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凛として駒娘──裏見香子の大学将棋物語  作者: 稲葉孝太郎
第46章 2017年度春季個人戦2日目(2017年4月23日日曜)
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284手目 二重のウソ

 夕方、私と大谷おおたにさんは図書館のグループスタディルームを借りた。

 ゼミやサークルで使う個室に、10人ほどが座れる長机。

 私たちは窓際のほうに座って、愛智くんを待つ。

 時計の針は6時を回ろうとしていた。

「ねぇ、なんの相談だと思う?」

 私の質問に大谷さんは、

「入部であれば……という期待もありますが、違うような気がしています」

 と答えた

 そうなのよね。雰囲気的に入部の話じゃないと思う。

 そしてそのことがかえって不穏──っと、来た。

 愛智あいちくんは部屋のドアを開けて入ってきた。

「お待たせしました」

 愛智くんは私たちと向かいあうように座った。

 そして開口一番、

「お時間を取ってしまい、もうしわけありません」

 と謝った。

 大谷さんは、

「かまいません。拙僧も先日、愛智くんには時間をとっていただきましたので」

 と返した。

 私たちはそれからすこしばかり沈黙した。

 なんとなく重苦しい空気が流れ始める。

「……先輩たち、先週の大会でノアに会いましたか?」

 私は、

「先週? 先々週じゃなくて?」

 とたずねかえした。

「ということは先週は会ってないんですね。ノアは来てました?」

 大谷さんは正直に「いらっしゃいませんでした」と答えた。

 愛智くんはタメ息をついた。

「そうですか……まいったな。どうしたらいいんだろう」

 大谷さんは、

「今回の相談は生河いがわノアくんに関することですか?」

 と確認を入れた。

「ええ……いや、なんなんでしょう。じぶんでもよくわかってないんですが……とりあえず話をさせてください。どこから話せばいいかな……やっぱり最初から話すしかないか。あれは僕が小学5年生のときでした」


  ○

   。

    .


 僕がノアと初めて会ったのは、都内の病院でした。

 アレルギーがひどくて、小5の春に入院することになったんです。

 何日か経ったころ、ノアが入院してきました。なんの病気だったのか、当時は知りませんでした。おたがいに教え合わないことになっているんです。ああいう施設では。

 最初、僕はノアとまったく話しませんでした。

 知らない子だったというのもありますが、ノアは人見知りがすごく激しかったんです。看護師さんとも話そうとしない感じで……それに僕はアレルギーがほんとうにつらくて、他人のことにかまっている気力もありませんでした。もしかするとノアが同室になったことに、しばらく気づかなかったくらいかもしれません。このへんの記憶はあいまいです。

 2週間ほどして、僕はようやくまともに起きられるようになりました。

 都内の大きな病院だったので、院内学級に入ることになったんです。病院のなかにある学校で、これに出てれば出席日数にカウントしてもらえるんですよ。で、こういう話を退院後にすると、うらやましがられることがあるんですが、僕にとっては楽しい思い出じゃないですね。退院しないまま亡くなった子もいました。内臓の病気とか……すみません、ここでする話じゃなかったです。

 ある日、ノアも院内学級に来ました。そのころの僕はだいぶ快癒していたのと、友だちがほとんどいなかったこともあって、ノアに話しかけました。だけどノアは僕のことを無視しました。そのとき僕はなんて思ったのか、今では覚えていません。ちょっとはムッとしたのかな。ケンカにはならなかったです。むしろノアに手を焼いていたのは先生のほうでしたね。なにを訊いても答えないし、なんにも興味を示さなかったので。そのうちノアは先生に当てられることもなくなりました。

 そんなノアと初めてしゃべったのは、僕が退院する1週間前のことでした。お医者さんに退院時期を告げられた僕は、教室へ行きました。書棚に読みかけの本があったんです。夕方、真っ赤な日差しに染まった空間……僕はなぜかあのときの風景をはっきり覚えているんですよね。まるで煉獄のような……いえ、皮肉で言ってるんじゃありません。天国から遠い場所が美しくちゃいけないってことはないでしょう。そしてそのかたすみに、ノアがいました。ノアは床に座って、板のようなものと向き合っていました。なにかいけないものを見てしまったような気がしましたけど、本を取るために近づきました。

 みると将棋盤でした。僕は学校の友だちに教えてもらったので、ルールだけは知ってたんです。

 駒は初期配置で、ノアはじっとそれを見つめていました。

 色白なノアは、赤い夕陽のなかで片膝を立てて、天国にも地獄にも行きかねた天使のようにじっとしていました。

「将棋できるの?」

 僕は思わずたずねました。

 おとなだったら無視して用事だけ済ませたんでしょうね。小学生だった僕は、ふだん無視してるから今回も無視する、みたいな発想がなかったんだと思います。

 返事は期待していなかったんですよ。ところがノアは、

「うん」

 と答えました。

 その場に先生がいたら、さぞびっくりしたんじゃないでしょうか。

 だけど僕はそこでも小学生らしく、そんなことは気にしないで、

「でもひとりじゃできないよね」

 と言いました。

「ひとりでしてる」

「スタートの場面じゃん」

「頭のなかでしてる」

 ふーんと、僕は思いました。

 そんなことできるのかな、と疑問に感じたんです。

「じゃあ今どうなってるの?」

 ノアは駒を動かしました。

 なんだか複雑なかたちになって、僕にはさっぱりでした。

「どっちが勝ってる?」

「考えてる」

「ひとりでやってもつまんなくない? 僕、すこしできるよ?」

 ノアは顔をあげました。

「ほ、ほんと?」

「遊ぶ?」

 僕は床に座ると、てきとうに駒を動かしました。

 ルールしか知らないのでめちゃくちゃです。

 あっさり負けました。

「ノアくん、強いね」

「そ、そうかな……」

「じゃ、僕は帰るから」 

 その日はそれで終わりになりました。

 ところが次の日、ノアは病室で僕に将棋盤をみせてきました。

「またやるの?」

「……うん」

「じゃあ一回だけね」

 パパッと指して、また僕の完敗でした。

 それが退院の日まで続きました。

 内容はおぼえてませんけどね。一回も勝ってないのはおぼえてます。

 そしていよいよ退院の日、僕は着替えて両親を待っていました。

 するとノアが来て、将棋盤をまたみせてきました。

「パパとママが来たら終わりになっちゃうよ」

 ノアはなにも言わずに駒を並べたので、僕も合わせました。

 指し始めて、僕は次第にいらいらしてきました。

 一手一手すごく考えるんですよ。

 僕がパッと指してノアが何分も考えるみたいな感じでした。

「これ終わらないよ?」

「……」

 僕はだんだんめんどくさくなってきて、早く両親が来ないかなと思いました。

 預かっていた子ども用のスマホに連絡がきたとき、僕は飛びつきました。

「じゃ、ここまでね」

 僕がそう言ってベッドから降りようとすると、ふいにそでを掴まれました。

 みると、ノアは泣いていました。

「置いていかないで……」 

「ど、どうしたの?」

「僕はここで死んじゃう……置いていかないで……」

 そのとき僕は初めて、ノアがすごい重病なんだと気づきました。

「だいじょうぶだよ。僕も治ったし、ノアくんも治るよ」

 ノアが泣きじゃくるので、僕はじぶんのとなりに座らせました。

「ノアくんが退院したら、続きを指そうね。約束するよ」

 けっきょくノアは泣き止みませんでした。

 やってきた両親に誤解されて、あとで怒られたのを覚えてます。

 その後、僕は小学校を卒業して中学へ上がり、将棋部に所属しました。

 なんで将棋部に入ったんでしょうね。じぶんでもよくわかりません。

 ノアのことがちらっとあったのかもしれませんし、インドア派で入れるのがそこしかなかったからかもしれません。もし神様がいるなら、神様の采配なんでしょうか。僕は信じていませんけどね──中3のとき、ノアと再会しました。将棋大会で。

 フードをかぶった少年がいきなり話しかけてきて、僕はびっくりしました。

 小学生のときの面影って、そこまで残らないじゃないですか。

 だれだよ、って感じでした。

 あっちはすごくうれしそうに、

「あ、愛智くんだよね? の、ノアだよ」

 と自己紹介しました。

 僕は驚きと喜びが同時にきました。

「よかった、退院できたんだね」

「うん、今年退院したんだ」

 4年間も入院していたと知って、僕はあらためておどろきました。

 MINEを交換して、将棋バトルウォーズのIDも教え合いました。ノアはすごく強くなっていて、そのときの都大会でいきなり3位になりました。僕は全然でしたね。それからはノアが僕の目標になりました。今思えば理想的な青春だったのかもしれません。すこし恥ずかしい話ですけど。

 高1のときはそこそこでしたが、高2で初日敗退をしてずいぶんへこみました。

 そのとき励ましてくれたのもノアでした。

 そして高3になって──


  ○

   。

    .


「かなりマズい状況になっていることに気づいたんです」

 愛智くんは、そこでいったん独白を終えた。

 なにか言いにくそうな雰囲気をただよわせている。

 語る言葉を選ぼうとしている、というほうが正確だろうか。

 大谷さんは、

「生河くんとの関係が、ですか?」

 と、遠巻きにたずねた。

「先輩たち、もしかしてなにか聞いてます?」

「大学将棋の関係者から、多少は」

「そうですか……じゃあぶっちゃけてもいいですね。ノアは僕に依存してるって、そう気づいたんです。僕以外に友だちがいないみたいで……それに、大会のときはいつでも僕のそばにいるんですよ。開会前も、休憩時間も、閉会後も……対局中、ノアが先に終わったら、僕の観戦をしていることが多かったです。僕は一回『べつに僕の将棋なんか観なくていいよ』って言ったんですが、ノアが寂しそうな顔をするのでやめました」

 愛智くんはふたたび言葉をくぎった。

 大谷さんは、

「拙僧の憶測になりますが、生河くんの依存を断ち切るため、将棋をお辞めに?」

 とたずねた。

「そうです……高3の夏頃になると、ノアは僕の進路をしつこく聞いてくるようになりました。同じ大学に進学するつもりなのが分かって、僕はようやくノアの依存が危ないレベルだと気づいたんです。もっと早く気づけって話なんですよ。高校は別だったので、楽観していたのかもしれません」

 私はここでわりこんだ。

「いっしょの大学へ行きたいって、そこまで変かしら?」

「大学までならそれでいいですよね。でもノアの雰囲気はそうじゃないんです。卒業後、就職先も合わせてきそうな感じなんです。でもそんなのムリじゃないですか。いや、できるのかもしれないですけど、そのあといつまで僕のそばにいるんです? 25歳までですか? 30歳まで? ムリがありますよね。この関係はいつか終わらせないといけないんです。けっきょく、社会人になるときに突き放すよりも、大学に入るとき突き放したほうがいいって、そう決心したんです」

 なるほど……それはそうかもしれない。

 社会人から立ち直らせるのはむずかしいと思う。

 大谷さんも納得して、

「大学将棋界で友人ができればなんとかなる……そうお考えになられたのですね」

 と言った。

「はい……だけど今になって、まちがった判断だったと気づきました」

「なぜですか?」

「ノアの面倒を見てくれるひとに、アテがあったわけじゃないことと……僕がウソをついたことです」

「生河くんが慶長けいちょうへ進学したのは、そのウソのせいですか?」

「いえ、さすがに『慶長へ入学する』なんてあからさまなウソはついていません。別々の大学になったのは、ノアが僕の国公立第一志望を知らなかったからです。僕がついたウソは、将棋をやめるきっかけについてです」

 あッ、そういうことか。

 私は、

「高3の大会で負けたからヤル気がなくなった、っていう話のこと?」

 とたずねた。

「そうです。3位決定戦をボイコットして、将棋バトルウォーズもやめたらそんな風に見えるんじゃないかな、と思ったんです。ノアもそう思ってくれました……けど、かえって話がややっこしくなってしまったんです。MINEがひっきりなしに来て、僕を励ましてくれるんですよ。愛智くんならいつか個人戦で優勝できるとかなんとか……まあムリなんですけど、ノアの場合は本気で言ってるっぽいのがまた悪い気がしてきて……」

 ふぅむ……お芝居がいきすぎたわけか。

 高3の段階で、カウンセラーかだれかに相談したほうがよかったっぽい。

 すべてを聞き終えた大谷さんは、

「して、拙僧たちにこのことをお話になられた理由は?」

 とたずねた。

 愛智くんはタメ息をついて、頭をかいた。

「この世界線がまちがっていたのは分かっています……じゃあ僕とノアでいっしょに都ノへ入学して、将棋部で和気あいあいと過ごせばよかったんでしょうか? それもまちがっていると思うんですよ。それと、ウソがまだもうひとつあって……」

 愛智くんはうつろな瞳で、私たちのうしろの窓から夕暮れを見た。

「やっぱり将棋を指したいんです。今さらこんなことを言ってる僕って、バカですよね」

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