38手目 目の前のターゲット
10分後、私たちは、電電理科大学そばのファーストフード店に寄っていた。どうやら将棋関係者の行きつけらしく、他大の学生もちらほら見かけた。雰囲気で分かるし、テーブルに将棋盤を乗せて、あれこれ検討しているメンバーもいた。迷惑じゃないかなぁ。
ハンバーガーを頬張ろうとしたところで、ふいにうしろから声をかけられた。
「あら、裏見さんではありませんか」
ふりかえると、橘さんだった。セットメニューをお盆に乗せて、こちらを見ていた。
私はハンバーガーを持ったまま、そちらに体を向けた。
「晩稲田も、こちらに?」
「いえ、ぼっちゃまが無料クーポンをお持ちでしたので……」
橘さんが言い終えるまえに、朽木先輩も階段を上がってきた。こちらに気付いて、相席を申し出た。店内がいっぱいだったからだ。晩稲田と対立しているわけじゃないし、私たちは快諾した。
私のとなりに橘さんが、松平のとなりに朽木先輩が座った。
「ほかの晩稲田のかたは?」
松平の質問に、朽木先輩は、
「うちは個別行動だ。好きな店に行ってもらっている」
「じゃあ、橘さんとふたりきりですか?」
「うむ、今日限りのクーポンが、ちょうど2枚あったからな」
すごい節約志向。ある意味で感心してしまう。
「それに、炭水化物を大量にとると、眠くなってしまう。次もまだ対局だ」
おっと、それはすごい。男子って、もう準決勝じゃなかったかしら。私はこっそりと、となりの橘さんに勝敗をたずねてみた。すると、橘さんは、さも当然のように、
「ぼっちゃまの実力なら、準決勝進出は当然です」
と答えた。うーん、どうなの、その言い方。負けたひとに失礼でしょ。
反対に、橘さんはハンバーガーの包装をときながら、
「風切さんは、いらしていないのですか?」
とたずね返してきた。三宅先輩の手前もあって、私は答えに窮した。
すると、意外なところから――朽木先輩からストップがかかった。
「可憐、その話はやめておこう」
少し強めの言い方だった。橘さんはかしこまって、
「……分かりました」
と答えた。
ふぅ、セーフ……と思ったのも束の間、橘さんはべつの話題をふってきた。
「裏見さん、3回戦進出、おめでとうございます」
「あ、ありがとうございます……次って、橘さんとですよね?」
橘さんは、「はい」とだけ答えて、ハンバーガーをおしとやかに食べた。
話の続きを考えるのが億劫で、私はジュースのストローをくわえた。
返答が難しい……「よろしくお願いします」が無難だけど……なんか、気合い負けした気持ちになる……年上だから、「かかってこい」とも言えないし……うーん……。
「ところで、裏見さん、例の女性の将棋は、チェックなさいましたか?」
「例の女性? ……だれですか?」
「火村さんです」
私は、聖ソフィアの話題をふられて、これまた戸惑った。
「トーナメント表を確認していないのですか?」
「いえ……その……」
しまった――確認し忘れたわけじゃない。昼休みが短いから、ランチを優先したのだ。他の勝ち上がりは、三宅先輩か松平に訊けばいいと思っていた。
と、ここまで考えて、私は自分が全然悪くないことに気付いた。
「次の対局に集中したいかな、と」
「わたくしとの対局が、一番大事という意味ですか?」
私は、あいまいにうなずき返した。
橘さんも、本気で受け取ったわけではないらしい。クスリと笑った。
「裏見さんは、ウソがお上手ですね」
「う、ウソじゃありません。実際、ここまで来れたのも、たまたまで……」
お世辞で言ったわけじゃない。筒井先輩との対局は、最後に逃れてただけだ。流れ的には、こちらが詰まされてもおかしくなかった。
橘さんは、なんとも拍子抜けした顔をして、肩をすくめた。
「準レギュラーの順子さんくらいは倒していただかないと、張り合いがありません」
うーん、この口の悪さ。
なんだかなあ、と思っていると、橘さんはコホンと咳払いをした。
「ともかく……あの火村という1年生、ただ者ではありません」
「強いんですか?」
「大学将棋の個人戦で2勝……それだけならフロックとも言えますが、将棋の内容も悪くなかったと聞いています」
誰から聞いたのか、と私はたずねた。
橘さんは、はぐらかしもせずに、晩稲田の部員からだと教えてくれた。
「居飛車党ですか? 振り飛車党ですか? それとも力戦派?」
私の質問に、橘さんはふたたびクスリとした。
「それは、企業秘密です」
くぅ、さすがに教えてくれないか。自分で調べろ、と――でも、いい情報を手に入れた気がする。あの子が強いってことは、やっぱり黒幕……そこまで考えた瞬間、目の前に橘さんの人差し指が伸びた。
「いずれにせよ、わたくしを倒さなければ、彼女と当たることもありません……そこのところは、お忘れなく、裏見香子さん」
○
。
.
「対局準備のできていないところはありますか?」
幹事の声。特に返事はない。
並べ終えた駒を前にして、私はちらりと、例の少女に視線を走らせた。
火村と名乗った彼女は、椅子に座って、足をぷらぷらさせていた。大学生の椅子だと、どうやら足が床につかないらしい。その様子だけみると、まるで中学生みたいだ。でも、表情には不敵なところがあって、やっぱり大人にみえた。
「では、対局を始めてください」
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
私と橘さんは、同時に頭を下げた。
先手は私――目を閉じて、10秒ほど黙想する。
それから、7六歩と角道を開けた。
「8四歩」
矢倉のお誘い。私は6八銀と上がる。
3四歩、6六歩、6二銀。
私は、いったん手を止めた。普通なら、迷う場面じゃないけど……深呼吸。
「6七銀」
この一手に、橘さんの表情が引き締まった。
「振り飛車模様……居飛車では、勝てないと見ましたか?」
「……」
私は返事をしなかった。この手の意味は、将棋指しなら簡単に分かるからだ。
これまでのやり方では勝てませんので、戦法を変えさせていただきます――6七銀は、だれがどう見てもそういう手だし、現にそういうつもりで指している。ただ、闇雲に選択したわけじゃない。昼休憩のあいだ、散々考えての結論だった。
「大学将棋に、付け焼き刃は通用しません。4二玉」
6八飛、3二玉、3八銀、5四歩、1六歩、5二金右、5八金左。
「藤井システム調……?」
橘さんは、ちょっと警戒したらしい。
細いあごに指をあてて、小考した。
「奇策ならば、振り穴にすると思いましたが……」
ギクリ。私は表情を変えないように、顔の筋肉を調整した。
というのも、そこに今回の作戦の狙い……じつは昔、振り飛車党でした、という部分が隠れていたからだ。そう、私は高校で棋風改造するまで、振り飛車党だった。ライバル視していた上級生に勝てなくなって、居飛車党に転向したのだ。
橘さんにそれがバレると、困るんだけど……うむむ。県大会の棋譜は居飛車だし、いくらなんでも、草の根時代のデータは調べてないでしょう、多分。
結局、橘さんは1分考えて、8五歩と伸ばした。私は7七角と上がる。
しれっと指しましょう。しれっと。
5三銀、4八玉、4四歩、4六歩、4三金、3六歩、3三角、3七桂。
「7四歩」
マズい……かなり警戒されている。
にわか藤井システムなんて、右銀急戦で潰せるでしょ――なぁんて対応だと助かったんだけど……さすがに、そうもいかないか。7四歩を早めに突いたということは、穴熊にするつもりはないらしい。そこだけが、唯一の救い。
「6五歩」
私は角道を開けた。
2二玉、5六銀、2四歩(ん?)、2六歩、3二銀。
銀冠……藤井システムに対する銀冠は、舐めプな気が……いや、組み方が変則的だったし、これはこれでありなのかも……うーん……復習が足りない……戦法のチョイスが微妙だった可能性が……弱気になってきた……。
私は、買いなおしたペットボトルを開けて、お茶をひとくち飲んだ。
気分を落ち着かせてから、続きを考える。この形は、2五歩が急所。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
長年(?)の経験からして、橘さんの駒組みは、やっぱり舐めプというか、やや無頓着なところがあると感じた。居飛車で四つに組んだときの、押し込んでくるようなオーラがない。本局だって、穴熊にしようと思えば、できたはずだ。
もしかすると、チャンスかも……っと、こんなこと考えてる場合じゃない。集中。
2五歩以下、同歩は3五歩、同歩、2五桂で、いきなり攻めが炸裂する。橘さんも、さすがにこれは選択しないはず。つまり、2五桂には手抜きで……あれ? 手抜きも難しくない? 2三銀は当たりがキツくなるだけだし……あ、3六の地点が弱いのか。桂頭がスカスカだから、3六歩と打たれると困る……うむむ。
私は、2五歩の攻撃力と、自陣の防御力を比較してみた。なんとも言えない感じ。3六の地点だけじゃなくて、4八玉の位置も、あんまり良くない。どうやら橘さんは、先手の王様の位置が悪いから、銀冠に組むヒマがあると考えているらしかった。
……………………
……………………
…………………
………………
攻めますか。格上相手には、攻めるに限る。
「2五歩」
私は颯爽と仕掛けて、お茶をもうひと口。
一方、橘さんは、静かに息をついた。毒舌が飛んでこない。
「……1二玉」
ほほぉ……それが回答ですか。一応候補に入れてあった。
とはいえ、この玉寄りで私が困るというわけでもない。追撃手段がある。
「1五歩」
端を詰める。橘さんの王様は、かなり窮屈になった。
「2五歩」
取り返してきた……これ、ハマってるんじゃないの?
私は力強く3五歩。
「2二角」
この手は読んでなかった。2三銀のムリ受けとばかり。
でも、受けになってなくない? 単に桂馬当たりを避けただけで、根本的な解決になっていないような……例えば、さらに4五歩と畳み掛けたら? 同歩、2二角成、同玉は、後手の王様がもとの位置にもどって、先手が有利になる。1筋と2筋を絡めれば、簡単に寄りそう。すくなくとも、攻めが切れることはなさそう。
私は、ちらりと橘さんの顔色をうかがった。いつもの、ちょっと強面な澄まし顔。こういうシーンだけ見ると、美人なんだけどね。口が悪いというか……っと、また思考が逸れた。私は姿勢をなおして、後手からの反発をチェックする。
……………………
……………………
…………………
………………
4五歩に4二飛?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
駒が偏ってる……けど、飛車が4八に直通してて厳しい……例えば、3四歩、同金、4四歩、同金だと、次に3四金と寄る手が王手。2二角成とできないから、こっちは5九玉と逃げる。以下、7七角成、同桂で、角を先着されるおそれがある。橘さんの角引きは、なかなか深謀遠慮だったみたいね。さすがは晩稲田のレギュラー。
となると、王様の位置がやっぱり悪いわけで……この時点で早逃げする? 動かすヒマがあるなら、5九玉と引いておきたい。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
3五歩と取り込まれてどうか、よね。そこで4五歩と突いて、3六歩、2五桂……2四歩と露骨に殺す? 2四歩、3三歩、同桂、同桂成なら問題ない……あ、3三歩に2三銀の可能性もあるのか。かなり危ないけど……さすがに選ばないんじゃないかしら……あるいは、大事をとって、現局面から4五歩、4二飛、5九玉? これは、次に3五歩、4四歩……いや、6四歩、同歩、4四歩ね。同金……あッ! 閃いたッ! 2四歩ッ!
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
3六歩と伸ばしてきたら、2五桂。伸ばさずに3四金と寄るはずだけど、今度は4五桂と逆に跳ねれる。4四銀に6四飛と走って、先手良し。突き捨ての効果。
私は背筋を伸ばして、4五歩と突いた。
ここまでお読みいただき、まことにありがとうございました。
Outsidersのほうでは告知致しましたが、
現在、転居・転勤の最中でして、執筆がままならない状態です。
今週から4月にかけては、週1更新を目指したいと思います。
『こちら駒桜高校将棋部〜Outsiders』は、毎週火曜日の朝7時を、
『香子の大学将棋物語』は、毎週木曜日の朝7時を予定しています。
これからも、よろしくお願い致します。




