227手目 あるべきところ
交換拒否。
風切先輩はチェスクロを押した。聞こえるのは、壁時計の音だけ。出入りするひともいなくなり、観戦のメンバーも固定された。私はちょっと息苦しくなった。けど、廊下に出るわけにもいかなかった。なにか起きたら、見逃してしまう。
氷室くんは、どうして賭けを申し込んだの?
風切先輩に会長になって欲しくないわけは?
謎ばかりだ。氷室くんは、聖生の候補者のひとり。でも、関西に出没した聖生と思しき男性のこどもではない。氷室くんのお父さんは帝大の教授だった。じっさいに会ったわけだし、氷室くんの嫌疑は薄まってきている。
ただ、情報がやたら速いのは気になっていた。もっともそれは、太宰くんとかも同じ。私がなにかのネットワークに入れていないだけだと思う。そのネットワークがどこでなんのために構築されているのか、それが分かれば──
「裏見さん、ずいぶんと深刻そうな顔をしていますね」
うしろからささやかれて、私はびっくりした。
ふりむくと、大河内くんが立っていた。
大河内くんはメガネをなおしながら、
「失礼、驚かせてしまいましたか」
と謝った。
「あ、こっちこそごめんなさい……急に声をかけられたから」
「さきほどの僕の伝言が、ここまで深刻な事態になるとは思っていませんでした」
うーん、嘘をついているようにはみえない。
けど、大河内くんみたいなタイプって、本音を隠しやすいような気もする。
私は慎重に返答した。
「そうね、ちょっと驚いたわ」
「氷室くんがあの賭けを言い出したのは、今日が初めてなのですか?」
むッ、さぐりを入れてきたっぽい。
この質問は、きっぱり否定しておいたほうがよさそう。
あいまいにすると、裏でなにかあったんじゃないかと勘ぐられる。
「今日が初めてよ」
「そうですか。だとすると、いったいどういう……」
大河内くんは、それっきり黙ってしまった。
こんどは、私のほうからさぐりを入れてみる。
「ところで、大河内くん、会長選が云々って、だれが言ってるの?」
「……」
ヒットしたっぽい。
押してみる。
「さっきから気になってるんだけど、大河内くん、『会長選があるのですか?』って訊かないわよね。関東は今まで選挙じゃなかったんでしょ? そこは疑問に思わないの?」
これには、大河内くんもどぎまぎして、
「あの……風切先輩は、都ノのメンバーにまだ言っていないのですか?」
と尋ねてきた。
「なにを?」
「今年の会長は選挙で選ぶと、もっぱらの噂ですが……」
えぇ? ……初耳。
私の表情を読み取った大河内くんは、
「そのようすでは、本当にご存知ないのですね。すこし意外です」
とつぶやいた。
私は風切先輩をみる。
部員に相談なしで、会長選に立候補? ……いや、ちがうか。
そもそも部員に相談する必要はない。会長になるかどうかは先輩の自由だ。
でも、いつ選挙制になったの?
風切先輩の話では、朽木先輩、速水先輩あたりとの指名競争だったような。
いずれにせよ、今の風切先輩は、目の前の将棋に集中していた。
会長選の話なんか、みじんも考えている気配がなかった。
さらに30秒ほどして、ようやく氷室くんが動く。
パシリ
攻めた。
同金、6三金、4四銀、2六角。
風切先輩は攻め駒を攻めていく。
大河内くんは感心して、
「隙がないですね。金銀の連結が抜群です」
と賞賛した。
そこは同意。一見バラバラになりそうで、みごとに連結している。
氷室くんの金は、宙に浮いてしまった。
風切先輩は追い打ちをかけるように、7二金と消しにかかる。
交換はなにがしたいのか分からなくなるから、氷室くんは6四歩で支えた。
「8六歩」
急所に入った。
氷室くんは3七角で、中央の角を消しにかかる。
8七歩成、5五角、同銀。
私はアレっと思った。
「8八とで、王手をかければ駒得なのに……」
大河内くんはメガネをキラリとさせて、
「と金で一手を買ってるんですよ」
と指摘してきた。
「手を買ってる?」
「本譜の氷室くんの手は、8七銀あるいは7二金、同銀、8七銀で固定されています。裏見さんがおっしゃった8八と、同金、5五銀の場合、どうなりますか?」
私はその順を読んでみた。
「……あ、そっか、氷室くんの手番なのは一緒だけど、手が固定されてないわ」
「そうです。8八ととしない代わりに、氷室くんの応手を限定し、そのまま自分のターンに持って来る。手を買ってるわけですね」
ふむむ、なるほど、さすがは大河内くん、新人戦ベスト3はダテじゃないわね。
氷室くんも手の意味が分かっているらしく、小考した。
それにしても、銀得や香得を放棄してまで指したい手って、なにかしら。
私はおとなしく、対局を見守る。
氷室くんは、いつもの虚弱な少年、という雰囲気ではなかった。
とても怜悧で、迫力のあるオーラを漂わせていた。
ときどきこめかみに指をそえ、目を閉じる。ドキリとするくらい絵になっていた。
「……手を変えようがないですね。7二金です」
同銀、8七銀。
風切先輩は6四銀と手をもどした。
なるほど、先輩が指したかったのは、この手か。
8八と、同金、5五銀の場合、7二金、同銀のあとが氷室くんの手番になる。
歩を払うヒマがないのだ。
私は大河内くんに、
「どっちがいいと思う? 私は後手持ち」
とたずねた。
「そうですね……わずかに後手のほうが指しやすいですか」
「やっぱり?」
「しかし、氷室くんがこのまま無策だとも思えません」
それはそうかも。
そして、大河内くんの予想は当たった。
氷室くんはまず7四飛と走った。
5五角、8八歩、8三金の補強に、いきなり6四飛と切った。
これにはギャラリーの顔色も変わる。
左どなりの太宰くんは、
「いやぁ、勉が嫌いそうな手だなぁ」
と評価した。
名指しされた大河内くんは、
「なんで僕基準なんですか?」
と苦言。
「だって勉なら切らないでしょ」
「そういう話ではなく、なんで僕基準なんですか? まあ切りませんけどね」
素直でよろしい。
一方、太宰くんはこの手をけなしているわけではないようで、
「角打ち狙いっぽいな。わりと攻めは続くかも」
と付け加えた。
盤面も、そのとおりに進んだ。
同角、3一角、5二飛、6四角成、同金、5三歩、4二飛。
氷室くんは5一角と打ちなおし、3二飛に6二金と絡みついた。
うまい。
このレベルだと、簡単に手が作れるのね。
このかたちに持っていけるとは思わなかった。
風切先輩も、最後の長考に入る。
残り時間は、先手が5分、後手が8分。
太宰くんは、
「もう速度勝負だね。後手は5七歩成以下、先手は5二歩成以下」
と、終盤を宣言した。
私もその通りだと思う。5七歩成、同銀、5九飛が本命かしら。
あるいは、一回8六歩と叩いておきたい。
風切先輩は両ひじをテーブルにつき、両ほほに手をあてて読んでいた。
無音の時間が過ぎ去る。
「……5七歩成」
寄せ合いに入った。
同銀、5九飛、6九歩、7一歩、5二歩成、5七飛成。
ここまではスムーズに。問題は、氷室くんの次の一手。
いろいろと考えられる。
一番単純なのは6一と。でもその攻めは、切れるような気がした。
すぐに7二金も、飛車の横利きに阻まれそう。
氷室くんの出した答えは、もっと重厚な攻めだった。
「5三銀」
狙いは明確。6四の金に当てつつ、7二金、同歩、6二銀成と入るつもりだ。
風切先輩は30秒ほど使って、6三金と引いた。
7二金、同歩、6二銀成、同金、同角成。
「8一金」
補強が入った。
氷室くんはノータイムで6一と。
風切先輩はこのタイミングで6二飛と切った。
太宰くんは、
「この切り方は勉好みだなぁ」
と言い、大河内くんは、
「だからなんで僕基準なんですか。たしかに切りますが」
と答えた。
こらこら、男子、マジメに読む。
とはいえ、対局者がどの深度で読んでいるのか、もう分からない。
見えている局面よりも、ずっと先のような気がした。
同と、6六角。
ここで氷室くんが1分将棋に突入した。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
氷室くんは7七銀と打った。
風切先輩の猛攻が始まる。
8六歩、6六銀、同龍、7八銀、5七角、6八金打。
ぐぅ、めんどくさい再構築が始まった。
これがあるから穴熊は遠いのよ。
8七銀、同歩、同歩成、同銀。
風切先輩は8六歩と叩く。
ここで氷室くんの手が止まった。
この歩は取れない。取ると8七歩の垂らしがある。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
パシリ
打ち返した。
風切先輩、ここで最後の長考。
そのまま1分将棋に。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「同金」
7一銀、同金、5一飛。
風切先輩は、持ち駒に手をのばす。
ちょちょちょ、6五に歩がいますよ。6一歩は二歩。
ドキドキする私をよそに、風切先輩は合駒を打った。
これは……ギャラリーは息を呑む。
風切先輩は足を組み、うしろで束ねた髪をさわった。
優勢を意識したときの、先輩の癖だ。
そして、読みきっていないと打てない銀。
その意味するところが、周囲に伝わった。
氷室くんは一瞬だけ歯を食いしばり、ふたたび読み始めた。
時間が溶ける。氷室くんは、50秒台でひたいに手をあてた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
9一角が打たれた。
同玉なら7一とが詰めろ。
もちろん風切先輩は取らないで、8三玉と立った。
5七飛成、8七歩成、6六龍、同歩、5六角。
風切先輩は、もういちど銀で合駒。
氷室くんは力なく微笑んだ。
「先輩の玉はもう寄らない……僕のほうは逃げ場のない雪隠……ですか」
氷室くんは、持ち駒をそろえた。
深く一礼する。
「負けました」
風切先輩も姿勢をただし、一礼した。
「ありがとうございました」
ギャラリーから、小声で歓声が漏れた。
あるべきものがあるべき場所におさまったような、そんな瞬間だった。
場所:2016年度 秋季個人戦3日目 男子決勝
先手:氷室 京介
後手:風切 隼人
戦型:先手居飛車穴熊vs後手三間飛車
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △4四歩 ▲4八銀 △9四歩
▲9六歩 △3二飛 ▲2五歩 △3三角 ▲6八玉 △4二銀
▲7八玉 △6二玉 ▲5六歩 △7二銀 ▲5七銀 △4三銀
▲7七角 △7一玉 ▲8八玉 △5二金左 ▲5八金右 △8二玉
▲6六歩 △6四歩 ▲8六角 △6三金 ▲9八香 △7四歩
▲9九玉 △8四歩 ▲8八銀 △7三桂 ▲7九金 △8三銀
▲6八金寄 △7二金 ▲7八金寄 △4五歩 ▲3六歩 △4二飛
▲5九角 △1四歩 ▲1六歩 △4一飛 ▲2六角 △1二香
▲4八角 △5四銀 ▲3七角 △9二香 ▲6七金 △4三銀
▲7八飛 △4四銀 ▲7五歩 △同 歩 ▲同 飛 △7四歩
▲7八飛 △5四歩 ▲7六金 △5三銀 ▲6八銀 △4四角
▲1八香 △4二飛 ▲2八角 △3五歩 ▲6五歩 △同 歩
▲7五歩 △同 歩 ▲同 金 △7四歩 ▲6四歩 △7五歩
▲6三歩成 △同 金 ▲7五飛 △7四歩 ▲7八飛 △8五歩
▲5五歩 △同 歩 ▲1七角 △5六歩 ▲3五角 △5五角
▲5四歩 △同 金 ▲6三金 △4四銀 ▲2六角 △7二金
▲6四歩 △8六歩 ▲3七角 △8七歩成 ▲5五角 △同 銀
▲7二金 △同 銀 ▲8七銀 △6四銀 ▲7四飛 △5五角
▲8八歩 △8三金 ▲6四飛 △同 角 ▲3一角 △5二飛
▲6四角成 △同 金 ▲5三歩 △4二飛 ▲5一角 △3二飛
▲6二金 △5七歩成 ▲同 銀 △5九飛 ▲6九歩 △7一歩
▲5二歩成 △5七飛成 ▲5三銀 △6三金 ▲7二金 △同 歩
▲6二銀成 △同 金 ▲同角成 △8一金 ▲6一と △6二飛
▲同 と △6六角 ▲7七銀 △8六歩 ▲6六銀 △同 龍
▲7八銀 △5七角 ▲6八金打 △8七銀 ▲同 歩 △同歩成
▲同 銀 △8六歩 ▲8四歩 △同 金 ▲7一銀 △同 金
▲5一飛 △6一銀 ▲9一角 △8三玉 ▲5七飛成 △8七歩成
▲6六龍 △同 歩 ▲5六角 △7四銀
まで166手で風切の勝ち




