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凛として駒娘──裏見香子の大学将棋物語  作者: 稲葉孝太郎
第58章 こちら申命館大学将棋部(2017年8月9日月曜)
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379手目 ラストシーン

 ああ、飲んだ飲んだ。

 店を出たあと、俺たちは、大きな川沿いを散策していた。

 夜のH多も、いいねえ。鴨川を歩いているときとは、違った風情がある。

 藤堂とうどう大山おおやまは、二軒目に行っちゃった。

 残った5人で、ヨンちゃんに観光案内してもらう。

 俺とヨンちゃんと宗像むなかたが先頭を、於保おぼ駒込こまごめがうしろを歩いている。

 色とりどりのネオンが、川面を照らしていた。

 深夜だというのに、喧騒は収まらない。

 道中、あれが美味しかった、これが美味しかったと、お酒の論評をした。

 なんだかんだで、俺は麦焼酎が一番美味しかったかな。

 芋焼酎は、匂いがどうもダメ。

 ヨンちゃんは、日本酒の銘柄をあげた。

 ちょっと分けてもらったやつだ。あれも美味しかったな。

 宗像はソフトドリンクを飲んでいたから、この会話に入れない。

 というわけで、このあたりにしておく。

 話は東西フレッシュ大学将棋に移った。

 ヨンちゃんは、

「2-3で負けたみたいだけど、内容はどうだったの?」

 とたずねた。

 俺は宗像に任せる。引率だったからな。

 宗像は、雑誌に掲載された通りだ、と答えた。

 ヨンちゃんは、

「記事だけじゃ、よくわかんなかったんだよね。棋譜は熱戦だったかな」

 とつけくわえた。

 どうやら、あの場の雰囲気を知りたいらしかった。

 でも、宗像は不愛想に、

「将棋は棋譜がすべてだろ」

 と言った。

 ま、そういう考え方もあるよな。

 ヨンちゃんも笑った。

「アハハ、合理主義者だね」

「俺はナニ主義者でもない」

「宗像くんさ、将棋めちゃくちゃ強いんでしょ? こんど指してよ」

 将棋バトルウォーズで指そう、と、ヨンちゃんは誘った。

 アカウントを持っていない、と宗像は答えた。

「どうやって練習してるの?」

「練習? ……部室で指してるだけだ」

 ヨンちゃんは驚いた。

 そりゃそうだよな。

 宗像が詰将棋を解いてるとか、そういうシーンは見たことがない。

 もちろん、こっそり練習している可能性はある。

 ただ、宗像の性格からして、そんなことするかな、という疑問は残った。

 ヨンちゃんは、あまり深入りしなかった。またフレッシュ将棋に話をもどした。

「関東は強かった?」

「関東が強くないなら、関西が弱いってことだな」

 ヨンちゃんは、夜景へ流し目をした。

 目を細めて、あやしげな笑みを浮かべる。

「その可能性って、どれくらいある?」

 宗像は、

「なんだ、九州は出てないから、不満があるのか?」

 と勘繰った。

 ヨンちゃんは両手をあげて、笑った。

「そんなことないよ……と言いたいところだけど、ちょっとはある」

 正直だな。

 まあ、当然の感想か。東西と銘打ってるのに、出てる地域は限定的だ。

 宗像は、道ばたの石を蹴った。

 ぽちゃんと、水の音が聞こえた。

「あんなの、出て面白いか?」

 宗像はそう言って、空をあおいだ。

 俺も上を見る──街の光で、星は見えなかった。

 ヨンちゃんは、その質問には答えなかった。

「宗像くんって、なんだかアウトローのオーラがあるよね」

「アウトロー?」

「韓国映画には、すごくバイオレンスな作品があるんだ。そういう作品の登場人物には、アウトローの香りがする。宗像くんと、どこか似ている」

「俺にそんな腕力はないよ」

「だけど、バランス感覚はよくない?」

 ヨンちゃんは、独特の観察眼を持っていた。

 俺に初めて会ったときも、指が長いね、と言ってきた。

 人体に興味があるっぽい。

 一方、宗像は苦笑した。

 急に、河岸の欄干へ乗った。

 おい、なにやってんだ。

 川に飛び込むのかと思って、俺はあせった。

 けど、宗像はそのまま立ち上がって、欄干の上でバランスをとった。

 びっくりさせるなよ。

 そんな実証実験しなくても、いいだろ。

 そう思った瞬間、宗像は欄干のうえでバク転した。

 悲鳴が上がる。

 コンマ数秒のアクロバット。

 宗像は片足で欄干に着地した。

 ポケットに手を突っ込んで、高笑いした。

「これやると、みんなビビるな」

 そりゃビビるだろ。

 足を滑らせたら、どうするんだ。

 肝を冷やした俺とは対照的に、ヨンちゃんは拍手した。

「やっぱりね。スポーツもできるんじゃないの?」

 宗像は地面に飛び降りた。

 これがまたサマになっている。

「興味ない」

「そっか、ま、人それぞれだしね」

「で、アウトローとバランス感覚が、どう関係するんだ?」

「あ、ごめん、そこのふたつは、文脈が切れてる」

 そっか、と、宗像は答えた。

 その返答の仕方には、やや肩透かしなところがあった。

 そして、急に話題を転じた。

「そもそもさ、ヨンフンが言ってるバイオレンス映画って、なんだ?」 

「日本語のタイトルは忘れちゃったけど、살인의サリネエ 추억チュオクとか。ポン준호ジュンホは知ってる?」

「ポン・ジュノのことか?」

「あ、そうそう、観たことある?」

 宗像は、『殺人の追憶』を観たことがある、と答えた。

 ヨンちゃんは、指をパチリと鳴らした。

「思い出した。それが日本語のタイトル」

 宗像は、口笛を吹いた。

 俺の知らない曲だった。

 ヨンちゃんは、

살인의サリネエ 추억チュオクのメインタイトルだね」

 と言った。

 宗像は吹くのをやめた。

 いつもの不機嫌そうな表情をやめて、どこか嬉しそうな気配があった。それは、褒められたことに対してでも、共通の話題があったことに対してでもなく、映画のワンシーンを思い出して、それを鑑賞しているような、遠いまなざしの笑みだった。

「あの映画のラストシーンを、おぼえてるか?」

「もちろん」

「黄金色の草原のそばで、男は……過去になってしまったはずの事件と、ふたたび巡り合う。だけどそれは、もう取り返しのつかない、じぶんの手の届かない巡り合いかただ。思い出がちょっとのあいだ、現実の顔を借りて現れたような、そういうシーンだった」

 ヨンちゃんは、茶化すような雰囲気を消した。

 H多の風が吹く。

「なにか、そういう経験があるかのような、言い方だね」

「ヨンフン、それはちがうぜ。そんなできごとは、リアルにはないんだよ。思い出は思い出、現実は現実だ。思い出は二度と繰り返さないし、現実はそのままじゃ記憶されない。だからあの刑事みたいなことは、俺たちには起こらないんだ。それが幸せなことなのかどうかは、観客が決めればいい」

 宗像の語り口に、俺は違和感をおぼえた。

 そしてその違和感を、ヨンちゃんは代弁してくれた。

「宗像くん、なんだかひとが変わったみたいにしゃべるね」

 宗像はハッとなって──ニュースボーイキャップを、目深にかぶった。

「……しゃべり過ぎた」

「ごめん、注意したわけじゃないよ。むしろ、さっきのきみは、ナチュラルだった」

 宗像は返事をしなかった。

 照れてるのか? ……わからない。

 単に気まずくなった可能性もある。

 だけど、こんな感じの宗像、初めて見たな。

 案外にオタクなのか? 早口じゃなかったが。

 そのあと俺たちは、今まで見た映画の話をした。

 宗像は、いろんな映画を知っているらしかった。

 でも、さっきみたいに詳しく話してくれなかった。

 なあ宗像、もうちょっと素直になろうぜ。

 それとも、俺たちのほうが、素直じゃないのか?

 藤堂がおまえを連れてきてくれて、ほんとうによかったよ。

 だけどこんなセリフ、一生言わないだろうな。

 H多の夜が、だんだんと深くなっていく。

 それはまるで、この足もとを流れる、川のような深さだった。

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