247手目 管理領域
午後7時──私は部室のソファーに座っていた。
となりには大谷さん。
テーブルには松平、星野くん、ララさん、穂積さん。
ララさんと穂積さんは将棋を指していた。ちょっと呑気。
パソコンデスクでは、穂積お兄さんが作業を進めていた。
風切先輩はそばに椅子をおいて、作業をながめていた。
三宅先輩は立ったままモニタをみていた。
部員全員が集合している。ひさしぶりのことだった。
穂積お兄さんはキーを叩いて、マウスをうごかす。
「……ダメだね」
それが第一声だった。
風切先輩は、
「できなかったのか?」
とたずねた。
「リカバリソフトを走らせてみたけど、ファイルは復旧してないっぽい」
風切先輩はタメ息をついた。大きくのけぞる。
椅子の背もたれが軋んだ。
「マジか……原因はなんだ? ふつうはできるんだろ?」
穂積お兄さんは考え込んだ。
「……ひとつ考えられるのは、データの上書きかな」
「上書き?」
穂積お兄さんは席をたった。ホワイトボードにむかう。
「パソコンのデータはハードディスクドライブに記録される。より正確にいうと、ハードディスクドライブの中に磁性体を塗った円盤が入ってるんだ。これをプラッタという」
穂積お兄さんは、ホワイトボードに円を描いた。
「この円盤に磁力を与えるのが、ヘッドと呼ばれる部分。ヘッドがプラッタに磁力を与えることで、プラッタ上に一定のパターンができる。このパターンを把握することで、逆にデータの読み取りもできるようになる」
「数学科の俺でもなんとなくわかるぜ。電流と磁力はおたがいに変換できるからな。電磁石がそうだ」
「正解。このプラッタへの書き込みなんだけど、ひとつのデータを円盤の一箇所にまとめて記録する、ってわけじゃないんだ。例えば僕が『穂積重信』という文字列を記録したと仮定するね。すると、極端な場合……」
「こういうふうに記録される」
風切先輩は一瞬けげんそうな顔をした。けどすぐに、
「なるほどな、充填率の問題があるのか」
とコメントした。
「さすがだね。プラッタを効率的に使うためには、大きなデータをそのまま記録していくわけにはいかない。床のタイルといっしょだよ。おおざっぱに貼っていくと、隙間ができちゃうよね。その隙間を有効活用するためには、タイルを分割してハメていくしかない。データでも同じことが必要なんだ」
「分割したデータをどうやって元に戻すんだ?」
「それをするのが管理領域の役目。管理領域にはデータの再現方法が記録されてる。極端な例として、16文字しか記録できないと仮定するね」
ABCDEFGHIJKLMNO
こんにちは_今日_は晴れだ__
「上のアルファベットが、管理領域のための符号だよ。ここに僕の名前を記録する。空いているマスがバラバラだから、文字列も分割して記録しないといけない」
ABCDEFGHIJKLMNO
こんにちは穂今日積は晴れだ重信
「ここで、データを読み込むときの組み合わせを、管理領域に記録する」
名前データ=FINO
「これで結合パターンがわかるってわけさ」
風切先輩はうなずいた。
「2段階なんだな。で、今回のケースとの関係は?」
「パソコンでふつう『削除』というとじつは……」
穂積お兄さんは【管理領域】を斜線で消した。
「こっちを消しているだけなんだよね」
風切先輩は指をはじいた。
「理解した。データの再現方法がわからなくなってるだけってことか。それをリカバリしてやるのがリカバリソフトなんだな」
「そう、データそのものが消えるのは、あくまでも上書きした場合だね。新しく磁力を与えて、パターンを変更したとき。例えばさっきの状態で風切くんの名前を入れるには、4文字消さないといけない」
ABCDEFGHIJKLMNO
こんにちは穂今日積は晴れだ重信
↓
ABCDEFGHIJKLMNO
こんにちは風今日切は晴れだ隼人
「こうなると、僕の名前は再現できなくなる。だからリカバリは早ければ早いほど成功しやすいというわけ」
「じゃあ……動画データに上書きがされてるわけか?」
「可能性のひとつとしてね」
風切先輩は姿勢をもどした。腕組みをして、じっと虚空をにらんだ。
「……聖生の可能性が高くなったな」
室内に緊張が走った。
三宅先輩もうなずいた。
「単に消しただけじゃない……となると、聖生の犯行だと思う」
風切先輩は私のほうをむいた。
「裏見、大谷、犯人の特徴をもう一回説明してくれないか?」
私と大谷さんは、それぞれ特徴を説明した。
私はすごく悩んだ──女装した和泉プロだって伝える?
でもなぁ……さっきまではタイミングを見計らって言おうと思っていた。
今は迷っている。というのも、証拠が消えてしまったからだ。
和泉プロが女装してるなんて、信じてもらえるだろうか。
見間違いだ、と言われたら、反論のしようがなかった。
けっきょく私は、その点について触れずに説明を済ませた。
風切先輩は特徴をまとめて、
「これじゃあ日本に万単位でいそうだな……松平は、どうだ?」
とたずねた。松平は、
「裏見と大谷が言ったのでぜんぶですね。俺から付け加えることはないです」
と答えた。
風切先輩は両手を組んで、それを後頭部にまわした。
キャスターつきの椅子を半回転させる。
「まいったな。これ以上の調査はムリか……だれかアイデアはないか?」
ララさんが将棋を中断して、手をあげた。
「聖生からのチャレンジを待つしかなくない?」
「たしかに……これまでの手口だと、コンタクトを取ってくるかもしれないな」
次に星野くんがしゃべった。
「その場合、聖生は女性ってことになるんですか?」
この質問に風切先輩は詰まった。
「……どうだろうな。共犯者のほうかもしれない」
うーん……和泉プロが聖生の共犯? ありえる?
わからない。
他の部員はこの事実を知らないから、推理はますます混迷した。
ララさんは、
「もしかしてここの学生じゃない?」
と言った。風切先輩はこれを否定しなかった。
「ありうる。聖生が俺たちの動向を監視できたのも、それで説明がつく」
穂積お兄さんも、
「このままようすを見るのがいいかもね。校内でそれらしい人物を見かけたら通報する、っていうのはどう? なにかの偶然でこうなっただけかもしれないし」
と提案した。
風切先輩はうなずきつつ、三宅先輩に話しかけた。
「三宅、警備員は犯人を見ていないのか?」
「見てないらしい」
「正門にも裏門にもいるだろ?」
「該当する服装の女は目撃されてない」
それは……門をくぐったときに女装してなかったからだと思う。
トイレで着替えたんじゃないかしら。
どうしよう。やっぱり言ったほうがいいかも。
私は口をひらこうとした。
ところがこれよりも早く、穂積さんが割り込んだ。
「ララちゃんの案がいいと思います。闇雲に捜すより、聖生の出方を待ちましょう」
また言い出しにくくなる。大谷さんの次のひとことがトドメになった。
「人相の記憶はあいまいになりがちです。証拠がなくなった以上、慎重がよろしいかと」
こうして、動画の件は終了。
そのあとは夕食を食べて、解散になった。
松平に送ってもらう。冬の夜のキャンパスは静まり返っていた。
裏門へ向かうあいだ、松平は例の動画のことを不思議がっていた。
「動画はあったよな……消されてるとしか思えないんだが」
私は「そうね」とだけ答えた。
じぶんの判断がよかったのかどうか悩む。
松平にだけは言ったほうがいいかも。
「ねぇ、松平、じつは……」
その途端、サイドから声をかけられた。
「あれ? 香子ちゃん?」
ふりむくと、街灯の下に粟田さんが立っていた。
「やっぱり香子ちゃんだ。こんばんは」
粟田さんは松平をみた。
私は「将棋サークルの松平よ」と紹介した。
粟田さんは、
「ゼミがいっしょの粟田です。こんばんは」
とあいさつした。松平もあいさつをした。
私は、
「これから帰り? 3人で帰る?」
とたずねた。
すると粟田さんは、
「ううん、邪魔しちゃ悪いし……」
と言ってことわった。
あ、彼氏と帰ってると思われてる?
いや、まあ、半分はそうっちゃそうなんだけど。
「だいじょうぶよ、私もストーカーが怖くて送ってもらってるところ」
「あ、その件なんだけど……私の勘違いだったみたい」
なぬ? 私は事情をたずねた。
「ストーカーだと思った人は、高子プロだったの」
たかねぷろ? ……あのマッシュフルフの麻雀プロか。
「ど、どうして分かったの?」
「和泉プロのようすをみにディジットへ行ったら、ゲストでたまたま来てたの。同卓したときの雑談で、謝られちゃった。散歩してるときにたまたま私をみつけて、声をかけようとしたけど、夜中だからやめたんだって。声をかけようとした理由も、このまえお見舞いをことわったお詫びだったらしいの」
「えっと……高子プロがそう言ってたの?」
「うん」
……………………
……………………
…………………
………………ストーカーの正体がふたりとも麻雀プロだった?
粟田さんは問題が解決したと思ってるっぽい……けど、逆じゃない?
なにか繋がったような気がする。
私が黙っていると、粟田さんは、
「あ、ほんとに邪魔しちゃってごめん。またね」
と言って、その場を去った。
私はあいさつだけして、その場にとどまる。
氷室くんが目撃したのは、女装した和泉プロだった。
粟田さんが目撃したのは、病院で遭遇した高子プロ。
動画は消された。消した犯人はわかっていない。
穂積さんも粟田さんも、ストーカー被害を撤回した。
これが意味するものってなに?
だれかが事件をなかったことにしたがってる。だれが?
松平はなにか言いたげだった。けど、黙って見守ってくれた。
ふたりの白い息だけが、夜風に流される。
「……松平、ひとつお願いがあるの」
「なんだ?」
「あるひとの顔を確認してくれない?」
「顔? ……犯人に目星がついてるのか?」
「ふたりの意見が一致したら、私の推理を話すわ……先入観はなしで頼むわよ」




