400手目 一難去って
電電理科大学で解散した私たちは、三々五々になった。
飲みにいくひと、帰宅するひと、遊びにいくひと。
私と大谷さん、それに松平の3人は、九段下に残った。
近くのファミレスで、緊急会議。
大谷さんは、
「本日はお疲れ様でした。自力昇級にむけて、大きな一歩だったと思います」
と、私たちをねぎらった。
でも、すぐに話題を変えた。
「しかしながら、課題が残る一日でもありました」
松平は、もうしわけなさそうに、
「すまん、このタイミングで不調になると思ってなかった」
と謝った。
「調子が優れないという評価で、よろしいのですか?」
「ああ、競って負け、じゃなくて、見落としが出る」
私の不調のパターンと、いっしょか。
というか、プロの不調も、だいだいこのパターンだと思う。
普段なら見える手が見えなくなって、いきなり負けになる、と。
大谷さんは、
「松平さんの調子が来週どうなるか、見極めてからに致しましょう。もうひとつの問題のほうが、急を要します」
と続けた。
もうひとつの問題──愛智くんの位置づけだ。
大谷さんは、
「京浜戦に鑑みて、愛智さん対策が露骨にとられていることは、ほぼ間違いないように思います」
と前置きした。
私と松平も、うなずいた。
観戦に回っていた松平は、
「序盤から研究局面に誘導されて、中盤では愛智がすでに悪かった」
と伝えた。
私も、
「さっき、1回戦から5回戦までの棋譜を、もう一回見てみてみたの。全校、そういう対策をとってるみたい」
とつけくわえた。
都ノには、大会の棋譜を集めたファイルがある。
重要な対局を偵察して、こつこつ収集したものだ。
こういうファイルは、他の大学にもあるはずだった。
愛智くんの棋風はそこから漏れて、あれこれ研究されてるっぽい。
じゃあ、大谷さんと風切先輩は、なんでマークされていないのか、という点だけど、ふたりの棋力が高すぎて、対策の効率が悪いと判断されているのだろう。
大谷さんは、
「3人の意見が一致したので、あとで愛智さんにお伝えしておきます。愛智さんがそれをどうお考えになられるのかは、未知数なところもありますが、数日あれば、対策の取りようもあるかと」
と提案した。
私たちはそれに賛成した。
一難去って、また一難。
私のスランプ脱出は、ギリギリ間に合った、という感じ。
あれだけベストなオーダーで4-3だと、残りもキツい。
大谷さんは、紙ナプキンに、対赤学のオーダーを書き出した。
青葉 裏見 車田 大谷 風切 愛智 松平
「当初の予定はこれでしたが、いかがなさいますか?」
このシフトは、vs脇を避ける並びだ。
脇くんは、1番席か2番席が中心。
下へ思いっ切りズラして、4番席から7番席までで4勝を目指す。
松平は、
「脇は、読んでくると思う。4番席に来るんじゃないか?」
と指摘した。
私は、
「それはそれで、問題なくない? 上に当て馬が来るし」
と返した。
松平も納得した。
「赤学は、まだ層が薄い。やっぱり立志戦がキモだな」
大谷さんは、立志戦で予定していたオーダーを書き出した。
裏見 大谷 風切 愛智 平賀 松平 南
大谷さんは、
「松平さんの調子が戻らない場合、星野さんと交代していただきます」
と言って、書き変えた。
裏見 大谷 風切 愛智 平賀 星野 南
私たちは、しばらくのあいだ、オーダー表とにらめっこした。
現状を整理する。
立志は、ベストオーダーを強さ順で並べると、
4 3 5 1 6 2 7
たぶん、こう。
そのままこっちのベストメンバーを当てたら、立志のエースvs風切先輩が実現する。もちろん、立志はこれを避けたいはず。都ノは下にずらしにくくて、上にずらしやすい。立志にもこれは簡単に分かるから、エースを6番席にずらして、上のほうを薄くするんじゃないか、と。一例として、
9 4 8 3 5 1 2
これ。風切先輩が6番席まで追っかけるには、青葉くん、車田くん、三宅先輩を同時に出さないといけないから、むずかしい。だから立志としては、安心してずらせる。
ところが今は、こうしてこないんじゃないか、という予想にシフトしてきた。
理由は、今日の結果だった。
松平は、
「京浜戦は、ベストオーダーで4勝しかできなかった。立志も気づいたと思う。だとすれば、普通に圧殺路線で来る可能性も出てきた。さっきの並びだと、立志が上4枚で全敗する可能性があるし、俺たちの狙いもそれだった」
と、まとめた。
大谷さんは、
「仮にこの予想通りでくるとしても、3番手の波光さんに愛智さんが勝てるかどうか、ややおぼつかないように思います。イチから練り直すのが妥当かと」
私たちは無言になった。
自力優勝の芽は出てきた。
でも、気持ちは楽にならない。
松平は、前髪をくしゃくしゃにしながら、
「俺も調子を戻すように努力するし、みんなでがんばるしかないな」
と言って、注文のボタンを押した。
○
。
.
翌日、私は部室から経済学部棟まで、走っていた。
ゆっくりしていたら、時間を読み間違えた。
小規模の講堂だから、遅れると目立つのだ。
息を切らせて到着したときには、開始1分前になっていた。
いつもの席に座る。
前から6列目の、窓に近いほう。
粟田さんも、先に来ていた。
私はとなりに座りながら、
「セーフ」
と言った。
ちょうどチャイムが鳴った。
先生は、まだ来ていなかった。
「香子ちゃん、どうしたの? 寝坊?」
「部活」
「そんなに忙しいの?」
まあ、実感が湧かないとは思う。
「大会中だから、はいご自由に、とはいかないの」
「あ~、麻雀でも大会はめんどうだからね」
伝わったのか、伝わらなかったのか、よくわからない。
ま、いっか。
小物を取り出していると、粟田さんは、パッと思い出したように、
「そうだ、ゼミの説明会って、どことどこ見る?」
と訊いてきた。
私は手が止まった──完全に失念していた。
都ノ大学では、3年生からゼミナールに所属する。
強制じゃないけど、ほとんどの学生は応募する。好きなことが勉強できるから、というひともいれば、他の科目で単位を埋めるのが面倒、というひともいる。
どういうゼミがあるのかは、すでに教務課から発表されていた。
「んー、気になってるのは、ちらほらあるんだけど……粟田さんは?」
「私は河合ゼミが第一希望」
カワイ──行動経済学のひとか。
あれって、再現性がどうのこうので、最近揉めてる分野よね。
個人的には、計量系のほうが好み。
そのことを伝えると、粟田さんは、
「数理モデルを作っても、現実とマッチしてる感じがしなくない?」
と首をかしげた。
「現実とマッチしてるかどうか、そういうのが議論できてる時点で、ちゃんとした科学だと思わない? オカルトは、そもそも検証のしようがないから」
もっともらしい説明とか、もっともらしい理屈とか、そういうのは感覚の問題。
まちがってると言えるのは、ある意味では重要なのだ。
でも、粟田さんは、
「そうかなあ。まちがってるとかまちがっていないとか、そういうのもあとでころころ変わるよね?」
と、あんまり納得していなかった。
こういうのは神学論争になるから、やめておく。
……………………
……………………
…………………
………………あれ? 先生が来ない。
開始のチャイムから、5分以上経っていた。
どうしたのかしら──あ、だれか来た。
教務課の窓口で、よくみかける男性だった。
「荒川先生の国際金融論は、休講になりました」
だーッ! 走ってきた意味ッ!




