270手目 暴露
八一の窓ぎわ席、後手番、矢倉──完璧にあの日の再現だ。
姫野先輩の意図はわからない。
単なる懐古趣味なのか、それとも狙いがあるのか。
いずれにせよ、やることはひとつ。将棋に勝つ。
私は6二銀と上がった。受けて立つ。
2六歩、3二金、2五歩、7四歩、7八金、8五歩。
攻めのかたちをとる。
5八金、6四歩、6六歩、6三銀。
姫野先輩はこの手をみて、
「先攻なさる気ですね」
とつぶやいた。
それから紅茶のシリンダーを持ち上げ、ティーカップに中身をそそぐ。
甘い香りがあたりに漂った。
姫野先輩はミルクを入れずにひと口飲み、素の味わいを楽しんだ。
「……変わっておりませんわね」
そうかもしれない。コーヒーもなにもかも、高校時代のままだ。
もしかしてこの将棋も……いや、ちがう。
将棋は進化する。指し手もまた進化するはずだ。
現に私は、あのときのなにも知らない女の子じゃない。
それがいいことなのかどうかは置いておいて。
姫野先輩はカップをもどし、5六歩と突いた。
私は7三桂と跳ねて圧迫していく。
7九角、4一玉、6七金右、6二金、4八銀、8一飛。
角換わり腰掛け銀っぽい変化。
大谷さんと検討して編み出した戦法だ。
実戦では初めての投入。あいてが姫野先輩なら申し分なし。
3六歩、4二銀。
「わたくしもゆずる気はありません。先攻させていただきます。3五歩」
くぅ、速攻された。
だけどこれは好都合。後手の狙いは8六歩、同歩からの継ぎ歩なのだ。
歩を入手できるなら問題なし。
8六歩、同歩、3五歩、同角、8五歩、2四歩、同歩、同角。
ここで8六歩の取り込み……はさすがに性急か。
私は2三歩といったん収めた。
4六角と撤退させてから8六歩と取り込む。
8八歩、6五歩、同歩、5四銀。
どやッ! これで後手悪くないでしょ。
姫野先輩も真剣に考え始めた。
私はコーヒーのお代わりをもらう。
猫山さんがコーヒーポットを持って来た。
「おふたりともお好きですねぇ」
猫山さんはコーヒーを注ぎながら、盤面をちらちら見ていた。
そのままコメントなしでカウンターにもどる。
姫野さんは直後に6四歩と伸ばした。
これも常套手段だ。ほとんど角換わりの様相を呈してきた。
このとき先手は居玉になっている、というのがポイント。
私は7五歩でさらに仕掛けた。
6六銀、8五桂、2四歩、同歩。
パシリ
厳しい。一筋縄ではいかないか。
私は4四角と飛び出す。
以下、5五銀、同銀、同角、同角、同歩で全面交換。
今度は私が長考する番だ。
じつはちょっと指してみたい手がある。それは8四飛。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これは一見するとすごく危ない。
というのも9五角、6四飛に7三銀の割り打ちがあるからだ。
でもでも3四飛と寄ったら、どう?
以下、6二銀成、2三金、7三角成、3九銀の割り打ち返しが成立する。
もし7三角成のところで3七歩と受けて来ても、3八歩で攻めが続く。
姫野先輩の性格からして、3七歩とはしてこないはず。
私はコーヒーをもうひと口飲んで、8四飛と浮いた。
「虎穴に入らずんば、ですか。こちらも入らせていただきます」
9五角が打たれた。
6四飛、7三銀、3四飛、6二銀成、2三金、7三角成。
読み通りに進んだ。
私は3九銀と打ち込む。
6三馬、3一玉、1八飛、6六歩。
さあさあ、攻めに弾みがついてきたんじゃない?
姫野先輩は1分ほど考えて、6八金引とした。
4八銀成、同玉。
ここで鬼手ッ! 2八銀ッ!
取れば3九角の王手飛車。
取らないなら3九角〜3八飛成で入玉を阻止する。
姫野先輩はこの手をみて、なんだか楽しそうな笑みを浮かべた。
「4年前とは攻守が逆ですね」
「え、まあ、あのときは一方的に攻め潰されたので……」
「ひとまず止めさせていただきましょう。3六歩」
中合いで止めて来たか。これは取れない。
3九角は飛車の応援がないと冴えない。となれば──
「2九銀不成です」
「成るかと思いましたが……4五銀」
え? 取り合い?
しまった、2八飛の一点読みをしていた。次に5六桂の予定だったのに。
姫野先輩は悠々と紅茶をそそいだ。続いてミルクが渦をまく。
私は前傾姿勢で盤をにらんだ。
……………………
……………………
…………………
………………後手が悪い。
先手がはっきり優勢だ。これならまだ2九銀成とするんだった。
飛車を逃げる場所もない。
姫野先輩はティータイムモード。まちがいなく優勢を自覚している。
「……1八銀成で」
姫野先輩はカップをおき、3四銀と進めた。
同金、2三金。
痛打。いきなり詰めろがかかってしまった。
私は入玉を目指すため、3二角と受けた。
5二成銀、2三角、4二成銀。
ぐッ、これが取れないのは痛い。
取ると5二飛、3三玉、2二銀、4四玉、5三飛成で詰んでしまう。
私は2二玉と逃げた。
3一銀、3三玉。
姫野先輩は無慈悲に成銀を引く。
詰む? 先手の持ち駒は飛車しかない。
私は詰まないほうに賭けた。
同玉、4二飛、3三玉、2二飛成、4四玉、4二龍、4三金。
この合い駒はどうやっても抜かれる。
けど、しょうがない。一手でもいいからスキができれば──
5三馬、5五玉、5六歩。
「あッ……」
私は手を止めた──詰んだっぽい。
6五玉に6二龍、7四玉、6三龍以下だ。
5六同玉としても5七金以下で同じになる。
馬と龍だけで詰むとは……不覚。
「負けました」
私は頭をさげた。
姫野さんも一礼する。
紅茶の香りだけが、あたりに漂っていた。
「2三角が敗着ですね……それ以降は詰んでるので……」
「4八銀成のところで、先に3八角ではありませんか?」
【検討図】
え? こんな手があるの?
「3九銀に2九角成ですか?」
「それは先手の収拾がつかないので、3七桂、4八銀成、同玉、2九角成かと。以下、4五銀と打っても、3九銀、5七玉、3七飛成で入り込めます」
「これは読んでなかったです……ただ5七玉とされると、入玉の危険が……」
「はい、その順でも先手やや良しというのが、わたくしの見方です」
となると中盤の構想がおかしかったことになる。
私は仕掛けにムリがあったかどうかたずねた。
姫野先輩はしばらく考えたあと、
「序盤になってしまいますが、どこかで3一玉と寄ったほうがよろしかったのではないでしょうか。例えば8五桂と跳ねる前です」
と答えた。
【検討図】
そっかぁ……間合いの詰め方が甘かったかもしれない。
先に攻めたいという気持ちが強すぎた。
私たちはそのあと、中盤の折衝をいくつか検討した。
どの局面でも姫野先輩の読みのほうが上回っていた。
まだまだ実力不足だと実感させられてしまう。
私はひと息ついて、コーヒーを飲んだ。ヌルい。
「ところで裏見さん、あなたは聖生についてなにか調べていらっしゃいますね」
「ゴホッ!」
ななななななんでそれを?
私は動揺した。
「え、その……おっしゃっていることが……」
「隠されることはありません。ただひとつ、忠告をさせてください」
「忠告?」
「聖生の暗号などというものは存在しません」
……………………
……………………
…………………
………………
「暗号が……存在しない?」
「巷の噂では、1988年に聖生という人物から、ハガキが送られてきたことになっています。しかし、そのようなハガキは実際には送られていません」
私は質問をしかけた。
けど、すぐに口を閉じた。
というのも、ある疑念が沸き起こったからだ。
……姫野先輩、私に調査をあきらめさせようとしてるんじゃない?
本当のことを言われているかどうか、見極めがつかなかった。
そして、その疑念は姫野先輩にも伝わってしまった。
「わたくしが嘘をついているとお思いですか?」
「い、いえ、そういうことは……」
「お気持ちはわかります。このうわさはもはや公然の秘密のようなものなので……しかしながら、1988年に送られたというハガキは、誰も見たことがなく、どこにも保管されていないのです」
「捨てられた可能性はありませんか?」
私は思い切って訊いてみた。
姫野先輩はそういう質問がとんでくることも予想していたっぽくて、
「最初に受け取った人物が隠蔽した……という可能性を考えるならば、こうして外部に漏れていることとつじつまが合いません」
と答えた。
……なるほど、たしかにそうだ。
私はそれ以上の反論を思いつかなかった。
私だって、そのハガキとやらの証拠を一切持っていないからだ。
「……あの、ひとつお伺いしてもいいですか? なぜ私にその情報を?」
姫野先輩はすこしばかり間をおいた。
「都ノに聖生を名乗る人物が出たと聞きました」
「あ、はい……まあ……」
ごまかせないと思い、私は肯定した。
「それ以来、学生棋界で聖生のことを調べるひとが出ています。しかし、聖生に関しては詐欺事件も起こっており、安易に手をつけていいものではありません。裏見さんたちも独自に調査しているのではないかと思い、忠告させていただきました」
私は納得した。
なんで情報をリークしてきたのかあやしんだけど、心配してくれただけのようだ。
おそらく関西でも聖生のことを調べているひとがいるのだろう。御手くんみたいに。
「ご忠告、ありがとうございました」
「いえ、ただの老婆心ですので……それでは、このあたりで失礼いたします」
姫野先輩は駒をかたづけ始めた。
私も手伝う。
マスターは「そこに置いといていいよ」と言ってくれた。
姫野先輩は鈴の音とともに喫茶店を去った。
私はのこりのコーヒーを飲みながら、今の会話について考えた。
矛盾はない。でも、どこかひっかかる。
なぜかしら? 嘘をつかれた気はしないのに──なぜ?
場所:喫茶店 八一
先手:姫野 咲耶
後手:裏見 香子
戦型:矢倉急戦
▲7六歩 △8四歩 ▲6八銀 △3四歩 ▲7七銀 △6二銀
▲2六歩 △3二金 ▲2五歩 △7四歩 ▲7八金 △8五歩
▲5八金 △6四歩 ▲6六歩 △6三銀 ▲5六歩 △7三桂
▲7九角 △4一玉 ▲6七金右 △6二金 ▲4八銀 △8一飛
▲3六歩 △4二銀 ▲3五歩 △8六歩 ▲同 歩 △3五歩
▲同 角 △8五歩 ▲2四歩 △同 歩 ▲同 角 △2三歩
▲4六角 △8六歩 ▲8八歩 △6五歩 ▲同 歩 △5四銀
▲6四歩 △7五歩 ▲6六銀 △8五桂 ▲2四歩 △同 歩
▲2三歩 △4四角 ▲5五銀 △同 銀 ▲同 角 △同 角
▲同 歩 △8四飛 ▲9五角 △6四飛 ▲7三銀 △3四飛
▲6二銀成 △2三金 ▲7三角成 △3九銀 ▲6三馬 △3一玉
▲1八飛 △6六歩 ▲6八金引 △4八銀成 ▲同 玉 △2八銀
▲3六歩 △2九銀不成▲4五銀 △1八銀成 ▲3四銀 △同 金
▲2三金 △3二角 ▲5二成銀 △2三角 ▲4二成銀 △2二玉
▲3一銀 △3三玉 ▲4三成銀 △同 玉 ▲4二飛 △3三玉
▲2二飛成 △4四玉 ▲4二龍 △4三金 ▲5三馬 △5五玉
▲5六歩
まで97手で姫野の勝ち




