33手目 意外な黒幕
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ!
私は最後の確認をする――大丈夫そうね。
大谷さんはしばらく盤面を見つめて、それから、
「参りました」
と、頭をさげた。私も一礼する。
「ありがとうございました」
やったぁ、ようやく勝てた。講義が終わったあと部室に来て、はや4局目。元県代表の大谷さん相手とは言え、ちょっと白星が遠過ぎたんじゃないかしら。
「仕掛けの段階は互角と思いましたが、終盤の入り口で悪くしてしまいましたね」
「そうね……飛車を捕捉したあたりからは、こっちが指しやすかったと思う」
私はペットボトルのキャップを開けながら、しばらく棋譜を思い出した。
すっかりヌルくなってるわね。
最後のひと口を飲み干したところで、部室のドアが開いた。
ふりかえると、三宅部長が立っていた。部長は部屋に入らずに、
「いい知らせと、悪い知らせがある……どっちからだ?」
と、唐突にたずねた。私は大谷さんとアイコンタクトしてから、
「……悪いほうからで」
と、小声で答えた。緊張が走る。
部長は、マジメな顔でうなずいた。
「じつは、穂積の件だが……」
私は胸を撫でおろした。風切先輩の名前が出なくて、よかった。
「おいおい、そんなにホッとするなよ。穂積がかわいそうだろ」
「あ、すみません」
「実際、大して悪いニュースじゃないんだが……穂積は、個人戦には来ない」
えぇ……大したニュースじゃないですか……ん?
「個人戦に『は』って、どういう意味ですか?」
「都内の学生麻雀大会とバッティングしてるんだとさ」
うーん、麻雀かぁ。よく分からないけど、ギャンブルってイメージがあるのよね。私の通っていた高校の将棋部は、賭け麻雀で一度つぶれていた。それを頑張って女子が復興したわけだけど、それはまたべつのお話。
「ってことは、団体戦は来てくれるんですね?」
「いや……それも保留された」
ちょ、やっぱり悪いニュースじゃないですか。私はあきれつつ、先をうながした。
「で、いいニュースっていうのは、なんですか?」
三宅部長は、ふたたび真顔になった。
「風切の件だが、どうやらすぐに復帰できそうだ」
ふぅ……セーフ。
「すぐに、っていうのは、団体戦までに?」
「具体的な日付は、まだ俺も……」
「今だよ、今」
いきなり風切先輩の声が聞こえて、私たちはびっくりした。
三宅部長のとなりに、ひょっこりと先輩が現れた。
ポケットに手を突っ込んで、深刻そうに目を閉じていた。
「風切……もういいのか?」
「ああ……おまえら、騒ぎ過ぎだ」
いやいやいや、将棋が指せない状態になるって、相当ですよ。
私たちが黙っていると、風切先輩は急に赤くなって、頬を掻いた。
「まあ……その……心配かけたな」
かわいい。なんだかんだで、照れ屋さん。
風切先輩も気まずいのか、さっさと部室に入って、テーブルの一角へ腰をおろした。私たちの対局に気付くと、盤面をサッと見てから、
「裏見の勝ちか……なかなかいい将棋だな」
と、褒めてくれた。いえいえ、それほどでも。
いい将棋じゃないと、大谷さんクラスに入らないのよね。
「風切先輩、ほんとに大丈夫ですか?」
「心配するな。それよりも、3日目は女流戦だ。自分の心配をしたほうがいいぞ」
それは、もう散々したわよ。もうどうにもならないから、ヤケクソで挑む。
「ん、その顔は、自信なさげだな」
「ええ……私のレベルだと、あんまり出る意味ないかな、と」
風切先輩は、やれやれと言った感じで、首を左右に振った。
「そんなことはない。裏見なら中堅以上だ」
「でも、橘さんに一発も入らないんですけど」
「あいつは上位だからな。もっと弱いのは、いくらでもいる」
ほんとかなぁ。気休めに言ってるんじゃないでしょうね。
「ただ、俺は3日目の応援に行けない」
「え……やっぱり、本調子じゃないってことですか?」
風切先輩は、三宅部長のほうをジロリとにらんだ。
「あいつが、来るなって言うからな」
「おいおい、人聞きが悪いな。理由は言っただろ」
三宅部長は、風切先輩の顔出しを禁じる理由を2つ教えてくれた。ひとつ、風切先輩の体調を他の大学に悟られないようにするため、ふたつ、帝大の氷室くんがベスト8に残っているから、彼と顔を合わせないようにするため。
「氷室の顔を見たくらいで、再発するわけないだろ」
「大事をとったほうがいい。それに、おまえも気まずいだろ」
風切先輩は、チッと舌打ちした。
「不戦敗した手前は、そうだが……女流のほうも気になる面子がいる」
速水先輩のことかしら。最終的には王座戦が目標だから、上位もマークしておかないといけない。順調に行けば、来年度には団体戦で当たることになる。
「とにかく、部長命令だ。風切は休養。3日目は、女子と俺と松平でなんとかする」
あれ? そう言えば、松平はどうしたのかしら?
私は、松平の居場所をたずねた。
「あいつなら、将来の奥様のためにバイトだ……いて」
三宅部長の頭に、私の投げたペットボトルが命中した。
○
。
.
というわけで、やって参りました――個人戦3日目です。
男子は風切先輩の棄権で全滅しちゃったから、女流戦に集中しましょ。
場所は、電電理科大学。初日とおなじ大学なのは、助かる。交通機関的に。
私たちは、前回よりも早めに集合して、場所とりをした。
「人数も、結構減りましたね」
私は控え室を眺めながら、三宅部長のよこでそうつぶやいた。
「個人戦だからな。敗退して来なくなるやつも多いんだろう」
ふむふむ、それもそうか。せっかくの日曜日だものね。とはいえ、大学生活にメリハリをつければ、日曜日をスキップしても、そこまでキツくなさそう。
「裏見たちは、ここで休憩しておいてくれ。他校のチェックは、俺と松平でやる」
三宅部長と松平は、控え室を出て行った。それと入れ替わるように、学ランを着た、浅黒い肌の男性――じゃなくて、女性が入って来た。私は、びっくりして立ち上がった。
「冴島先輩ッ!」
教室内をきょろきょろしていた学ランの女性は、こっちに気付いて、
「裏見、やっぱり来てたな」
と言い、こちらに歩み寄った。がっしりと握手してくる。いたたた。
「いやあ、ひさしぶりだな。オレがいないあいだ、元気してたか?」
「はい、冴島先輩も、元気そうでなによりです」
このひとは、冴島円。私の高校のOGで、1コ上。
男装しているうえにオレ女だけど、市内ではそこそこの将棋指しだった――いや、どうやらこの様子だと、大学でも将棋を続けているらしい。
「まさか、私の応援に来ただけ……ってわけじゃないですよね?」
「んなわけないだろ。オレも、ちゃんと晩稲田の将棋部に在籍してるからな」
冴島先輩は、晩稲田の応援団とかけもちしているのだと教えてくれた。大会の初日と2日目に来なかったのは、応援団の活動と重なっていたからとのこと。高校のときも、応援団と将棋部をかけもちしていたし、よく体がもつなぁ、と感心する。
「晩稲田の将棋部ってことは、団体戦にもいらっしゃるんですよね?」
私は、さしさわりのない質問をしたつもりだった。でも、先輩は鼻の下をこすって、
「オレレベルじゃ、晩稲田のレギュラーになれないんだよなぁ」
と笑った。うーん、A級校ってレベルが高い。
「裏見が都ノに入ったのは、傍目から聞いてたんだ。連絡が遅れちまったけど、可憐の野郎が、『多分、3日目に来ますよ』とか言ってたし、ま、いっかなって」
あ、そっか、橘先輩と同窓になるのか。全然タイプが違う。
私たちは、しばらく思い出話に華を咲かせた。それから私は、大谷さんを紹介した。
「こちらは、都ノの1年生で、大谷さんです」
「拙僧、大谷雛と申します。よろしくお願いいたします」
冴島先輩は、若干怪訝そうだった。
「よろしく……すごい格好してるな。出家してんのか?」
「いえ、在家信者です」
その言い方もスゴい。
「裏見と、どっちが強い?」
「いい勝負かと」
大谷さんの発言を、私は訂正しかけた。けど、冴島先輩もライバルだし、訂正しなくてもいいかなと思った。ちょっと話題を変えようかしら――そう考えた瞬間、冴島先輩のほうから切り上げてきた。
「晩稲田でもミーティングがあるから、またあとでな」
「分かりました」
冴島先輩は、そのうち飲みにでも行こうと言って、教室を出て行った。
「変わったひとですね」
大谷さん、あなたもね……っと、そろそろ抽選の時間だ。
「ごめん、お手洗いを済ませておくから、荷物番しておいてくれない?」
「承知しました」
抽選後に対局がすぐ始まると、困るもんね。私は、前回とおなじトイレに向かった。
小走りになっていたせいか、出入り口のところで女の子とぶつかってしまった。
「いたたた……」
尻餅をついた女の子は、私を思いっきり睨んで、
「あなた、気をつけなさいよ」
と怒った。
「ご、ごめんなさい」
私はあせって、立ち上がるのを手伝った。というのも、女の子は、身長が150センチもないくらいで、中学生かなにかに見えたからだ。髪型も変わっていた。ワックス使用のボブで、それ自体はよくあるけれど、サイドのカットが奇抜だった。なんというか――コウモリのかたちに見えるのだ。顔立ちも、ちょっとヨーロッパ的。目鼻立ちがはっきりしていて、髪と目が黒いところだけアジアっぽかった。
「もう……スカートが汚れちゃったじゃない」
女の子は立ち上がると、わざとらしくスカートをはたいた。
あのさぁ、そっちだって前方不注意でしょ。
私はそれ以上謝るのも癪だから、さっさとトイレに入った。
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…………………
………………
「それでは、女流戦の抽選を始めます。帝大の方から、どうぞ」
抽選開始。トイレに行ったタイミングは完璧。
どうやら個人戦の抽選も、所属大学のランキングに従うらしい。
Aクラスの1位から引いていく。
「日セン、どうぞ」
会場の空気が変わった。速水先輩がまえに出る。
三宅部長から聞いたところによれば、速水先輩は去年の秋の優勝者。
初戦で当たったら地獄。
「27番ですね」
入江会長は、黒板のトーナメント表に名前を書き込んだ。
Bクラスにお鉢が回る。
「慶長のひと、どうぞ」
慶長のグループから、これまたボーイッシュな女性が現れた。
その顔に、私は見覚えがあった。同郷の三和さんだった。三和さんも、高校の全国大会で3位だから、当たりたくないなあ。どこなら勝てそうかしら。
Bも終わりCも終わり、ようやくDの番になった。これもどんどん進む。
最後の2校で、入江会長は登録名簿を確認した。
「それでは……聖ソフィア、どうぞ」
え? いるの? 会場がざわついたと思いきや、それを上回る元気な声が聞こえた。
「はいはいはーい!」
人混みのなかに手が伸びて、ぴょんぴょん跳ねた。
そして、ひとりの少女が姿を現した――さっき、トイレでぶつかった少女だった。
これには、入江会長もおどろいたらしく、
「あなたが、聖ソフィアの火村さんですか?」
とたずねた。
「そうよ? なにかおかしい?」
「いえ……失礼しました。どうぞ」
少女はカードを引いた。13番だった。
「では最後に、都ノの選手、どうぞ」
私と大谷さんは譲り合って、結局私が先に引くことになった。
残っている枠の相手は……東方の春日さん(1番)と、全然知らない女子(15番)。
私は箱に手を突っ込んで、えいっとカードを引いた。
「……2番です」
春日さんだった。いいのか悪いのか、分からない。
「16番までの選手は、この教室に残ってください。17番以上は203です」
女子の群れが移動を始めた。2番の私は教室にのこる。
「あら、あなたが都ノの裏見さんだったのね」
いきなり話しかけられて、私はすこし視線を落とした。
「……ホムラさん?」
ホムラさんは、腰に手を当てて、不敵な笑みを浮かべていた。
「将棋指しだと分かってたら、あんなに怒らなかったんだけど……じゃあね」
ホムラさんは、さっさと対局席に移動した。
意味不明。
初日と2日目に見かけなかったから、そんなの分かるわけないでしょ。
3日目に突然現れたりして……ん? 3日目? 聖ソフィア?
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ちょ、ちょっと、まさかッ!?




