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凛として駒娘──裏見香子の大学将棋物語  作者: 稲葉孝太郎
第8章 2016年度春季個人戦3日目(2016年5月1日日曜)
39/496

38手目 目の前のターゲット

 10分後、私たちは、電電でんでん理科りか大学そばのファーストフード店に寄っていた。どうやら将棋関係者の行きつけらしく、他大の学生もちらほら見かけた。雰囲気で分かるし、テーブルに将棋盤を乗せて、あれこれ検討しているメンバーもいた。迷惑じゃないかなぁ。

 ハンバーガーを頬張ろうとしたところで、ふいにうしろから声をかけられた。

「あら、裏見うらみさんではありませんか」

 ふりかえると、たちばなさんだった。セットメニューをお盆に乗せて、こちらを見ていた。

 私はハンバーガーを持ったまま、そちらに体を向けた。

晩稲田おくてだも、こちらに?」

「いえ、ぼっちゃまが無料クーポンをお持ちでしたので……」

 橘さんが言い終えるまえに、朽木くちき先輩も階段を上がってきた。こちらに気付いて、相席を申し出た。店内がいっぱいだったからだ。晩稲田と対立しているわけじゃないし、私たちは快諾した。

 私のとなりに橘さんが、松平まつだいらのとなりに朽木先輩が座った。

「ほかの晩稲田のかたは?」

 松平の質問に、朽木先輩は、

「うちは個別行動だ。好きな店に行ってもらっている」

「じゃあ、橘さんとふたりきりですか?」

「うむ、今日限りのクーポンが、ちょうど2枚あったからな」

 すごい節約志向。ある意味で感心してしまう。

「それに、炭水化物を大量にとると、眠くなってしまう。次もまだ対局だ」

 おっと、それはすごい。男子って、もう準決勝じゃなかったかしら。私はこっそりと、となりの橘さんに勝敗をたずねてみた。すると、橘さんは、さも当然のように、

「ぼっちゃまの実力なら、準決勝進出は当然です」

 と答えた。うーん、どうなの、その言い方。負けたひとに失礼でしょ。

 反対に、橘さんはハンバーガーの包装をときながら、

風切かざぎりさんは、いらしていないのですか?」

 とたずね返してきた。三宅みやけ先輩の手前もあって、私は答えに窮した。

 すると、意外なところから――朽木先輩からストップがかかった。

可憐かれん、その話はやめておこう」

 少し強めの言い方だった。橘さんはかしこまって、

「……分かりました」

 と答えた。

 ふぅ、セーフ……と思ったのも束の間、橘さんはべつの話題をふってきた。

「裏見さん、3回戦進出、おめでとうございます」

「あ、ありがとうございます……次って、橘さんとですよね?」

 橘さんは、「はい」とだけ答えて、ハンバーガーをおしとやかに食べた。

 話の続きを考えるのが億劫おっくうで、私はジュースのストローをくわえた。

 返答が難しい……「よろしくお願いします」が無難だけど……なんか、気合い負けした気持ちになる……年上だから、「かかってこい」とも言えないし……うーん……。

「ところで、裏見さん、例の女性の将棋は、チェックなさいましたか?」

「例の女性? ……だれですか?」

火村ほむらさんです」

 私は、聖ソフィアの話題をふられて、これまた戸惑った。

「トーナメント表を確認していないのですか?」

「いえ……その……」

 しまった――確認し忘れたわけじゃない。昼休みが短いから、ランチを優先したのだ。他の勝ち上がりは、三宅先輩か松平に訊けばいいと思っていた。

 と、ここまで考えて、私は自分が全然悪くないことに気付いた。

「次の対局に集中したいかな、と」

「わたくしとの対局が、一番大事という意味ですか?」

 私は、あいまいにうなずき返した。

 橘さんも、本気で受け取ったわけではないらしい。クスリと笑った。

「裏見さんは、ウソがお上手ですね」

「う、ウソじゃありません。実際、ここまで来れたのも、たまたまで……」

 お世辞で言ったわけじゃない。筒井つつい先輩との対局は、最後にのがれてただけだ。流れ的には、こちらが詰まされてもおかしくなかった。

 橘さんは、なんとも拍子抜けした顔をして、肩をすくめた。

「準レギュラーの順子じゅんこさんくらいは倒していただかないと、張り合いがありません」

 うーん、この口の悪さ。

 なんだかなあ、と思っていると、橘さんはコホンと咳払いをした。

「ともかく……あの火村という1年生、ただ者ではありません」

「強いんですか?」

「大学将棋の個人戦で2勝……それだけならフロックとも言えますが、将棋の内容も悪くなかったと聞いています」

 誰から聞いたのか、と私はたずねた。

 橘さんは、はぐらかしもせずに、晩稲田の部員からだと教えてくれた。

「居飛車党ですか? 振り飛車党ですか? それとも力戦派?」

 私の質問に、橘さんはふたたびクスリとした。

「それは、企業秘密です」

 くぅ、さすがに教えてくれないか。自分で調べろ、と――でも、いい情報を手に入れた気がする。あの子が強いってことは、やっぱり黒幕……そこまで考えた瞬間、目の前に橘さんの人差し指が伸びた。

「いずれにせよ、わたくしを倒さなければ、彼女と当たることもありません……そこのところは、お忘れなく、裏見うらみ香子きょうこさん」


  ○

   。

    .


「対局準備のできていないところはありますか?」

 幹事の声。特に返事はない。

 並べ終えた駒を前にして、私はちらりと、例の少女に視線を走らせた。

 火村と名乗った彼女は、椅子に座って、足をぷらぷらさせていた。大学生の椅子だと、どうやら足が床につかないらしい。その様子だけみると、まるで中学生みたいだ。でも、表情には不敵なところがあって、やっぱり大人にみえた。

「では、対局を始めてください」

「よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

 私と橘さんは、同時に頭を下げた。

 先手は私――目を閉じて、10秒ほど黙想する。

 それから、7六歩と角道を開けた。

「8四歩」

 矢倉のお誘い。私は6八銀と上がる。

 3四歩、6六歩、6二銀。

 私は、いったん手を止めた。普通なら、迷う場面じゃないけど……深呼吸。

「6七銀」


挿絵(By みてみん)


 この一手に、橘さんの表情が引き締まった。

「振り飛車模様……居飛車では、勝てないと見ましたか?」

「……」

 私は返事をしなかった。この手の意味は、将棋指しなら簡単に分かるからだ。

 これまでのやり方では勝てませんので、戦法を変えさせていただきます――6七銀は、だれがどう見てもそういう手だし、現にそういうつもりで指している。ただ、闇雲に選択したわけじゃない。昼休憩のあいだ、散々考えての結論だった。

「大学将棋に、付け焼き刃は通用しません。4二玉」

 6八飛、3二玉、3八銀、5四歩、1六歩、5二金右、5八金左。


挿絵(By みてみん)


「藤井システム調……?」

 橘さんは、ちょっと警戒したらしい。

 細いあごに指をあてて、小考した。

「奇策ならば、振り穴にすると思いましたが……」

 ギクリ。私は表情を変えないように、顔の筋肉を調整した。

 というのも、そこに今回の作戦の狙い……じつは昔、振り飛車党でした、という部分が隠れていたからだ。そう、私は高校で棋風改造するまで、振り飛車党だった。ライバル視していた上級生に勝てなくなって、居飛車党に転向したのだ。

 橘さんにそれがバレると、困るんだけど……うむむ。県大会の棋譜は居飛車だし、いくらなんでも、草の根時代のデータは調べてないでしょう、多分。

 結局、橘さんは1分考えて、8五歩と伸ばした。私は7七角と上がる。

 しれっと指しましょう。しれっと。

 5三銀、4八玉、4四歩、4六歩、4三金、3六歩、3三角、3七桂。

「7四歩」


挿絵(By みてみん)


 マズい……かなり警戒されている。

 にわか藤井システムなんて、右銀急戦で潰せるでしょ――なぁんて対応だと助かったんだけど……さすがに、そうもいかないか。7四歩を早めに突いたということは、穴熊にするつもりはないらしい。そこだけが、唯一の救い。

「6五歩」

 私は角道を開けた。

 2二玉、5六銀、2四歩(ん?)、2六歩、3二銀。


挿絵(By みてみん)


 銀冠……藤井システムに対する銀冠は、舐めプな気が……いや、組み方が変則的だったし、これはこれでありなのかも……うーん……復習が足りない……戦法のチョイスが微妙だった可能性が……弱気になってきた……。

 私は、買いなおしたペットボトルを開けて、お茶をひとくち飲んだ。

 気分を落ち着かせてから、続きを考える。この形は、2五歩が急所。


挿絵(By みてみん)


 (※図は香子きょうこちゃんの脳内イメージです。)

 

 長年(?)の経験からして、橘さんの駒組みは、やっぱり舐めプというか、やや無頓着なところがあると感じた。居飛車で四つに組んだときの、押し込んでくるようなオーラがない。本局だって、穴熊にしようと思えば、できたはずだ。

 もしかすると、チャンスかも……っと、こんなこと考えてる場合じゃない。集中。

 2五歩以下、同歩は3五歩、同歩、2五桂で、いきなり攻めが炸裂する。橘さんも、さすがにこれは選択しないはず。つまり、2五桂には手抜きで……あれ? 手抜きも難しくない? 2三銀は当たりがキツくなるだけだし……あ、3六の地点が弱いのか。桂頭がスカスカだから、3六歩と打たれると困る……うむむ。

 私は、2五歩の攻撃力と、自陣の防御力を比較してみた。なんとも言えない感じ。3六の地点だけじゃなくて、4八玉の位置も、あんまり良くない。どうやら橘さんは、先手の王様の位置が悪いから、銀冠に組むヒマがあると考えているらしかった。

 ……………………

 ……………………

 …………………

 ………………

 攻めますか。格上相手には、攻めるに限る。

「2五歩」

 私は颯爽さっそうと仕掛けて、お茶をもうひと口。

 一方、橘さんは、静かに息をついた。毒舌どくぜつが飛んでこない。

「……1二玉」


挿絵(By みてみん)


 ほほぉ……それが回答ですか。一応候補に入れてあった。

 とはいえ、この玉寄りで私が困るというわけでもない。追撃手段がある。

「1五歩」

 端を詰める。橘さんの王様は、かなり窮屈になった。

「2五歩」

 取り返してきた……これ、ハマってるんじゃないの?

 私は力強く3五歩。

「2二角」


挿絵(By みてみん)


 この手は読んでなかった。2三銀のムリ受けとばかり。

 でも、受けになってなくない? 単に桂馬当たりを避けただけで、根本的な解決になっていないような……例えば、さらに4五歩と畳み掛けたら? 同歩、2二角成、同玉は、後手の王様がもとの位置にもどって、先手が有利になる。1筋と2筋を絡めれば、簡単に寄りそう。すくなくとも、攻めが切れることはなさそう。

 私は、ちらりと橘さんの顔色をうかがった。いつもの、ちょっと強面こわもてな澄まし顔。こういうシーンだけ見ると、美人なんだけどね。口が悪いというか……っと、また思考が逸れた。私は姿勢をなおして、後手からの反発をチェックする。

 ……………………

 ……………………

 …………………

 ………………

 4五歩に4二飛?


挿絵(By みてみん)


 (※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)

 

 駒が偏ってる……けど、飛車が4八に直通してて厳しい……例えば、3四歩、同金、4四歩、同金だと、次に3四金と寄る手が王手。2二角成とできないから、こっちは5九玉と逃げる。以下、7七角成、同桂で、角を先着されるおそれがある。橘さんの角引きは、なかなか深謀遠慮だったみたいね。さすがは晩稲田のレギュラー。

 となると、王様の位置がやっぱり悪いわけで……この時点で早逃げする? 動かすヒマがあるなら、5九玉と引いておきたい。


挿絵(By みてみん)


 (※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)

 

 3五歩と取り込まれてどうか、よね。そこで4五歩と突いて、3六歩、2五桂……2四歩と露骨に殺す? 2四歩、3三歩、同桂、同桂成なら問題ない……あ、3三歩に2三銀の可能性もあるのか。かなり危ないけど……さすがに選ばないんじゃないかしら……あるいは、大事をとって、現局面から4五歩、4二飛、5九玉? これは、次に3五歩、4四歩……いや、6四歩、同歩、4四歩ね。同金……あッ! 閃いたッ! 2四歩ッ!

 

挿絵(By みてみん)


 (※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)


 3六歩と伸ばしてきたら、2五桂。伸ばさずに3四金と寄るはずだけど、今度は4五桂と逆に跳ねれる。4四銀に6四飛と走って、先手良し。突き捨ての効果。

 私は背筋を伸ばして、4五歩と突いた。

ここまでお読みいただき、まことにありがとうございました。


Outsidersのほうでは告知致しましたが、

現在、転居・転勤の最中でして、執筆がままならない状態です。

今週から4月にかけては、週1更新を目指したいと思います。

『こちら駒桜高校将棋部〜Outsiders』は、毎週火曜日の朝7時を、

『香子の大学将棋物語』は、毎週木曜日の朝7時を予定しています。


これからも、よろしくお願い致します。

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