338手目 インフォーマルな出だし
翌日の朝10時、私たちはデイナビの応接室に集合した。
ふむ……みなさん、おしゃれですね。
あ、来栖さんは同じスーツ……ネクタイがちがうっぽい?
昨日はストライプだった記憶。今日は水玉模様だった。
一ノ瀬さんも入室して、あいさつ。
「本日も、よろしくお願い致します。では、3番手のかた、どうぞ」
関東からは橋爪くんが、関西からは三木くんが出た。
橋爪くんは、ぶかぶかの白いロングパンツに、深紅のシャツ、胸に白抜きで英語の文章が書いてあった。首にはネックレス。ニット帽。
三木くんは、黒のテーパードパンツに白の無地シャツ、紺の夏物カーディガン。茶色い革ベルトの腕時計をしていた。ヘッドの部分が面白くて、円形じゃなくてHのかたちをしていた。どれもブランドものっぽい。生地の質感がいいし、腕時計も高級感があった。
なんだか、カジュアルvsフォーマルのファッション対決みたい。
私は火村さんに、
「あの時計、高そうじゃない?」
と話しかけた。
「ああ、ヘルメスでしょ」
「え、ほんと?」
火村さんは気取ったかっこうで、
「間違いないわよ。あたしってブランドソムリエだから」
と言いながら、足を組んだ。
「いくらぐらいするのかしら?」
「香子ってさ、こういうときに値段の話をするわよね」
いいじゃないですか、庶民は値段が気になるのよ。
火村さんは、
「ま、経済学部らしくて、いいけど」
と、なんだかよくわからないフォローを入れた。
そのあいだも準備は進んでいて、振り駒の結果は橋爪くんの先手。
橋爪くんはニット帽を脱いで、テーブルのうえに置いた。
三木くんは小物の位置が気になるらしく、ちょこちょこ直していた。
一ノ瀬さんは、チェック漏れがないかどうか、書類を確認した。
「準備はよろしいでしょうか? ……では、始めてください」
「よろしくお願いします」
ふたりは一礼して、三木くんがチェスクロを押した。
7六歩、3四歩、2六歩、3二金、2五歩、8八角成。
【先手:橋爪大悟(修身) 三木豊(六甲)】
角換わりか。しかも一手損だ。
同銀、2二銀、3八銀、3三銀、3六歩、9四歩。
火村さんは、
「まさに準備してきました、って感じの出だしね」
と言って、腕組みをした。
たしかに、これは研究くさい──けどなあ、元奨に研究勝負を挑むのって、危ないと思うのよね。だって情報の最先端にいたわけだし、公開されてない筋もけっこう知っているのでは。
7七銀、9五歩、5八金右、4二飛。
角換わりじゃなーいッ!
橋爪くんは、
「おまえ、舐めてんなあ」
と言って、あきれ顔だった。
三木くんは涼やかに笑った。
「いやいや、そんなわけないだろう。これはれっきとした作戦だよ」
「あとで後悔するぜ」
橋爪くんは6八玉と上がった。
4四歩、4六歩、6二玉、4七銀、7四歩。
ここで志邨さんは、
「後手にデメリットがないかたちなんですよね、これ」
とつぶやいた。
そう言われてみると……陽動振り飛車にありがちな、8四の傷もない。
ふつうの角交換型四間飛車だ。
3七桂、6四歩、7八金、5二金。
ん? 5二金?
これには橋爪くんもギャラリーも、反応した。
まだ構想に奥行きがあるってこと?
火村さんは、
「こういう囲い方があるの?」
とたずねた。
私は知らないと答えた。
志邨さんは、
「ふつうはしないですけど、6三に金、7二に銀のかたちですね、たぶん」
と予想した。
火村さんは、ん?、となって、
「なんて名前?」
と訊いた。
「名前はわかんないです。高美濃で6一金がないバージョンです」
あー、なるほど、なんとなくわかった。
金と銀がその位置に来ること自体は、あるわけか。
橋爪くんは30秒ほど考えて、6六銀。
とがめに行ったっぽい?
6三金、2九飛、7二銀、7七桂。
こんどは三木くんの手が止まった。
先手の囲いも奇抜だ。しかも歩越し銀。
格言では、よくないってされてるかたち。
これはアレね、後手の研究外しだと思う。
さすがにこんなかたちを研究しているはずがない。
案の定、三木くんはここで2分考えた。
持ち時間は、先手が22分、後手が23分。
差は縮まった。
「……4一飛」
マイナスになりにくい手。
橋爪くんは、ニヤリと笑った。
「さすがに地下鉄飛車はないと思ってるだろ……あるんだな、これが」
マ? こ、これは、どうなの?
研究を外すのに、わざわざ地下鉄飛車にしなくても、よくない?
困惑する私をよそに、火村さんは、
「いいんじゃな~い、こういうの」
と、なんだか楽しそうだった。
一方、これと対照的なのが志邨さんで、
「三木vs橋爪は、若干橋爪持ちだったんですけどね……わかんなくなりました」
と、どたばたコメディを見ているような感じになってきた。
三木くんも腹をくくったらしい。前髪をかきあげた。
「なるほどねぇ、それじゃあ手将棋でいこうか。5四角」
「9九飛だ」
三木くんは3五歩。いきなり開戦した。
同歩、7六角、4八金。
あ~、橋爪くん、よく考えて~ノータイムはダメ~。
5四角、5五銀。
あ、歩越し銀が活きそう。
これは引けないんじゃない? 引いたら一方的に9六歩とされる。
火村さんは、
「7五歩としたいわね。攻め合いでしょ」
と言った。
志邨さんも同意した。
「7五歩、5四銀、同歩、8五桂と突っ込んでどうか、ですね。7六歩のプレッシャーが強いので、角銀交換でも互角です」
しばらくして、三木くんは7五歩と伸ばした。
橋爪くんは「ん~」とうなって、しぶい顔をした。
ノリで指したあとの反省、みたいな雰囲気は、いかんでしょ。
志邨さんは、
「交換したあとが問題です。角を打つ場所はないので」
と指摘した。
10秒後、橋爪くんは5四銀。
同歩、8五桂で、読み通りの先逃げ。
三木くんは7六歩。
橋爪くんは端に手をかけた。
「まだ間に合うッ! 9六歩ッ!」
ここで端攻めかあ。
初志貫徹ではある。
火村さんは、
「枚数的には百パー通るけど、6二玉の位置が活きるわね」
と評価した。
いずれにせよ、先手の攻めが破綻する虞はなくなった。
一番怖かったのは、端攻めが通らなくて、飛車をうろうろするハメになるパターン。
三木くんは長考。
後手は手がむずかしいんじゃないかしら。すぐには反撃できない。
「……8四歩」
桂馬を殺しにきた。
9五歩、8五歩、9四歩、9二歩。
おたがいに我が道を行って、最後に三木くんが収めた。
私は、
「端を破る継続手は、なさそうね。7六の歩をなんとかしたほうが、よくない?」
と提案した。
火村さんは、
「あの位置は取りにくいわよ」
と返した。
「8八金~7九飛は?」
なるほど、と、火村さんはうなずいた。
端は詰めたから、飛車を9九から移動させてもいいと思う。
だけど、橋爪くんは6六歩と突いた。
5一飛、8八金──ん? やっぱり私の順になりそう?
と思いきや、三木くんは2四歩で攻めた。
志邨さんは、
「裏見先輩の7九飛も、まだアリですね。ただタイミング的に、2九飛と大きく回るほうが、いいんじゃないでしょうか」
と、2筋に乗じる作戦を勧めた。
火村さんはどっちにも否定的で、
「7八歩で受けるか、2四歩と単に取るほうが自然じゃない?」
と、飛車回りを否定した。
意見がバラけた。
橋爪くんも迷っているようだ。いったんお茶を飲んで、また考えた。
私たちも考える──火村さんと志邨さんの手も、たしかに有力か。
それに、ちょっと気になる順も出始めた。7七歩成だ。同金に8八銀という筋がある。どのタイミングで入れるかは分からないけど、9九に飛車がいる限り、可能性は残る。火村さんの7八歩は、この筋を消すから、手堅く感じられた。
一方、志邨さんの2九飛も、深く読むほどいい手な気がしてきた。例えば2九飛、2五歩なら、2三歩と打ち込める。うまく反撃できるのだ。後手は4一飛で一回様子を見て、先手が2五桂なら2四銀と前に出るかも。
3分が経過して、橋爪くんはようやく動いた。
指の行き先は……2筋。
パシリ
うーん、一番無難な手だった。
三木くんも長考返しのあと、同銀。
「2九飛」
あ、ここで回った。
火村さんは、
「あたしが言ってた2四同歩は、この進行じゃないのよね。2四同歩のあとは、3六銀と上がるのを考えてたから」
と言った。橋爪くんとは読みがちがったようだ。
三木くんはまた30秒ほど考えた。
それから嘆息し、前髪をなおした。
「むずかしいねえ……とりあえず、叩いとこうか。2八歩」




