近づいてくるなり、

「どうした? 奥山のやつ、ニヤニヤしてたが」

 と訊いてきた。

 私たちは、さっきの会話を伝えた。

 風切先輩はサンドイッチの包装をときながら、思案顔になった。

「……なるほどな、考えるより手を動かせ、ってやつか」

 私は、どういう意味ですか、とたずねた。

裏見うらみと松平は、数学にどういうイメージがある?」

 唐突な質問。

 松平は、厳密、実用的、私は、モデル、尺度と答えた。

 風切先輩は、

「松平は、いかにも工学って感じだな。裏見のは、どうしてそのふたつだ? シャクドっていうのがなんなのか、よくわからなかった」

 と、深掘りしてきた。

「まずパッと思いつくのが、経済モデルなんですよね。モデルは数学的に作ることが多いので……尺度っていうのは、経済学だと価値尺度が有名です。風切先輩は、そのヒレカツサンドを買うとき、他の商品と比較しませんでしたか?」

「ああ、した」

「そのとき、高いほうのサンドイッチだったか、安いほうのサンドイッチだったか、覚えてます?」

 風切先輩は、そういうことか、と納得した。

「値段が数字で書いてないと、高いか安いかわかんない、って話か」

「そうです。そういうのを価値尺度っていうんです。これはお金のすごく重要な機能で、物々交換がなぜ不便なのか、という答えにもなってます」

 風切先輩は、

「勉強になる……が、ふたりとも、俺の予想してた答えと違うな。論理的だとか、頭脳だけでやるとか、そういう回答を期待してた」

 と言った。

 松平は、

「いや、まあ、そう言われると、そういうイメージはありますよ」

 と答えた。

「なら話は早い。数学者って、よれよれの私服を着た、いつも数学のことを考えてる変人ってイメージがあるよな。よれよれの私服は事実だ……待て、そういう顔をするな。だけど、いつも数学のことを考えてるわけじゃないし、そもそも数学は考えたらわかる学問じゃない。手を動かせ、つまり、紙とペンでちゃんと計算しろ、って言われる」

 私は、ちょっと疑問に思って、口を挟んでしまった。

「数学科の数学って、証明がメインなんじゃ?」

 風切先輩は、うなずいた。

「それはその通りだ。新しい体系を考える、自然科学への応用を考える、っていう例外もあるが、基本的には定理の証明が中心だ。だけど、定理を証明するには、いくつかの実例から入らないといけない。具体的な数値を入れたときに成り立つかどうか、とか、どういう傾向が出るか、とか、そういうことだ」

 私と松平は、へえ、そうなんですね、という感想だった。

 一番抽象的な学問だと思うんだけど。

 でも、よくよく考えてみたら、なんだか納得がいった。

 松平は、

「言われてみれば、将棋も数学ですよね。どういう分野かはわかんないですが、コンピュータで計算したら、解が出るわけですし。だからといって、盤の前で考え込んでもダメ、と。駒を動かしたら、急に視界がひらけたりしますから」

 と言った。

「だろ。王座戦は数学じゃないが、理屈はいっしょだ。複雑な問題は、考えるだけじゃ解決しない。ちょっとずつ具体的に試してみて、初めて前に進める」

 風切先輩は、ようやくサンドイッチを食べ始めた。

 私たちは邪魔しちゃ悪いと思い、感想戦を再開した。

 先輩は食べ終わると、ペットボトルのコーヒーを飲んで、席を立った。

「さーて、手を動かしてくるとするか」

 私たちは、がんばってください、と応援した。

 風切先輩は背中越しに、親指を立てた。

「次は王座戦予備軍と当たる。こういうのも、手を動かすってことだと思うぜ」

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