368手目 寝相
松平はけげんそうな顔で、すぐに取ろうとした。
けど、駒に触れたところで静止。
数秒ほど考えて、手を引っ込めた。
さすがに気づいたか。
同飛なら、4八銀、同玉、5九銀不成で、王手飛車。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
取らなきゃいいとはいえ、この手が残ってたのは、心理的に大きい。
松平も見落としていたらしく、動揺しているのがわかった。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「同飛ッ!」
え、取った? ……あ、4八銀を取らないつもり?
だけどそれは、ムリヤリ王手飛車にする筋がある。
ただ、捨てる駒の数が、1枚多い。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
私は4八銀と打った。
2八玉、3七銀成、同玉。
もうかけてしまおう。
私は4七銀成とした。
同銀、8五角成。
飛車は抜けた……けど、攻めの糸口が見えない。
松平は7七桂と跳ねた。
これも痛い。動きのなかった駒に、役割ができてしまった。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
7六馬と入る。
松平は8五歩と打った。
さすがに詰めろ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
7四金と出る。
松平はこの手に反応した。
「2三飛成」
これは読んである。
っていうか、誘った意味合いもあった。
このままだと入玉されかねないから、次の手で止めておきたかったのだ。
「4三金」
これが防波堤になってくれないかしら。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「6五銀」
馬筋を、もろに遮断してきた。
私は泣く泣く同馬と取って、同歩に8三飛。
なんだか、詰みそうな気も──
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
パシリ
手堅い。
私は最後のお願いで、入玉を試みた。
8五金、5七角、7五銀、7一角、8二金、7五角。
あ~、ダメだ、詰んでる。
私はお茶を飲んで、一礼した。
「負けました」
「ありがとうございました」
うーん、ボロボロ。
私はすぐに感想戦を始めた。
「5八銀~4九角が、思ったより全然ダメだった」
「んー……あんまり生きた心地は、しなかったが……」
いろいろ調べてみたけど、後手が攻めを繋ぐのはムリっぽかった。
もっと前にもどす。
【検討図】
松平は、
「2九とですぐに消してくれたのは、助かったんだが……」
とコメントした。
「え、ほんと?」
「悪手じゃないとは思うが、心理的には楽になった」
「いや、でも……ほかに手がなくない?」
松平も、その点は認めた。
「代わりが難しいのは、事実なんだよな。5四銀、2三と、2九とは?」
「同飛に5二飛と逃げる必要があるから、本譜より遅くならない?」
「たしかに、本譜は2九とが先だから、8筋が入ったんだもんな。8六歩、同銀のあと、6六桂と放り込むのは?」
【検討図】
……あ、見えてなかった。
「同歩、7六歩で、角が困るわね」
「引けないから、7四歩で踏み込む予定だった」
松平が示したのは、7四歩、7七歩成、7三歩成、同金、7七銀。
7四歩にいったん同金なら、7五歩のつもりだったらしい。
そのあとの展開は難解だった。
ピピピ ピピピ
松平のスマホが鳴った。
終了の合図だ。
「えー、本日はここまでです。夕食の準備にしましょう」
私たちはあとかたづけをして、移動。
夕食は注文もできるんだけど、今回はじぶんたちで作ることに。
あんまり手がかかるものは、ダメ。けっきょくカレーになった。
調理スペースを借りてある。
小さな食堂みたいな感じで、そこにキッチンがついているのだ。
材料は、ホテルのひとが買い出しをしてくれた。
甘めに作って、あとはスパイスをお好みで。
辛さで揉めるといけないからね。
各自、役割分担。私はララさんといっしょに、野菜を切る担当。
「ララの料理殺法を、見るのだ~」
ダダダダダッ
う、うまい
「ララさん、毎日料理してるの?」
「わははは、ブラジルのレストランで働いてたのだ~」
道理で。
あんまり競争してもしょうがないから、私はふつうに切る。
となりでは、風切先輩が、お皿を山積みにして運ぼうとしていた。
「せんぱーい、分けて持って行ったほうが、いいですよ」
「安心しろ。13枚だから割れないぜ」
? ……素数だから割れないってこと?
いや、落としたら割れるでしょ。
ああだこうだと言いながら、完成。
ほんとうは一晩寝かせたほうがいいけど、旅行先だから、しょうがない。
盛り付けは、穂積兄妹が担当。
「んー、これくらいかな」
「お兄ちゃん、てきとうでいいんだって」
できあがって、着席。
私は、松平と大谷さんに挟まれた席。
いただきまーす。
もぐもぐ。なかなかよくできてるわね。
三宅先輩は、スパイスを大量に追加していた。
たしかに、ちょっと甘いかも。
私はちょっぴり追加。
そのあとは歓談して、お風呂。
洋式の大浴場で、洗い場が8個あるタイプ。
ドライヤーで混むといけないから、交代で入る。
私は大谷さんと、2番手。
「あ~、つかれた」
湯船につかって、おじさんモード。
「おつかれさまです。将棋のほうは、いかがでしたか?」
私はタメ息をついた。
「すっごい不調」
「調子がよろしくないのですか?」
明らかによくないと思う。
終盤のせめぎ合いで、ギリギリ足りていなかった、なら、まだいい。
そうじゃなくて、手がそもそも見えてないのよね。
大谷さんとの対局でも松平との対局でも、見落としが多かった。
7月から、ずっとこんな調子。
「好不調は、だれにでもあるものです。ここから調整して参りましょう」
将棋の調整──うーむ、高校時代に、大きなスランプはなかったしなあ。
私は、大きな窓から見える夜空を眺めて、また嘆息した。
○
。
.
……むッ。
真っ暗な寝室。目が覚めた。
寝る前に、お茶を飲んだのがマズかったか。
私は布団をめくって、床のスリッパをさがす。
あったあった。
私はつま先をつっこんで、お手洗いの方向をさぐった。
「ん~、お兄ちゃん、カレーからい……」
うわ、びっくりした。
穂積さんの寝言だった。
あたりを見ると、みんなぐっすり眠っている。
移動のあと、すぐに将棋だったものね。そりゃつかれる。
ララさんは、布団がめくれたかっこうで、両腕を枕のそばに出していた。
大谷さんは、なんともまあきっちり寝ている。
かと思いきや、いきなり寝返りをうった。
「しぃちゃん、そのような煩悩にまみれたことは、いけません……」
な、なんの夢なんですかね。
平賀さんは、寝相がめちゃくちゃ。
布団は半分くらい床に落ちていて、パジャマからお腹が出ていた。
しかもなんかニヤけてる。
「えへへ……松平先輩……彼女いないなら、ボクとつきあいましょう……」
……………………
……………………
…………………
………………
グキ
○
。
.
「いたたたた、寝違えたかなあ」
朝の洗面台で、平賀さんは首をさすっていた。
私はテーブルで、お化粧用のポーチの整理。
すると、大谷さんが横合いから、すすっと出てきた。
「裏見さん、仏教には四梵行という言葉がありまして、慈悲の心が……」
うんぬん。
いやいや、大谷さん、世の中にはいろいろな戦いというものがあるのですよ。
わかりますか?
私たちは朝の支度をして、食堂へ──ん? なんか騒いでる?
入り口からのぞいてみると、松平と三宅先輩がいた。
そして、知らない青年ふたりも。
ひとりはちょっとヤンキーっぽいこわもてで、半そでのシャツからのぞいている腕は、そこそこ鍛えてある。大和の新田くんほどじゃないけど。
もうひとりはキノコヘアで、前髪が目の近くまで垂れていた。縞々シャツ。
ふたりは松平たちと対峙していて、雰囲気がなんだか険悪。
なになに? 地元の不良グループに、からまれたとか?
私が心配するなか、三宅先輩は、
「俺たちのほうが、予約は早かったんだ。選択権はこっちにある」
と、なにやら反論していた。
相手のこわもては、
「人数はこっちのほうが多い。狭い方でやる理由がない」
と突き返した。
松平は、ちょっと思案顔で、ふたりのやりとりを聞いていた。
そして、私たちのほうに気づいた。
松平のほうから、こっちへ歩いてくる。
「どうしたの?」
「昼のバーベキューで、場所がバッティングしてるらしい」
「え……予約したんでしょ?」
「焼くところが2ヶ所あって、大きさがばらばらなんだ」
ひとつは小さくて、家族用っぽい、と松平はつけくわえた。
こっちは13人いるから、それだと厳しいのでは。
「っていうか、あっちのグループは、なに?」
松平は気まずそうな顔で、
「それがな……大学将棋部の合同合宿らしい。東海の」
と答えた。
ええええええッ、同業者じゃないですか。
「じゃあ、50人くらいいるわけ?」
「いや、有志で集まってて、20人くらいらしいぞ」
なんだ、うちと7人しか違わないじゃない。
そんなに気後れしなくていい。
三宅先輩もそのつもりらしく、だいぶ強気で押していた。
すると、こわもてくんは、
「よし、だったらこうしよう。こっちとそっちで代表を出して、勝ったほうが選べる」
と提案した。
三宅先輩は、眉をひそめた。
「勝ったほう? ……まさか将棋か?」
「それ以外にないだろ」
こわもてくんは、腕組みをして、ふふんと笑った。
なに? そんなに自信があるの?
どっかの大学のレギュラーで、まちがいなさそう。
っていうか、エース級っぽい。
「どうした? 怖気づいたか?」
三宅先輩は、逡巡した。
そこへ、べつの声が割り込んだ。
場所:N野のホテル
先手:松平 剣之介
後手:裏見 香子
戦型:後手四間飛車
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △4四歩 ▲4八銀 △4二飛
▲9六歩 △9四歩 ▲5八金右 △6二玉 ▲6八玉 △3二銀
▲4六歩 △7二銀 ▲7八玉 △7一玉 ▲4七銀 △3三角
▲5六銀 △5二金左 ▲7七角 △8四歩 ▲8八銀 △6四歩
▲3六歩 △7四歩 ▲3八飛 △5四歩 ▲8六歩 △8二玉
▲3五歩 △2四角 ▲3四歩 △4六角 ▲1八飛 △4三銀
▲4七金 △3五角 ▲3八飛 △3四銀 ▲2五歩 △1四歩
▲8五歩 △同 歩 ▲6八金 △3三歩 ▲3六金 △1三角
▲1六歩 △7三桂 ▲3五歩 △4三銀 ▲2八飛 △6三金
▲1五歩 △5二飛 ▲1四歩 △3一角 ▲2四歩 △7五歩
▲8七銀 △5五歩 ▲4七銀 △7六歩 ▲同 銀 △7五歩
▲8七銀 △6五歩 ▲2三歩成 △6四角 ▲3七金 △3四歩
▲2四と △2二飛 ▲3四歩 △5六歩 ▲同 歩 △3六歩
▲同 銀 △3八歩 ▲4六歩 △3九歩成 ▲6九玉 △2九と
▲同 飛 △5四銀 ▲5八玉 △8六歩 ▲同 銀 △6六歩
▲同 角 △6五銀 ▲7五銀 △5三角 ▲2三と △6六銀
▲同 銀 △5二飛 ▲3三と △7四桂 ▲4三と △6六桂
▲4七玉 △5八銀 ▲3八玉 △4九角 ▲3九玉 △7五角
▲5二と △7八桂成 ▲6六銀 △同 角 ▲同 歩 △6八成桂
▲6一と △9三玉 ▲8八飛 △8五桂 ▲同 飛 △4八銀
▲2八玉 △3七銀成 ▲同 玉 △4七銀成 ▲同 銀 △8五角成
▲7七桂 △7六馬 ▲8五歩 △7四金 ▲2三飛成 △4三金
▲6五銀 △同 馬 ▲同 歩 △8三飛 ▲9五歩 △8五金
▲5七角 △7五銀 ▲7一角 △8二金 ▲7五角
まで143手で松平の勝ち




