282手目 早投げ
きた、予想通りの手。
私はチェスクロを確認する。
のこり時間は私も志邨さんも15分ずつ。
ひたひたと合わせてきているような気もする。
私はここまでで考えた手を整理した。
ひとつは2三歩、もうひとつは1二歩。
2三歩は同金と取らせてから4六飛と回るのが狙い。
1二歩はもっと直接的で、同香に1一銀と打つ。
後者は1一銀の代わりに1三歩もありそう……だけど、それは7七桂成で攻めてくると思う。
直接的に退路を断つ1一銀のほうが厳しい。
私はそう判断して、1二歩と打った。
同香、1一銀。
志邨さんは3七角で反撃してくる。
これは渡りに船。私は5六飛で挟撃に持ち込んだ。
志邨さんは4五金と立つ。
うッ……強い。
とはいえさすがに読んである。
私は4六銀と打って、5六金、3七銀と取り合う。
志邨さんはスッと8六歩。
8八歩……じゃジリ貧なのよね。
8六銀は4四角か5五角と打たれそう。前者はトリプル、後者はダブルで駒に当たる。
ここは強く4五角と打ちたい……んだけど、8二飛と回られた局面が危なすぎる。
そのための8六歩なのだろう。
私は迷った。8二飛以下を読み進めてみる。5六角、7七と、同桂、8九飛成……いや、ここは5五角と打たれたほうがキツいか。二段目に飛車がいると、後手を寄せる手段がない。全然ダメだ。
4五角はお手伝い。8六銀、5五角を甘受する?
でもなあ、この両取りはさすがにキツい。銀を犠牲にしてまで指したい手がない。
しまった。8六歩を過小評価していたかもしれない。
となると──
(※図は香子きょうこちゃんの脳内イメージです。)
これしかないか……狙いは2二角。
同金、同歩成、同飛、4三成桂なら大成功……だけど、こうしてくれるわけがない。
おそらく7七桂成、同金、8七銀と突っ込まれる。
そこで6九玉と引いて、後手に速い手がなければ食らいつけるかもしれない。
たとえば5五角と打ってきたら、2二角と打ち返す。
以下、同角、同歩成、同金に4三成桂でなんとかならない?
(※図は香子きょうこちゃんの脳内イメージです。)
3九飛が詰めろじゃなければいい。
3九飛、3四桂(詰めろ)、5九飛成、同玉……詰まないわよね。
私は他の筋も読んでみた。
全体として先手が苦しい。8六歩の取り込みが予想以上に厳しかった。
とはいえここで諦めるわけにもいかない。
残り時間が5分を切るまで長考して、私は2三歩を敢行した。
志邨さんはその手をみて、右脚をくずした。
こんどは左脚をうえにして組み、前髪をなんどか撫でる。
それからゆっくりと7七桂成。私はノータイムで同金。
春のひざしが、盤面いっぱいにふりそそぐ。
パシリ
8七銀が置かれた。
同金は、同歩成、同玉、8六歩、同玉、8八飛で簡単に寄ってしまう。
私は6九玉と引いた。
志邨さんはまた小考。
のこり時間をまた合わせるのかな、と思いきや、わずか30秒で次の手が指された。
パシリ
ぐッ……一番イヤな手がきた。
これは同玉だと寄る。5七飛以下、簡単な筋に入ってしまう。
私は1分使って4九金と寄った。
そこからの志邨さんの手は速かった。
5七角、6八桂、8八飛、7九角、8九飛成、2二歩成、同金、4三成桂。
志邨さんは角を引いて裏返す。
……………………
……………………
…………………
………………あ、5七桂。
私は天を仰いだ。
4六銀打で長引かせることはできるけど──意味はない。
「負けました」
「ありがとうございました」
志邨さんは脚をくずして、ふつうの座り方になった。
それでもすこし姿勢が悪い。
私はチェスクロを止めた。
終盤をふりかえり、どこが悪かったのか整理する。
「8六銀と取ったほうがよかった?」
「かもしれないです」
志邨さんは感想戦になっても、あまり雰囲気を変えなかった。
どことなくよそよそしい感じがする。
まあ愛想を見せて欲しいわけでもないので、私はそのまま続けた。
「5五角と打たれたらさすがに勝てないかな、と思って」
「この時点で後手がいいですね」
「どのあたりから後手がいいと思った?」
志邨さんはすこし考えて、
「7一角と打たれたあたり……ですか」
と答えた。
【検討図】
えぇ……ここかぁ。
私は困惑して、
「7一角は筋だと思うんだけど」
とコメントした。
「手順ですね。先に4五桂跳ねだと互角です。8六歩、8八歩、5四銀直、7一角みたいな感じで……これなら銀じゃなくて金を狙える展開になるので、本譜みたいに4四金と逃げられないです」
なるほど、一理ある。
ただここで悪いと言われてもなあ。
私はそのあともういちど終盤をチェックした。先手の勝ち筋は見つからなかった。
志邨さんは第4局もあるから、サラッと終える感じに。
席を立った瞬間、私はふと、
「そういえば、楽しいまま終わりたい、って言ったわよね。あれってなにかの比喩?」
とたずねた。
志邨さんは席についたまま、
「いえ……ただの独り言です」
と答えた。
ずいぶん変わった独り言なのね。
私は控え室にもどる。
大谷さんはまだもどっていなかった。
時間が余っちゃったものね。早投げさせられたのは私のほうだった。
応援に行こうかな、と思ったけど、先にやることがあった。
平賀さんたちが集めてくれたデータの整理だ。
平賀さんはノートを出して、
「こんな感じでよかったですか?」
とたずねた。
どれどれ……うわ、字が汚い。
もっと丁寧に書いてくださいな。
解読しながら読む。
「……オッケー、内容はいいわね。ありがと」
「つばめちゃん、どうでした?」
うーん、どう表現したものか。
「謎な強さがあったわね。圧はないんだけど、いつの間にか悪くなってた」
「あー、分かります。ボクは高校時代、一回も勝てなかったですね」
そういうレベルなのか。
太宰くん、今季の戦力は自信ありなんじゃないかしら。
しばらくして、大谷さんももどってきた。
「どうだった?」
「接戦でしたが、なんとか拾わせていただきました」
「そっか、じゃああとは風切先輩待ちで……」
「風切先輩とは、さきほど廊下でお会いいたしました。勝ったと聞いています。コンビニへ寄るので、控え室にはもどられないそうです」
そっか、次の対局までの休憩時間は短い。
私は大谷さんに、
「次は応援に行くから、がんばってね」
と言った。
「善処いたします」
15分後、女子は311教室にベスト8のメンバーが集まった。
大谷さんのあいては、なんと火村さん。
火村さんは犬歯を剥き出しにして、
「ひーよーこー、ここで会ったが100年目ね」
と威嚇した。
大谷さんは冷静に、
「今朝お会いしましたが」
と返した。
「そういう御託はいいのよ。かかってきなさい」
いやいや、もっと穏便にやりましょう。
全員着席して、幹事の八千代先輩が入ってきた。
「これより女子4回戦を始めます。対局準備をお願いします」
大谷さんたちは駒をならべて、それから振り駒。
火村さんの先手になった。
時刻は3時半。
暖かくなった部屋のなかに、咳払いの声だけが聞こえる。
八千代先輩はじぶんの腕時計をじっと見つめていた。
「……それでは始めてください」
よろしくお願いしますのあいさつ。チェスクロを押す音。
火村さんは角道を開けた。
7六歩、8四歩、5六歩、3四歩、5五歩、6二銀、5八飛。
火村さんの中飛車。これは予想通り。
大谷さんは奇をてらわず、すなおに組んでいく。
4二玉、4八玉、3二玉、3八玉、5二金右、2八玉、8五歩、7七角。
後手は超速を見せなかった。
これは持久戦の予感。
3三角、6八銀、2二玉、1八香、1二香、1九玉、1一玉。
相穴熊ッ!
となりで観ていた平賀さんは、
「長引きそうですね」
とつぶやいた。
とはいえ、序盤だから指し手は速い。
まだおたがいに3分も使っていなかった。
5七銀、4四歩、2八銀、4三金、3九金、5一銀。
ここでようやく手が止まった。
大谷さんは囲いに工夫をこらしている。
6筋を突かず、低い姿勢で組むつもりだ。
こうなると先手は盛り上がりたくなる。
火村さんは1分使って、4六歩と突いた。
4二銀右、4八銀、2二銀、5六飛、
ん? これは?
私は一瞬疑問に思ったけど、すぐに狙いはわかった。
平賀さんも理解したらしく、
「後手の駒組みの牽制ですね」
と言った。
たぶん正解。ここから6六飛と寄って、6筋を狙うのだろう。
火村さん、序盤巧者。大谷さんの手も止まった。
平賀さんは、
「どうなんですかね。6六飛に5二金は確定しちゃってる気がしますけど」
といぶかしんだ。
たしかに……それを回避する手があるのかしら。
大谷さんは1分使って、7四歩と突いた。
ん? 7四歩?
私はこの手の意図を考える。
そしてアッとなった。
「なんだかんだでバランスは取れそうね」
平賀さんは「え、そうですか?」とたずね返した。
「5一角~7三角とすれば、5五の歩を守るために5六飛と寄りなおすしかないわ」
平賀さんは納得した。
「なるほど、じゃあ悪形は一時的になりそうですか」
対局者の火村さんも当然この順に気づいた。
「なかなかやるわね。さすがにこっちだけ4枚穴熊とはいかないか……」
5九金、3一銀右、6六飛、5二金。
先手は4九金左で4枚穴熊に固める。
大谷さんは黙って5一角と引いた。
5六飛、7三角、4七銀、6四角、6六歩、4二金寄。
大谷さん、4枚穴熊へ復帰。
やりますねぇ。
この勝負、素で面白そうだし、勉強させてもらいましょ。
場所:2017年度 春季個人戦2日目 女子3回戦
先手:裏見 香子
後手:志邨 つばめ
戦型:角換わり力戦形
▲7六歩 △8四歩 ▲2六歩 △8五歩 ▲7七角 △3二金
▲2五歩 △3四歩 ▲8八銀 △7七角成 ▲同 銀 △2二銀
▲4八銀 △3三銀 ▲1六歩 △1四歩 ▲3六歩 △6二銀
▲3七銀 △6四歩 ▲6八玉 △6三銀 ▲4六銀 △5四銀
▲7八玉 △4四歩 ▲5六歩 △5二金 ▲6八金 △4二玉
▲9六歩 △9四歩 ▲3五歩 △4三銀 ▲3四歩 △同銀右
▲3六歩 △7四歩 ▲3五銀 △同 銀 ▲同 歩 △7三桂
▲5五歩 △4三銀 ▲2六飛 △3一玉 ▲5九金 △4五歩
▲1五歩 △同 歩 ▲2四歩 △同 歩 ▲3七桂 △4四銀左
▲5四歩 △8六歩 ▲同 歩 △8五歩 ▲5三歩成 △同 銀
▲7一角 △7二飛 ▲5三角成 △同 金 ▲4五桂 △4四金
▲5三桂成 △6五桂 ▲1二歩 △同 香 ▲1一銀 △3七角
▲5六飛 △4五金 ▲4六銀 △5六金 ▲3七銀 △8六歩
▲2三歩 △7七桂成 ▲同 金 △8七銀 ▲6九玉 △5八歩
▲4九金 △5七角 ▲6八桂 △8八飛 ▲7九角 △8九飛成
▲4三成桂 △3五角成
まで92手で志邨の勝ち




