表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
凛として駒娘──裏見香子の大学将棋物語  作者: 稲葉孝太郎
第35章 2016年度秋季団体戦3日目(2016年10月9日日曜)
211/496

210手目 キャラバン

挿絵(By みてみん)

 すべての対局が終わった。

 大教室では、表彰式がおこなわれている。

 A級優勝校→B級優勝校・準優勝校→赤学あかがくと進んで、いよいよ都ノみやこのの番。

 風切かざぎり先輩が壇上にあがった。

 入江いりえ会長は、箱のなかから賞状をとりだし、ゆっくりと読みあげる。

「2016年度秋季団体戦、Cクラス準優勝、都ノ大学将棋部殿。あなたは頭書の成績を収められましたので、これを表彰し、2017年度春季よりBクラスに所属することを認めます。関東大学将棋連合、幹事長、入江いりえ直哉なおや

 拍手の音。

 風切先輩は一礼して、賞状をうけとった。

「ありがとうございます」

 Dの大学と交代するため、風切先輩は壇上からおりた。

 そのまま私たちのグループと合流する。

 風切先輩は賞状をクリアファイルに入れて、三宅みやけ先輩に渡した。

 Dクラスの表彰もすぐに終わって、閉会の時間に。

 入江会長は壇上から、

「みなさん、おつかれさまでした。秋季大会も無事終わりました。これもみなさんの協力があってのことだと思います。さて、いくつか連絡事項があります。まず、12月の王座戦出場校を決めるトーナメントは、11月上旬に2週かけておこないます。Cの優勝校、Bの優勝校および準優勝校、Aの4位から8位までは、1週目から参加になります。勝ち残った大学は2週目へ進出し、Aの3位と当たります。そこで勝った大学が、Aの準優勝校と出場枠を争います」

 めちゃくちゃA級に有利なのね。

 まあ、あたりまえか。問答無用でAの優勝校と準優勝校でも、文句は言えない。

 すこし会場内がざわついた。入江会長は左手でみんなを制した。

「次に、来週から引き続き、個人戦が始まります。ただし、来週は男子のみです。女子は再来週からです……僕からの連絡事項は以上です。会場からは、なにかありますか?」

 入江会長は、ほかの幹事に視線をおくった。

 とくに反応はなかった。

「それでは、2016年度秋季団体戦を終わります。おつかれさまでした」


  ○

   。

    .


 1時間後――私たちはジャズクラブにいた。

 壁ぎわの丸テーブルに腰かけた風切先輩は、お酒を飲みながら、

「こんなシャレたところで打ち上げになるとは、思わなかったな」

 とつぶやいた。

 同意。あのあと、電電理科大学のキャンパスを出て、私たちは最後の反省会をした。それから打ち上げの話になった。そのとき、赤学のわきくんに声をかけられた。脇くんは風切先輩に、「打ち上げをごいっしょさせていただけませんか?」とたずねた。ちょっと警戒したけど、Cクラスの昇級校同士だし、ことわるのも失礼かな、という流れになった。

 で、連れてこられたのが――ここ、例のナイトジャズクラブ。

 まあ、悪くはないわよね。居酒屋で打ち上げ、っていうのも、このメンバーだとむずかしい。かといって、ファミレスで食事会は特別感がない。ひとつ想定外のことがあったとすれば、なぜか火村ほむらさんも来ていることだった。火村さんはカウンターで私の右どなりに座って、ずっとくだを巻いていた。

「あ〜あ、なんで初戦に赤学とあたるかなぁ。あれなかったら昇級だったのにぃ」

 いやいやいや、火村さん、完全にたらればですよ。

 明石あかしくんみたいにちゃんと達観しましょう。

 私はなぐさめついでに、

「来季は3位からスタートでしょ、なんとかなるわよ」

 とコメントした。

 火村さんは納得がいかないらしく、

「もぉ、こうなったら今日は飲むわよ」

 と言って、ダンディなバーテンダーさんに声をかけた。

 こらこらこら、なにを暴走してるんですか。

 バーテンダーさんも火村さんの体格をみて、

「未成年のひとにお酒は出せないよ」

 と注意した。

 ところが、火村さんはむくれて、

「あたしはおとなよ」

 と答えた。バーテンダーさんはもういちど火村さんをみて、

「……身分証ある?」

 とたずねた。

 火村さんは学生証を出した。あたしの位置からは、オモテ面がみえない。

 バーテンダーさんはそれをじっと見て、

「……ご注文は?」

 と訊いた。

 マ? 火村さん、ほんとに私より年上なの?

 自己申告ではそうなっていたけど、じつはちょっとうたがっていた。

 火村さんはメニューを見ずに、

「ブラッディ・マリー」

 と答えた。

「なにか入れる?」

「塩ひとつまみ、コショウひとふり……あと野菜スティックはつく?」

「パセリとパプリカなら」

「じゃあ両方」

 バーテンダーさんは、棚から透明なお酒の瓶をとりだした。中身も透明。それを大きめのグラスに入れ、トマトジュースとレモンジュースをそそいだ。軽くかきまぜる。それをタンブラーに移し、塩とコショウを少量加えた。セロリとパセリをきれいにさして、カウンターのうえにおいた。

「お待たせしました」

 火村さんはパセリとパプリカが邪魔にならないように持って、ひとくち飲んだ。

「ふ〜ん、これが日本のブラッディ・マリーなんだ」

「お気に召した?」

「度数が低くて、さっぱりしてるのね」

「初見のお客さんには12度で出してるんだ」

 ふむ……火村さんが急におとなにみえてきた。

 というか、野菜をつっこむお酒ってあるんだ。はじめて見たかも。

 火村さんの右どなりの脇くんも、ちょっとこのようすを意外に思ったのか、

「火村さんって、年上だったんだね。留学?」

 とたずねた。

 火村さんはタンブラーをかたむけながら、

「世界を放浪してるの」

 と、なんだか気取った返事。

 脇くんはそれがおもしろかったのか、クスリと笑った。

 火村さんは脇くんをみて、

「あんたこそ、なんかお子さまっぽいもの食べてるわね」

 と言った。

 そう、脇くんは前とおなじように、メロンソーダを注文していた。

 脇くんは、スプーンをとめる。

「……これは、思い出の飲み物なんだよね」

「夏休みにママが作ってくれたの?」

 火村さぁん、その言い方をちょっとなんとかしなさぁい。

 一方、脇くんは怒りもせず、そっと目を閉じた。

「僕の両親は音楽家なんだ。父がフルートで、母がビオラ」

 急に空気が変わった。

 火村さんはタンブラーをかたむけつつ、横目で脇くんを観察する。

「……そんなかっこうでジャズクラブにいるのは、ささやかな反抗ってわけ?」

「火村さんは、ウィーンに行ったことある?」

「もちろん」

「僕がウィーンを初めて訪れたのは、ほんとうにまだ小さかったころで……あとで写真をみなかったら、正確な日付はわからなかったと思う。あれは2006年7月27日、小学3年生の僕は、夏休みに両親とオーストリアへ飛んだ。ウィーンを経由して、ザルツブルク音楽祭を観劇しに行くためだった。演目は……」

「モーツァルト」

 脇くんはスプーンでクリームをすくい、口にはこんだ。

 静謐せいひつな時間が流れる。

「もしかして、きみもあそこにいた?」

「ええ……あの年はモーツァルトの生誕250周年だったもの」

「そう、あの偉大な音楽家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの生誕250周年を記念して、彼のすべての作品が上演された。僕たちが観にいったのは『魔笛』だよ。成田を発つとき、ほんとうにわくわくしていた。あの頃はドイツ語もろくに読めなかったけど、飛行機のなかでパンフレットに何度も目を通した。指揮はリッカルド・ムーティ、演奏はウィーン・フィル……最高じゃないか」

 火村さんはタンブラーをかたむけながら答える。

「あたしはあの演出、あんまり好きじゃないのよねぇ、前衛的すぎて」

「そっか……じつはね、僕がオーストリアで得た感動も、あの『魔笛』じゃなかった」

 脇くんはふたたび目を閉じた。

 グラスのなかで、ゆっくりとクリームが流れる。

 それはメロンソーダの緑のなかに、いく筋もの模様をえがいていた。

「『魔笛』は29日が初日だった。僕たちはウィーンで一泊して、中央駅からザルツブルクへ出発するところだった。ところがね、その途中で両親とはぐれてしまった。路地へ迷いこんじゃったのさ。不思議と怖くはなかった。たぶん、状況がよくわかっていなかったんだろう……それに、道ばたでとてもステキなものを見つけたんだ。アイスクリーム屋さんだよ。移動式のね」

 ダンスホールで演奏がはじまった。

 リズミカルな音楽にあわせて、ひとびとの影がおどる。

「色とりどりのアイスを、僕はじっとみつめていた。すると、売り場のおばさんは僕になにか話しかけてきた。もちろんわからなかったよ。ドイツ語が通じないことに気づくと、おばさんはアイスの名前を英語で順番に言い始めた。僕はお金を持っていなかったのに、『メロンソーダ』と答えた。もちろん通じなかったさ。和製英語だからね。だけど、そのときは妙に機転が利いてね、べつの名前があること思い出した。『クリームソーダ!』と大声で言った。おばさんは急に納得顔で、バニラアイスをカップに入れ、クーラーボックスから缶をとりだし、中身をそそいだ。そして僕にくれた。手にとった僕はびっくりしたよ。メロンのはずなのに、茶色かったからね。匂いでコーラだとわかった。そう、おばさんは『アイスクリームにソーダをかけてくれ』っていう注文だと勘違いしたんだ。でもそのときはとてもうれしかったから、スプーンですぐに口に入れた。おいしかったよ、真夏の朝に食べるアイスクリームは」

 リズムが流れる。

 ドラムをたたいているのは、先週出会ったアキオさんだった。

 黄色いアロハシャツが、ダンスホールの灯りに浮かぶ。

 世界にはじぶんひとりしかいないのだと、そう語るようにリズムをきざんでいた。

「夢中で食べていたら、調子はずれの音楽があたりにひびいた。ハンチング帽をかぶった初老の男が、ベンチでアコーディオンを弾いていた。そのまわりで、こどもたちが何人か遊んでいた。男がアコーディオンを弾いても、こどもたちは見向きもしなかった。地面にチョークで落書きをしたり、そのうえで飛び跳ねたりしているだけだった。それでも男は楽しそうに弾いていた。こどもたちも、ほんとうに楽しそうに遊んでいた。アコーディオンのメロディは音程もリズムも合っていなくて、こどもたちの遊びはなにもかもがデタラメだった。だけど、そのデタラメさのなかに、僕はなぜかひとつの調和を感じた。その調和は、楽譜やリハーサルのように用意されたものじゃなくて、なにか……真夏のひざしにあらわれた、奇跡のようなものだった」

 脇くんはそこで話をとめた。

 微笑びしょうを浮かべる。

 その微笑には、どこか自嘲的なところがあった。

 タンブラーを半分ほどあけていた火村さんは、ひとことコメントする。

「で、そのときからクラシック不感症になっちゃったわけ?」

「不感症か……なかなかいい表現だね。僕はそのあと、両親に発見されてザルツブルクへ移動した。音楽祭で観た『魔笛』は、すばらしかったよ。ほんとうさ。でも、日本を発つまえのワクワクはもうなかった。帰りの飛行機でも、あの路地のことばかり考えていた」

「パパとママは怒ったんじゃない?」

「僕が迷子になったことに?」

「そうね……人生の迷子になったことに、かしら」

 火村さんの返事をうけて、脇くんは笑った。

「最初は気づかなかったよ。帰国後も、僕は音楽学校に通っていたし、両親のレッスンもすなおに聞いていた。ただ、中学生くらいになると、ファッションの好みで注意を受けることが多くなって、とうとう高1のときに『音大には行かない』って宣言したら、さすがに気づいたのさ。僕にはクラシック演奏家になる気がないって。ナイトクラブ通いもバレて、大げんかになったあげく、家庭内勘当かんどうされたよ」

「でも、大学には行かせてもらってるじゃない」

「奨学金と自腹さ。両親は僕に、もう1円も投資する気はないみたいだね」

 リズムが流れる。

 それはクライマックスにむかっていた。

 脇くんは顔をあげ、虚空をみつめる。

「僕はあのとき、音楽そのものを見た気がする」

 脇くんはそう言って、口を閉じた。

 グラスのなかに、うつくしい白と緑の模様が流れていた。

 私が時間の感覚をなくしていると、ふと男性の声が聞こえた。

「よお、ワッキー」

 アキオさんが、脇くんのうしろに立っていた。

 すこし汗をかいていた。

 さっきまでの音楽は、いつのまにか終わっていた。

 脇くんはそちらに顔をむけた。

「なんですか?」

「俺の演奏はどうだった?」

 私は、脇くんが答えられないんじゃないかと思った。

 ところが、それは杞憂きゆうだった。

「ウィップラッシュのわりに、ずいぶんと優しく演奏したんですね」

「今夜の気分はどうだ? ノってるか?」

 脇くんはほほえむと、足もとの大きなカバンから、真っ黒なケースをとりだした。

 私はてっきり、将棋道具を運ぶためのカバンだと思っていた。

 でも、将棋道具は駒箱ひとつしか入っていなかった。

 ケースをひざのうえで開ける――銀色のフルートが姿をあらわした。

 脇くんは両手でそれを持ち、表面のランプの反射を、じっとみつめていた。

「アキオさん、曲は?」

「ワッキーのリクエストで」

「……キャラバン」

 アキオさんはわざとらしく口をあけ、うれしそうに首をふった。

「いいのか、酸欠で卒倒しないでくれよ」

「アキオさんこそ、テンポはコンマで合わせてください」

 脇くんは席を立ち、店の奥の、一段高くなったホールへあがった。

 ひとりの青年が歓声をあげる。

 お店のバンドは、サックス、トランペット、ピアノ、ベースの4人。

 そこへアキオさんのドラムと、脇くんのフルートがくわわる。

 脇くんはスッと背筋を伸ばし、足を肩幅にひらいた。

 フルートに口をつける。

 シャーンとシンバルが鳴り、アキオさんの1、2、3から演奏がはじまった。

 音がはじけ、古い洋画のOPみたいなイントロが流れた。

 火村さんはそれをながめながら、お酒をひとくち飲む。

「なるほどね……あいつは逃げなかったわけか」

 火村さんのセリフに、私は「どういう意味?」とたずねた。

「あいつのパパ、フルート奏者なんでしょ」

 あッ……そっか。

 私は脇くんをみた。

 彼もまた、世界にはじぶんひとりしかいないみたいに、フルートを吹いていた。

 ただ、アキオさんのときとはちがって、どこかうれいのある音色だった。

 火村さんはタンブラーをおいた。そして、こう続けた。

「あいつはフルートを選ぶことで、クラシックから逃げないでいる。そういう戦い方もあるってことか……勉強になるわ……香子きょうこ、とりあえず昇級おめでと。あたしたちも途中で逃げなければ、そのうち再戦できるでしょ。そのときは香子もハタチだから、打ち上げで一杯おごってあげる。勝者から敗者に、なぐさめのカクテルを、ね」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=891085658&size=88
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ