305手目 最後の端歩
4番席のまわりには、ひとだかりができていた。対局者が見えない。
私は現状を周囲の学生にたずねた。
知らない男子が、
「2、5、7番席が日セン、3と6が都ノの勝ち」
と教えてくれた。
1番席は私が勝った。ってことはここが決勝席だ。
私がうしろから覗こうとしていると、ひとりの青年がふりかえった。
児玉先輩だった。
「あ、裏見さん、終わったの?」
「はい……どうなってます?」
「熱戦だよ。七将同士の戦いって、Aだとよくあるんだけどさ、じぶんも出てるから観戦できないんだよね。Bでそれが見られるなんて……あ、ごめん、どうぞ前に」
児玉先輩は場所をゆずってくれた。
ほかの観戦者も都ノの選手ということで通してくれた。
先頭に出ると、氷室くんと朽木先輩が観戦していた。
朽木先輩は私に気づいて、
「裏見くん、終わったのか?」
とたずねてきた。
「はい。ここの形勢は?」
「まだ互角だと思う」
よかった──かどうかは微妙だけど、とりあえず盤面を確認。
【先手:風切隼人(都ノ) 後手:速水萠子(日セン)】
なんという難解な。
っていうかなぜ王様がそんなところに?
私は朽木先輩にたずねた。
「囲い切らないうちに玉頭戦が始まったのだ。今は風切くんが脱出を図っている」
なるほど、そういうことか。序盤からかなり激しかったようだ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
風切先輩は8五桂と打った。
あ、これはさすがに分かる。
「飛車金両取りを狙ってますね」
私のひそひそ声に、朽木先輩もうなずいた。
「6二角成とできれば先手優勢だろうが、さすがにそうはならないだろう」
同桂、9五角。
この飛車金両取りに対して、速水先輩はたくみに対応する。
まず7七桂不成で王手。
同金に8二飛と引いて金をガードした。
風切先輩も8三歩で追撃。
9二飛、8四桂、9四歩、9二桂成、9五歩。
飛車角交換で落ち着いた。
風切先輩は2二とと寄せていく。
「まだ互角ですか?」
「僕はまだ互角だと思う……氷室くんは、どうだ?」
「わずかに後手寄りの互角だと思います」
ぐッ、氷室くんは後手持ちなのか。マズい。
風切先輩、がんばって。入玉も不可能ってわけじゃない。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
速水先輩は8七桂と打った。
あくまでも仕留める気っぽい。
私は朽木先輩に、
「これ、持将棋だとどうなりますか?」
とたずねた。
「24点法だ……が、速水くんは受けないだろう。受けると昇級がなくなる」
昇級がなくなる? ……あッ、そういうことか。
「もしかして首都工の昇級が決まってます?」
「最終戦で4勝したと聞いた。正確な勝敗数はわからない」
ってことは現時点で都ノ>首都工>日センか。
うちは引き分けでもいいけど、日センは勝たないといけない状況になっている。
6八金、4七角、7八玉、5九龍、3一飛。
どうだろ……たしかに若干後手持ちかも……。
速水先輩は5二玉と上がった。
3三飛成、7九龍、8七玉、8九龍。
一番イヤなかたちになってしまった。
私は、
「これヘタしたら寄り……ますよね?」
と恐る恐るたずねた。
ところが観戦者たちの表情は、さきほどとわずかに変わっていた。
朽木先輩は、
「どうだろうか……なんとも言えないが……」
とつぶやいた。七将レベルでもむずかしいのか。
氷室くんは、
「7四へ滑り込めるので、寄りはないと思います」
と言った。
私ははらはらしながら対局を見守る。
8八金、9九龍、3二と。
風切先輩の3二とは力強かった。
朽木先輩は、
「そうか、これが詰めろか」
とつぶやいた。
氷室くんもうなずいた。
「はい、4二と、6三玉に5四角成と切って詰みです」
5四角成……あ、そっか。以下、同玉、3四龍、4四香、4三龍、6三玉、6四銀、7二玉、8二歩成、6一玉、5二銀、同金、同龍までだ。
この終盤での詰めろ先着は大きい。
速水先輩、くちびるを噛み締める。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
8五香、8六桂、5一銀。
受けたッ!
私は、
「4一とくらいで詰めになりませんか? 同玉ともできないですし……」
とたずねた。
朽木先輩は、
「いや、それは詰めろではない。後手は8四香と打てる」
と答えた。
え? ほんとに詰めろじゃない?
5一と、同玉、4二銀、5二玉……詰まないか。
そこで5四角成と切ってどうか、という感じ。
氷室くんもおなじ意見だった。
「詰めろはないみたいですね……だけど互角だと思います。4一と、8四香、5一と、同玉、4二銀、5二玉、5四角成まで決めて、8六香、同金、同香、同玉、8八龍、8七香、8四香、8五香、同香、同玉、8七龍、8六香」
【参考図】
「これで7四にトライできるかどうか、です」
難解すぎる。トライしたあともよくわからない。
無情に1分が溶けていく。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
8二歩成。観戦者の予想ははずれた。
上部開拓を優先したようだ。
「これはどうですか?」
朽木先輩は、
「8四香以下で合流すると思う」
とのことだった。
そしてそのとおりに進んだ。
8四香、4一と。
4一とは詰めろだ。
この2手が指されるまでの2分のあいだ、観戦者の評価は錯綜していた。
氷室くんは、
「8六香、同金、同香、同玉、8八龍以下は詰まないはずです」
という読みだった。
朽木先輩は、
「9二香といったん取るか?」
と提案した。
氷室くんは冷静に、
「それはありえます。以下、5一と、同玉、5四角成なら、8六香以下で先手が詰みます。先手は今の攻撃態勢のまま7八玉と下がるくらいしかないですね」
と分析した。
見た目以上に後手がよさげ? 私は祈るように両手を組んだ。
その瞬間、顔を上げたのは速水先輩のほうだった。
「8六香」
え、突っ込んだ?
氷室くんは口もとに手をあてて、
「それは詰まな……あ、そうか、9二香のタイミング……」
とつぶやいた。
え、え、え? タイミングがどうかしたの?
風切先輩は背筋を伸ばして、束ねたうしろ髪を両手でなでた。
目が盤上を泳いでいる。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
風切先輩はぎりぎりで同金。
速水先輩はもういちど香車を走った。
同玉、8八龍、8七香、9二香。
8四香じゃない? ここで9二香ってどういうタイミング?
9五歩への紐づけ?
「5一とで寄りませんか?」
朽木先輩は、
「単に5一とは足りない。先手から8五香と打ってどうかだが……」
と返した。読み切れないらしい。
氷室くんも真剣に読んでいる。
私は8五香、9四桂の筋を読んだ。
9五玉、9七龍、9六歩、8七龍……上下挟撃になるか。
そこで5一とは? 同玉、3一龍、5二玉、4一銀に6一玉としか逃げられなくない? 6三玉と逃げるのは5四角成以下で詰むはずだ。6一玉、7一と、同玉、5二成銀、6一香、6二成銀、同玉、4二龍以下はきわどい。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
風切先輩は8五香と打った。
速水先輩は微動だにせず、息を殺して盤上没我していた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
8四香──これもきわどい。
同香は詰む。8五金、同玉、8七龍、8六歩、9四金、7四玉、6三銀、7五玉、7四香までだ。もう5一とと行くしかない。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「5一とッ!」
行ったッ! ここで決まる。
観戦者のささやき声も消えた。
同玉、3一龍、5二玉、4一銀、6一玉。
私が読んでいたルートに入った。
7一と、同玉、5二銀成。
速水先輩はスッと王様を上がった。
6一に受けないの?
風切先輩はすこし迷った。受けられるほうを読んでいたようだ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「8四香ッ!」
そうだ、これがある。なんで危ないほうに逃げたのかわからない。
8三歩、同香成、同玉、8一龍。
龍が滑り込む。
8二金、8四香──あッ……まさか……。
速水先輩は前髪をなおした。
「ありがとう。最後にいい将棋が指せたわ……9四玉」
……………………
……………………
…………………
………………詰めろだ。
だけど必至じゃないはず。
風切先輩は8五歩と打った。
速水先輩は自陣に手をもどす。5二金。
詰めろが復活した。放置なら9六金、同歩、9七銀までだ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
7五歩で詰めろを解除。
6八龍、9六歩、6六龍、9七玉。
速水先輩は静かに9六歩と伸ばした。
風切先輩は呆然と端歩を見つめた。
しぼり出すように声が漏れる。
「先手が振り飛車の対抗形だった……それが9筋の端歩で決まるのか……」
風切先輩は目を閉じた。左手をひたいに当ててうなだれる。
時間が流れる。私は時が止まってくれればいいのにと願った。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「俺の……負けだ」




