284手目 二重のウソ
夕方、私と大谷さんは図書館のグループスタディルームを借りた。
ゼミやサークルで使う個室に、10人ほどが座れる長机。
私たちは窓際のほうに座って、愛智くんを待つ。
時計の針は6時を回ろうとしていた。
「ねぇ、なんの相談だと思う?」
私の質問に大谷さんは、
「入部であれば……という期待もありますが、違うような気がしています」
と答えた
そうなのよね。雰囲気的に入部の話じゃないと思う。
そしてそのことがかえって不穏──っと、来た。
愛智くんは部屋のドアを開けて入ってきた。
「お待たせしました」
愛智くんは私たちと向かいあうように座った。
そして開口一番、
「お時間を取ってしまい、もうしわけありません」
と謝った。
大谷さんは、
「かまいません。拙僧も先日、愛智くんには時間をとっていただきましたので」
と返した。
私たちはそれからすこしばかり沈黙した。
なんとなく重苦しい空気が流れ始める。
「……先輩たち、先週の大会でノアに会いましたか?」
私は、
「先週? 先々週じゃなくて?」
とたずねかえした。
「ということは先週は会ってないんですね。ノアは来てました?」
大谷さんは正直に「いらっしゃいませんでした」と答えた。
愛智くんはタメ息をついた。
「そうですか……まいったな。どうしたらいいんだろう」
大谷さんは、
「今回の相談は生河ノアくんに関することですか?」
と確認を入れた。
「ええ……いや、なんなんでしょう。じぶんでもよくわかってないんですが……とりあえず話をさせてください。どこから話せばいいかな……やっぱり最初から話すしかないか。あれは僕が小学5年生のときでした」
○
。
.
僕がノアと初めて会ったのは、都内の病院でした。
アレルギーがひどくて、小5の春に入院することになったんです。
何日か経ったころ、ノアが入院してきました。なんの病気だったのか、当時は知りませんでした。おたがいに教え合わないことになっているんです。ああいう施設では。
最初、僕はノアとまったく話しませんでした。
知らない子だったというのもありますが、ノアは人見知りがすごく激しかったんです。看護師さんとも話そうとしない感じで……それに僕はアレルギーがほんとうにつらくて、他人のことにかまっている気力もありませんでした。もしかするとノアが同室になったことに、しばらく気づかなかったくらいかもしれません。このへんの記憶はあいまいです。
2週間ほどして、僕はようやくまともに起きられるようになりました。
都内の大きな病院だったので、院内学級に入ることになったんです。病院のなかにある学校で、これに出てれば出席日数にカウントしてもらえるんですよ。で、こういう話を退院後にすると、うらやましがられることがあるんですが、僕にとっては楽しい思い出じゃないですね。退院しないまま亡くなった子もいました。内臓の病気とか……すみません、ここでする話じゃなかったです。
ある日、ノアも院内学級に来ました。そのころの僕はだいぶ快癒していたのと、友だちがほとんどいなかったこともあって、ノアに話しかけました。だけどノアは僕のことを無視しました。そのとき僕はなんて思ったのか、今では覚えていません。ちょっとはムッとしたのかな。ケンカにはならなかったです。むしろノアに手を焼いていたのは先生のほうでしたね。なにを訊いても答えないし、なんにも興味を示さなかったので。そのうちノアは先生に当てられることもなくなりました。
そんなノアと初めてしゃべったのは、僕が退院する1週間前のことでした。お医者さんに退院時期を告げられた僕は、教室へ行きました。書棚に読みかけの本があったんです。夕方、真っ赤な日差しに染まった空間……僕はなぜかあのときの風景をはっきり覚えているんですよね。まるで煉獄のような……いえ、皮肉で言ってるんじゃありません。天国から遠い場所が美しくちゃいけないってことはないでしょう。そしてそのかたすみに、ノアがいました。ノアは床に座って、板のようなものと向き合っていました。なにかいけないものを見てしまったような気がしましたけど、本を取るために近づきました。
みると将棋盤でした。僕は学校の友だちに教えてもらったので、ルールだけは知ってたんです。
駒は初期配置で、ノアはじっとそれを見つめていました。
色白なノアは、赤い夕陽のなかで片膝を立てて、天国にも地獄にも行きかねた天使のようにじっとしていました。
「将棋できるの?」
僕は思わずたずねました。
おとなだったら無視して用事だけ済ませたんでしょうね。小学生だった僕は、ふだん無視してるから今回も無視する、みたいな発想がなかったんだと思います。
返事は期待していなかったんですよ。ところがノアは、
「うん」
と答えました。
その場に先生がいたら、さぞびっくりしたんじゃないでしょうか。
だけど僕はそこでも小学生らしく、そんなことは気にしないで、
「でもひとりじゃできないよね」
と言いました。
「ひとりでしてる」
「スタートの場面じゃん」
「頭のなかでしてる」
ふーんと、僕は思いました。
そんなことできるのかな、と疑問に感じたんです。
「じゃあ今どうなってるの?」
ノアは駒を動かしました。
なんだか複雑なかたちになって、僕にはさっぱりでした。
「どっちが勝ってる?」
「考えてる」
「ひとりでやってもつまんなくない? 僕、すこしできるよ?」
ノアは顔をあげました。
「ほ、ほんと?」
「遊ぶ?」
僕は床に座ると、てきとうに駒を動かしました。
ルールしか知らないのでめちゃくちゃです。
あっさり負けました。
「ノアくん、強いね」
「そ、そうかな……」
「じゃ、僕は帰るから」
その日はそれで終わりになりました。
ところが次の日、ノアは病室で僕に将棋盤をみせてきました。
「またやるの?」
「……うん」
「じゃあ一回だけね」
パパッと指して、また僕の完敗でした。
それが退院の日まで続きました。
内容はおぼえてませんけどね。一回も勝ってないのはおぼえてます。
そしていよいよ退院の日、僕は着替えて両親を待っていました。
するとノアが来て、将棋盤をまたみせてきました。
「パパとママが来たら終わりになっちゃうよ」
ノアはなにも言わずに駒を並べたので、僕も合わせました。
指し始めて、僕は次第にいらいらしてきました。
一手一手すごく考えるんですよ。
僕がパッと指してノアが何分も考えるみたいな感じでした。
「これ終わらないよ?」
「……」
僕はだんだんめんどくさくなってきて、早く両親が来ないかなと思いました。
預かっていた子ども用のスマホに連絡がきたとき、僕は飛びつきました。
「じゃ、ここまでね」
僕がそう言ってベッドから降りようとすると、ふいにそでを掴まれました。
みると、ノアは泣いていました。
「置いていかないで……」
「ど、どうしたの?」
「僕はここで死んじゃう……置いていかないで……」
そのとき僕は初めて、ノアがすごい重病なんだと気づきました。
「だいじょうぶだよ。僕も治ったし、ノアくんも治るよ」
ノアが泣きじゃくるので、僕はじぶんのとなりに座らせました。
「ノアくんが退院したら、続きを指そうね。約束するよ」
けっきょくノアは泣き止みませんでした。
やってきた両親に誤解されて、あとで怒られたのを覚えてます。
その後、僕は小学校を卒業して中学へ上がり、将棋部に所属しました。
なんで将棋部に入ったんでしょうね。じぶんでもよくわかりません。
ノアのことがちらっとあったのかもしれませんし、インドア派で入れるのがそこしかなかったからかもしれません。もし神様がいるなら、神様の采配なんでしょうか。僕は信じていませんけどね──中3のとき、ノアと再会しました。将棋大会で。
フードをかぶった少年がいきなり話しかけてきて、僕はびっくりしました。
小学生のときの面影って、そこまで残らないじゃないですか。
だれだよ、って感じでした。
あっちはすごくうれしそうに、
「あ、愛智くんだよね? の、ノアだよ」
と自己紹介しました。
僕は驚きと喜びが同時にきました。
「よかった、退院できたんだね」
「うん、今年退院したんだ」
4年間も入院していたと知って、僕はあらためておどろきました。
MINEを交換して、将棋バトルウォーズのIDも教え合いました。ノアはすごく強くなっていて、そのときの都大会でいきなり3位になりました。僕は全然でしたね。それからはノアが僕の目標になりました。今思えば理想的な青春だったのかもしれません。すこし恥ずかしい話ですけど。
高1のときはそこそこでしたが、高2で初日敗退をしてずいぶんへこみました。
そのとき励ましてくれたのもノアでした。
そして高3になって──
○
。
.
「かなりマズい状況になっていることに気づいたんです」
愛智くんは、そこでいったん独白を終えた。
なにか言いにくそうな雰囲気をただよわせている。
語る言葉を選ぼうとしている、というほうが正確だろうか。
大谷さんは、
「生河くんとの関係が、ですか?」
と、遠巻きにたずねた。
「先輩たち、もしかしてなにか聞いてます?」
「大学将棋の関係者から、多少は」
「そうですか……じゃあぶっちゃけてもいいですね。ノアは僕に依存してるって、そう気づいたんです。僕以外に友だちがいないみたいで……それに、大会のときはいつでも僕のそばにいるんですよ。開会前も、休憩時間も、閉会後も……対局中、ノアが先に終わったら、僕の観戦をしていることが多かったです。僕は一回『べつに僕の将棋なんか観なくていいよ』って言ったんですが、ノアが寂しそうな顔をするのでやめました」
愛智くんはふたたび言葉をくぎった。
大谷さんは、
「拙僧の憶測になりますが、生河くんの依存を断ち切るため、将棋をお辞めに?」
とたずねた。
「そうです……高3の夏頃になると、ノアは僕の進路をしつこく聞いてくるようになりました。同じ大学に進学するつもりなのが分かって、僕はようやくノアの依存が危ないレベルだと気づいたんです。もっと早く気づけって話なんですよ。高校は別だったので、楽観していたのかもしれません」
私はここでわりこんだ。
「いっしょの大学へ行きたいって、そこまで変かしら?」
「大学までならそれでいいですよね。でもノアの雰囲気はそうじゃないんです。卒業後、就職先も合わせてきそうな感じなんです。でもそんなのムリじゃないですか。いや、できるのかもしれないですけど、そのあといつまで僕のそばにいるんです? 25歳までですか? 30歳まで? ムリがありますよね。この関係はいつか終わらせないといけないんです。けっきょく、社会人になるときに突き放すよりも、大学に入るとき突き放したほうがいいって、そう決心したんです」
なるほど……それはそうかもしれない。
社会人から立ち直らせるのはむずかしいと思う。
大谷さんも納得して、
「大学将棋界で友人ができればなんとかなる……そうお考えになられたのですね」
と言った。
「はい……だけど今になって、まちがった判断だったと気づきました」
「なぜですか?」
「ノアの面倒を見てくれるひとに、アテがあったわけじゃないことと……僕がウソをついたことです」
「生河くんが慶長へ進学したのは、そのウソのせいですか?」
「いえ、さすがに『慶長へ入学する』なんてあからさまなウソはついていません。別々の大学になったのは、ノアが僕の国公立第一志望を知らなかったからです。僕がついたウソは、将棋をやめるきっかけについてです」
あッ、そういうことか。
私は、
「高3の大会で負けたからヤル気がなくなった、っていう話のこと?」
とたずねた。
「そうです。3位決定戦をボイコットして、将棋バトルウォーズもやめたらそんな風に見えるんじゃないかな、と思ったんです。ノアもそう思ってくれました……けど、かえって話がややっこしくなってしまったんです。MINEがひっきりなしに来て、僕を励ましてくれるんですよ。愛智くんならいつか個人戦で優勝できるとかなんとか……まあムリなんですけど、ノアの場合は本気で言ってるっぽいのがまた悪い気がしてきて……」
ふぅむ……お芝居がいきすぎたわけか。
高3の段階で、カウンセラーかだれかに相談したほうがよかったっぽい。
すべてを聞き終えた大谷さんは、
「して、拙僧たちにこのことをお話になられた理由は?」
とたずねた。
愛智くんはタメ息をついて、頭をかいた。
「この世界線がまちがっていたのは分かっています……じゃあ僕とノアでいっしょに都ノへ入学して、将棋部で和気あいあいと過ごせばよかったんでしょうか? それもまちがっていると思うんですよ。それと、ウソがまだもうひとつあって……」
愛智くんはうつろな瞳で、私たちのうしろの窓から夕暮れを見た。
「やっぱり将棋を指したいんです。今さらこんなことを言ってる僕って、バカですよね」




