379手目 ラストシーン
ああ、飲んだ飲んだ。
店を出たあと、俺たちは、大きな川沿いを散策していた。
夜のH多も、いいねえ。鴨川を歩いているときとは、違った風情がある。
藤堂と大山は、二軒目に行っちゃった。
残った5人で、ヨンちゃんに観光案内してもらう。
俺とヨンちゃんと宗像が先頭を、於保と駒込がうしろを歩いている。
色とりどりのネオンが、川面を照らしていた。
深夜だというのに、喧騒は収まらない。
道中、あれが美味しかった、これが美味しかったと、お酒の論評をした。
なんだかんだで、俺は麦焼酎が一番美味しかったかな。
芋焼酎は、匂いがどうもダメ。
ヨンちゃんは、日本酒の銘柄をあげた。
ちょっと分けてもらったやつだ。あれも美味しかったな。
宗像はソフトドリンクを飲んでいたから、この会話に入れない。
というわけで、このあたりにしておく。
話は東西フレッシュ大学将棋に移った。
ヨンちゃんは、
「2-3で負けたみたいだけど、内容はどうだったの?」
とたずねた。
俺は宗像に任せる。引率だったからな。
宗像は、雑誌に掲載された通りだ、と答えた。
ヨンちゃんは、
「記事だけじゃ、よくわかんなかったんだよね。棋譜は熱戦だったかな」
とつけくわえた。
どうやら、あの場の雰囲気を知りたいらしかった。
でも、宗像は不愛想に、
「将棋は棋譜がすべてだろ」
と言った。
ま、そういう考え方もあるよな。
ヨンちゃんも笑った。
「アハハ、合理主義者だね」
「俺はナニ主義者でもない」
「宗像くんさ、将棋めちゃくちゃ強いんでしょ? こんど指してよ」
将棋バトルウォーズで指そう、と、ヨンちゃんは誘った。
アカウントを持っていない、と宗像は答えた。
「どうやって練習してるの?」
「練習? ……部室で指してるだけだ」
ヨンちゃんは驚いた。
そりゃそうだよな。
宗像が詰将棋を解いてるとか、そういうシーンは見たことがない。
もちろん、こっそり練習している可能性はある。
ただ、宗像の性格からして、そんなことするかな、という疑問は残った。
ヨンちゃんは、あまり深入りしなかった。またフレッシュ将棋に話をもどした。
「関東は強かった?」
「関東が強くないなら、関西が弱いってことだな」
ヨンちゃんは、夜景へ流し目をした。
目を細めて、あやしげな笑みを浮かべる。
「その可能性って、どれくらいある?」
宗像は、
「なんだ、九州は出てないから、不満があるのか?」
と勘繰った。
ヨンちゃんは両手をあげて、笑った。
「そんなことないよ……と言いたいところだけど、ちょっとはある」
正直だな。
まあ、当然の感想か。東西と銘打ってるのに、出てる地域は限定的だ。
宗像は、道ばたの石を蹴った。
ぽちゃんと、水の音が聞こえた。
「あんなの、出て面白いか?」
宗像はそう言って、空をあおいだ。
俺も上を見る──街の光で、星は見えなかった。
ヨンちゃんは、その質問には答えなかった。
「宗像くんって、なんだかアウトローのオーラがあるよね」
「アウトロー?」
「韓国映画には、すごくバイオレンスな作品があるんだ。そういう作品の登場人物には、アウトローの香りがする。宗像くんと、どこか似ている」
「俺にそんな腕力はないよ」
「だけど、バランス感覚はよくない?」
ヨンちゃんは、独特の観察眼を持っていた。
俺に初めて会ったときも、指が長いね、と言ってきた。
人体に興味があるっぽい。
一方、宗像は苦笑した。
急に、河岸の欄干へ乗った。
おい、なにやってんだ。
川に飛び込むのかと思って、俺はあせった。
けど、宗像はそのまま立ち上がって、欄干の上でバランスをとった。
びっくりさせるなよ。
そんな実証実験しなくても、いいだろ。
そう思った瞬間、宗像は欄干のうえでバク転した。
悲鳴が上がる。
コンマ数秒のアクロバット。
宗像は片足で欄干に着地した。
ポケットに手を突っ込んで、高笑いした。
「これやると、みんなビビるな」
そりゃビビるだろ。
足を滑らせたら、どうするんだ。
肝を冷やした俺とは対照的に、ヨンちゃんは拍手した。
「やっぱりね。スポーツもできるんじゃないの?」
宗像は地面に飛び降りた。
これがまたサマになっている。
「興味ない」
「そっか、ま、人それぞれだしね」
「で、アウトローとバランス感覚が、どう関係するんだ?」
「あ、ごめん、そこのふたつは、文脈が切れてる」
そっか、と、宗像は答えた。
その返答の仕方には、やや肩透かしなところがあった。
そして、急に話題を転じた。
「そもそもさ、ヨンフンが言ってるバイオレンス映画って、なんだ?」
「日本語のタイトルは忘れちゃったけど、살인의 추억とか。봉준호は知ってる?」
「ポン・ジュノのことか?」
「あ、そうそう、観たことある?」
宗像は、『殺人の追憶』を観たことがある、と答えた。
ヨンちゃんは、指をパチリと鳴らした。
「思い出した。それが日本語のタイトル」
宗像は、口笛を吹いた。
俺の知らない曲だった。
ヨンちゃんは、
「살인의 추억のメインタイトルだね」
と言った。
宗像は吹くのをやめた。
いつもの不機嫌そうな表情をやめて、どこか嬉しそうな気配があった。それは、褒められたことに対してでも、共通の話題があったことに対してでもなく、映画のワンシーンを思い出して、それを鑑賞しているような、遠いまなざしの笑みだった。
「あの映画のラストシーンを、おぼえてるか?」
「もちろん」
「黄金色の草原のそばで、男は……過去になってしまったはずの事件と、ふたたび巡り合う。だけどそれは、もう取り返しのつかない、じぶんの手の届かない巡り合いかただ。思い出がちょっとのあいだ、現実の顔を借りて現れたような、そういうシーンだった」
ヨンちゃんは、茶化すような雰囲気を消した。
H多の風が吹く。
「なにか、そういう経験があるかのような、言い方だね」
「ヨンフン、それはちがうぜ。そんなできごとは、リアルにはないんだよ。思い出は思い出、現実は現実だ。思い出は二度と繰り返さないし、現実はそのままじゃ記憶されない。だからあの刑事みたいなことは、俺たちには起こらないんだ。それが幸せなことなのかどうかは、観客が決めればいい」
宗像の語り口に、俺は違和感をおぼえた。
そしてその違和感を、ヨンちゃんは代弁してくれた。
「宗像くん、なんだかひとが変わったみたいにしゃべるね」
宗像はハッとなって──ニュースボーイキャップを、目深にかぶった。
「……しゃべり過ぎた」
「ごめん、注意したわけじゃないよ。むしろ、さっきのきみは、ナチュラルだった」
宗像は返事をしなかった。
照れてるのか? ……わからない。
単に気まずくなった可能性もある。
だけど、こんな感じの宗像、初めて見たな。
案外にオタクなのか? 早口じゃなかったが。
そのあと俺たちは、今まで見た映画の話をした。
宗像は、いろんな映画を知っているらしかった。
でも、さっきみたいに詳しく話してくれなかった。
なあ宗像、もうちょっと素直になろうぜ。
それとも、俺たちのほうが、素直じゃないのか?
藤堂がおまえを連れてきてくれて、ほんとうによかったよ。
だけどこんなセリフ、一生言わないだろうな。
H多の夜が、だんだんと深くなっていく。
それはまるで、この足もとを流れる、川のような深さだった。




