406手目 長考のタイミング
うーん……わからない。
分岐が多すぎる。
もう5分近く考えてるけど、選択肢が狭まってこない。
3五歩を入れるかどうかも、まだ迷っていた。
入れたときの効果が、微妙というか……なんというか……。
入れるメリットは、こっちの攻めが細くなってきたとき、3筋に歩を垂らせること。例えば、ここから単に4五同銀だと、同桂、5五角、6五歩、3七角成、5三銀、3八銀、5九飛。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
ここで5九馬は効かない。同金、3九飛が、痛くないからだ。4一角と打ち返されて、終了。4二金左、5二角成以下は、支え切れない。だから3六馬と引くわけだけど、6四銀成、4五馬のあと、後手は3筋や4筋に歩を垂らせない。
これが、3五歩を入れたい理由。一方で、入れたくない理由もあった。それは、3筋に傷ができること。どこかで3四歩とされるリスクが、ゼロじゃない。
私はチェスクロを見た。
残り時間は、15分を切っている。池田さんは18分。
今の私の長考で、持ち時間は逆転した。
「……」
「……」
もっと単純に比較しよう。
3五歩と突かないときのデメリットは、はっきりしている。
具体的な手順を言える。
突いたときのデメリットは、あいまい。
となれば──
スッ
突く。
池田さんは、大きく息を吸った。
どっちを本命で読んでいたのかは、わからない。
腕組みをして、右肩をやや前に出したかっこうで、盤に近づいた。
そして上半身を引いて、姿勢を正す。
わずか30秒で、同歩。
本命で読まれていたほうかも。
だけど、後悔はしていない。そのまま4五銀。
同桂、5五角、6五歩、3七角成、5三銀。
読み通りに進む。
池田さんは、5三銀の打ち込みに、自信をみせていた。
私も3八銀と打ち込む。
5九飛──この飛車を取れないのがなあ。
私は6五歩で、先手の攻めを緩和した。
パシリ
先手、攻勢に。
でも、これは受け流せるはず。
同玉、6四歩、6二玉。
池田さんは、2三歩成、同金、4四歩と絡めてきた。
「3三桂」
桂馬をぶつける。
同桂成なら、手順に金を寄れる。
池田さんは、この誘いに乗らなかった。
4八金打と受けてきた。
んー。
今度は私が嘆息する番だった。
ここでギアチェンジか……合理的ではある。
4三歩成から崩していくのは、先手の駒が足りなさすぎる。
せめて角を入手して、という構想は、棋理的にも納得。
6四馬が幸便かな、と思う。これが第一感。
でもなあ、3三桂成、同金、3八金、6六桂、2九飛──
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
なーんかパッとしないのよね。
2二飛成が王手金取りだから、7三玉の早逃げが必要。
そのあとは、5六桂、4六馬で、馬を追い回される。
成果は、6四歩の拠点を払っただけ……いや、拠点はおっきいか。
残り時間は、10分を切った。
長考できる回数は、おそらくあと1回。
でも、ここは長考のポイントではないと、私の勘は言っていた。
もうすこしあと、終盤の入り口に、時間を残したい。
「……4五桂」
こっちを選択する。
池田さんは、この手を意外に思ったらしい。
ん、という感じだった。
そういう表情攻めはNG。悪手じゃない自信はある。
池田さん、小考。
そんなに手が広いわけじゃ、ない。
3七金か、4三歩成くらいじゃない?
その先を読んでいそう。
10分を切ったところで、3七同金。
同桂成、4三歩成、5五桂。
池田さんは、5六銀と上がった。
次に5三とがある。
同玉は7一角の王手飛車。
ここは受けておく。
7三銀打。
4四角、7二玉、5三と、8三玉、6三と。
一手一手に、すこしずつ時間を使っていく。
右玉のなかでも、比較的安全なかたちに移行できた。
とはいえ、そろそろ反撃しないと、マズい。
私は、いよいよ長考のしどころだと判断した。
残り7分のうち、5分まで使うことに決めた。
手も絞る。4七桂成か、4六歩。
前者は7一角成に4八金と、べったり張り付く。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これがどれくらい厳しいか。
私のほうもかなり危ないから、速度計算が重要になってくる。
例えば、6八金左、5九金、同金、2九飛みたいなのは、ヌルい。7二金で後手が間に合わない。4八成桂、7三と、同桂、8二馬以下は詰む。7三同桂としなければ詰まないけど、7四と、同玉、6三銀、8四玉、8二馬で敗勢。
となれば、6八金左に、5八成桂と入るしかない。以下、同金、4七銀成(5九金は、さっきと似たようなかたちで、後手が悪い)、同銀、同成桂、4八金、6七銀。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
一直線に進めるなら、こう。
先手は寄らない……かな。後手も寄らない。
これは形勢判断がむずかしい。
私は4七桂成の順を切り上げて、4六歩に取り掛かった。
4六歩は、7一角成、4七歩成、7三と、同桂、6三銀に、4二飛と回れる。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
金を渡さないから、飛車が移動しても、すぐには寄らないのだ。飛車が逃げてしまえば、7二銀成は空振りになる。
この局面、先手は手に困っているのでは?
さっきの読み筋より、だいぶ手ごたえがあった。
でも、今の進行が、先手の最善とは思えない。
7一角成じゃなくて、単に4八歩と受けられる手が、気になった。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
4七歩成、同歩、同桂成なら、最初からそうしろって話なのよね。
4七歩成、同歩、4八金もイマイチ。攻撃力は、4七桂成+4八金のほうが高い。
じゃあ、4六歩にメリットはないのでは、ってなりそうだけど、少なくともひとつある。それは、4六歩、4八歩のあと、4九金を打てるという点だ。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
4六歩の場合は、飛車を直接的に狙っていい。なぜかっていうと、5五に桂馬が残っているから。この桂馬が、6七の地点を封鎖している。飛車をもらったあとの攻めが、4七桂成のときと違う。
シンプルに飛車を狙っていいなら、わかりやすい。
ここまで考えて、私はチェスクロを確認した。
ちょうど残り2分を切ろうとするところだった。
予定の5分が終了。
私は4六歩と垂らした。
池田さんは、この手に軽く首をかしげた。
でもすぐに、ああ、という独り言。
先手の残り時間は、まだ6分ある。
これを使ってくれるかどうか──あ、使わないっぽい。
池田さんは、4八歩と打った。
4九金。
これにも10秒ほどしか考えなくて、7三とと入った。
同桂、6三歩成、同銀、5三角成。
7四銀と、いったん逃げる。
池田さん、ここで長考。
このタイミングで? ……あ、そういうことか。
と金捨ては、まちがったときのダメージが小さいから、読みを省略したんだ。
あの時点では、持ち駒もなかったし、合理的な行動だった。
私は池田さんの時間を使って、読み進めた。
候補としては、7一銀と打つか、4九飛と切るか、このあたり。
7一銀が本筋なんじゃないかな、というわけで、そっちから読む。
……………………
……………………
…………………
………………あれ、合流する?
7一銀、8一飛で止まるから、どのみち飛車は切るしかないのか。
じゃあ、4九飛でもいっしょ……じゃない。
4九飛、同銀不成の次は、7一銀じゃない。5九金だ。
そこで後手の手番。まだ7一銀は入らない。
じゃあ……やっぱり7一銀が先では?
決めるだけ決めてくるはず。
私は、7一銀、8一飛、4九飛を本命で読んだ。
「……」
「……」
3分が経過。
池田さんは、微動だにせず、じっと盤を見つめている。
4分が経過。
池田さんは水を飲んで、調子をととのえた。
右手のひとさしゆびを軽く動かして、リズムを取っている。
読みがまとまってきたっぽい。
ついに、時間が並んだ。
パシリ




