321手目 コンヴェンション
都ノのメンバーに囲まれた愛智くんの第一声は、
「ムリです。今日1日、応援ありがとうございました」
だった。
なんじゃそりゃーッ!
平賀さんもあきれて、
「なに言ってんの。ボクたちの分もがんばってくれなきゃ」
と発破をかけた。
「ノアに公式戦で勝ったことないんだよね」
そういう問題じゃない。
私は、
「n回勝てないからn+1回目も勝てない、ってわけじゃないでしょ」
と指摘した。
「たしかに帰納法ではそうなりません。でもn回が蓄積すると、それが慣習、つまりコンヴェンションになるわけです。デイビッド・ヒュームですね」
哲学に逃げるなぁ。
一方、生河くんはニッコニコで、対局席から手を振っていた。
そ、そんなに嬉しいんだ。
愛智くんはタメ息をついて、
「では、善処してきます」
と言い残し、移動した。
開始前はさすがに張りつけないから、私たちは壁際で待機。
八千代先輩が登壇した。
「準備はよろしいでしょうか?」
ベスト16だけあって、緊張感がただよう。
「では、始めてください」
16人が一斉に頭を下げて、対局開始。
私たちは早速、愛智くんの応援へ向かった。
【先手:生河ノア(慶長) 後手:愛智覚(都ノ)】
愛智くん、序盤から変則的。
愛智くんは振り飛車党寄りの両刀使い。
この状態だと、どっちになるか判断がつかなかった。
生河くんは慣れっこのようで、さくさく指す。
2五歩、9五歩、4八銀、3二金。
居飛車っぽい?
7八金、3三角、3六歩、4二銀、3七銀。
となりで観ていた平賀さんは、
「後手、振り飛車っぽくないですか?」
と言った。
たしかに、居飛車で指すのは難しい気もする。
4四歩、6九玉、4三銀、6八銀。
愛智くんはサッと飛車を振った。
中飛車かぁ。
ここは風切先輩に解説してもらいたいところ。
だけど先輩は「会長だから」という理由で、個別の対局は応援しないようにしていた。
なんか妙なところで律儀なのよね。
まあ、私も元振り飛車党だし、形勢判断はおかしくならないと思う。多分
5八金、6二玉、7九玉。
生河くん、ほんとに楽しそうに指してる。
大学生でここまで楽しそうに指してるひと、初めて見たかも。
だけど、愛智くんには公式戦で、毎回勝ってるのよね。
楽しそうに友人をボコる生河くん──じつはドSなのでは?
5四歩、7七角、7二玉、8八玉、7四歩。
だいぶ変わったかたちになった。
平賀さんは、
「これ、後手はタダの中飛車じゃないですか?」
と言った。
「先手の囲いも微妙だから、バランスは取れてると思う」
「先手は雁木にでもするんですかね?」
できなくはない。6六歩、6七銀と盛り上がるだけだ。
でも、雁木にする意味は、あんまりないと思う。
この予想は意外なかたちで当たった。
生河くんはすぐに攻め始めたのだ。
3八飛、6二銀、3五歩。
唐突な開戦で、愛智くんの手も止まった。
1分ほど考えて同歩。
2六銀、4五歩、3五銀、7七角成、同銀、2七角。
うまく反撃した。
平賀さんは、
「ノア、序盤はちょっと荒いんですよね」
と言った。
「そうなの?」
「ボクが都大会で見てる限りでは、そうです」
そっか、平賀さんも東京出身だった。
「生河くんって、どういうタイプ?」
「力任せでボコボコにしてくるタイプです」
見た目と全然ちがうのか。
まあそんなものよね。姫野さんとか姫野さんとか姫野さんとか。
ここからは生河くんの力攻め。
2八飛、4九角成、2四歩、同歩、1六角。
端角で砲撃してきた。
愛智くんは冷静に3八歩。
これはいい手だ。3九歩成、4九角、同ととさせたほうがいい。
本譜も6八金右、3九歩成、4九角、同と、1六角、5九とと進んだ。
と金を進めさせるのか。意外。
生河くんはそのまま2四銀。
すごい殴り合い。
30分将棋だとキツイ局面だ。
愛智くんはここで長考した。
平賀さんは、
「角打つしかなくないですか?」
と言った。
うーん、たぶんそう。
「6四か5五?」
「ボクなら6四に打ちます」
あと7三も有力だと思う。
どれを選んでも、進行はあんまり変わらないかも。
おそらくだけど、打つ場所よりもその先に悩んでいるはず。
例えば、6四角、3七歩、3三桂、2三銀成、2五歩、2四歩が一例。
【参考図】
2三金はお手伝いだから、後手は手渡しをしたい。
問題はその手渡しの方法。
パッと思いつくのは1四歩。端歩で待機。
もうひとつは2二金。これは同成銀、同飛で飛車の位置がいい、という手。
もちろん先手は、同成銀とはしないだろう。3三成銀が有力。
愛智くんは2分ほど使って、5五角を選択した。
3七歩、3六歩。
あ、こじ開けるんだ。
これは……アリか。ただ、飛車をすぐには取れないわよ。
生河くんは2三銀不成で、そのまま突っ込む。
3七歩成、3二銀不成、同銀。
そう、ここで一回手を戻さないといけない。
しかも角が飛車に直通した。
5二角成、2八と、4二飛、4三銀打、同馬、同銀、同飛成。
迷う盤面になった。
私は、
「手が広いわね。1九と、2九と、3八飛、3九飛で、少なくとも4択」
と、候補手を示した。
平賀さんは、
「桂馬拾ったほうが、使いやすそうじゃないですか?」
と言った。
「んー、後手は受ける必要があると思う。そのときは香車のほうがいいわ」
「5一香ってことですか?」
「5四龍に5一香は効くわよね」
なるほど、と、平賀さんはうなずいた。
「じゃあ1九とのほうが、よさそうですね」
「ただ、問題もあるのよね。1九の香車は1九角成で取りたいから」
つまり、5四龍のタイミングで1九角成として、桂香の両方を拾う、という作戦だ。デメリットは、5一香が間に合わないこと。先手から5一銀と引っかけられてしまう。それで後手玉が寄るかどうか。きわどい。
愛智くんの答えは2九とだった。
寄らないと踏みましたか。
生河くん、ここで長考。ジーッと盤を見ている。
生河くんは、胸にライオンのイラストが描かれたシャツを着ていた。
下半身はジーンズ。だけどちょっとブカブカ。足がほっそりしてるんでしょうね。
愛智くんは、いつもの黒マスクに、真っ白なシャツと黒のパンツ。
いたってシンプル。
パシリ
ほぉ……先に5二銀ですか。
金銀交換をしてから5四龍かしら。
この予想は当たった。
同金、同龍、6一銀打、5四龍、1九角成。
さあ、これでさっきのルートに入った。5一香は間に合わない。
生河くんは5一銀で先着した。
「5三香」
愛智くん、3段目でガード。
生河くんは7四龍で王手。
7三歩、6二銀成、同銀、2四龍。
あれ……先手有利っぽい?
じわじわと押してきてる。
平賀さんも、
「陣形差で先手有利ですね」
と評価した。
しかも後手は、次の手が難しい。
私は、
「5七香成……で、1枚剥がしたいかな……」
とつぶやいた。
平賀さんは、
「同金ってします?」
とたずねた。
「しないと思う。2一龍、5一歩で、6八成香を狙う感じ」
だけどなあ、間に合うかなあ。
愛智くんも手が止まった。
どこがおかしかった?
途中までは、完全に互角だったと思う。
それともあれ? 読み進めると急に悪くなるパターン?
けっきょく愛智くんは3分使って、5七香成とした。
残り時間は、先手が12分、後手が7分。
すこし差がある。
生河くんは1分使って2一龍と入った。
5一歩、3二龍、5二飛。
ん? これは?
先に意図を読んだのは、平賀さんのほうだった。
「6八成香を成立させる手、っぽいです?」
なるほど、それなら理解できる。
単に5二桂は、5七金と手をもどされる可能性があった。以下、6九銀、6八金打、4八飛でいったん攻勢に出られるけど、これは詰めろじゃない。先手は7五桂~8三桂成~8六香のラインを狙える。
平賀さんは口もとにこぶしを当てて、考え込んだ。
「……4二金ですかね? 6八成香、5二金、同歩……」
「5二金は拠点がなくならない? いったん6八同金でもいいと思うけど」
「危なくないですか? 7九銀、同玉、6九金でバラせますよ?」
【参考図】
むッ、そういう手があるのか。
8八玉で……ちょっと危ない。9六歩と突かれるくらいで困る。
だけどなあ、5二金、同歩は冴えないと思うのよね。
2枚飛車で簡単に寄るわけじゃないし──あ、指しそう。




