210手目 キャラバン
すべての対局が終わった。
大教室では、表彰式がおこなわれている。
A級優勝校→B級優勝校・準優勝校→赤学と進んで、いよいよ都ノの番。
風切先輩が壇上にあがった。
入江会長は、箱のなかから賞状をとりだし、ゆっくりと読みあげる。
「2016年度秋季団体戦、Cクラス準優勝、都ノ大学将棋部殿。あなたは頭書の成績を収められましたので、これを表彰し、2017年度春季よりBクラスに所属することを認めます。関東大学将棋連合、幹事長、入江直哉」
拍手の音。
風切先輩は一礼して、賞状をうけとった。
「ありがとうございます」
Dの大学と交代するため、風切先輩は壇上からおりた。
そのまま私たちのグループと合流する。
風切先輩は賞状をクリアファイルに入れて、三宅先輩に渡した。
Dクラスの表彰もすぐに終わって、閉会の時間に。
入江会長は壇上から、
「みなさん、おつかれさまでした。秋季大会も無事終わりました。これもみなさんの協力があってのことだと思います。さて、いくつか連絡事項があります。まず、12月の王座戦出場校を決めるトーナメントは、11月上旬に2週かけておこないます。Cの優勝校、Bの優勝校および準優勝校、Aの4位から8位までは、1週目から参加になります。勝ち残った大学は2週目へ進出し、Aの3位と当たります。そこで勝った大学が、Aの準優勝校と出場枠を争います」
めちゃくちゃA級に有利なのね。
まあ、あたりまえか。問答無用でAの優勝校と準優勝校でも、文句は言えない。
すこし会場内がざわついた。入江会長は左手でみんなを制した。
「次に、来週から引き続き、個人戦が始まります。ただし、来週は男子のみです。女子は再来週からです……僕からの連絡事項は以上です。会場からは、なにかありますか?」
入江会長は、ほかの幹事に視線をおくった。
とくに反応はなかった。
「それでは、2016年度秋季団体戦を終わります。おつかれさまでした」
○
。
.
1時間後――私たちはジャズクラブにいた。
壁ぎわの丸テーブルに腰かけた風切先輩は、お酒を飲みながら、
「こんなシャレたところで打ち上げになるとは、思わなかったな」
とつぶやいた。
同意。あのあと、電電理科大学のキャンパスを出て、私たちは最後の反省会をした。それから打ち上げの話になった。そのとき、赤学の脇くんに声をかけられた。脇くんは風切先輩に、「打ち上げをごいっしょさせていただけませんか?」とたずねた。ちょっと警戒したけど、Cクラスの昇級校同士だし、ことわるのも失礼かな、という流れになった。
で、連れてこられたのが――ここ、例のナイトジャズクラブ。
まあ、悪くはないわよね。居酒屋で打ち上げ、っていうのも、このメンバーだとむずかしい。かといって、ファミレスで食事会は特別感がない。ひとつ想定外のことがあったとすれば、なぜか火村さんも来ていることだった。火村さんはカウンターで私の右どなりに座って、ずっとくだを巻いていた。
「あ〜あ、なんで初戦に赤学とあたるかなぁ。あれなかったら昇級だったのにぃ」
いやいやいや、火村さん、完全にたらればですよ。
明石くんみたいにちゃんと達観しましょう。
私はなぐさめついでに、
「来季は3位からスタートでしょ、なんとかなるわよ」
とコメントした。
火村さんは納得がいかないらしく、
「もぉ、こうなったら今日は飲むわよ」
と言って、ダンディなバーテンダーさんに声をかけた。
こらこらこら、なにを暴走してるんですか。
バーテンダーさんも火村さんの体格をみて、
「未成年のひとにお酒は出せないよ」
と注意した。
ところが、火村さんはむくれて、
「あたしはおとなよ」
と答えた。バーテンダーさんはもういちど火村さんをみて、
「……身分証ある?」
とたずねた。
火村さんは学生証を出した。あたしの位置からは、オモテ面がみえない。
バーテンダーさんはそれをじっと見て、
「……ご注文は?」
と訊いた。
マ? 火村さん、ほんとに私より年上なの?
自己申告ではそうなっていたけど、じつはちょっとうたがっていた。
火村さんはメニューを見ずに、
「ブラッディ・マリー」
と答えた。
「なにか入れる?」
「塩ひとつまみ、コショウひとふり……あと野菜スティックはつく?」
「パセリとパプリカなら」
「じゃあ両方」
バーテンダーさんは、棚から透明なお酒の瓶をとりだした。中身も透明。それを大きめのグラスに入れ、トマトジュースとレモンジュースをそそいだ。軽くかきまぜる。それをタンブラーに移し、塩とコショウを少量加えた。セロリとパセリをきれいにさして、カウンターのうえにおいた。
「お待たせしました」
火村さんはパセリとパプリカが邪魔にならないように持って、ひとくち飲んだ。
「ふ〜ん、これが日本のブラッディ・マリーなんだ」
「お気に召した?」
「度数が低くて、さっぱりしてるのね」
「初見のお客さんには12度で出してるんだ」
ふむ……火村さんが急におとなにみえてきた。
というか、野菜をつっこむお酒ってあるんだ。はじめて見たかも。
火村さんの右どなりの脇くんも、ちょっとこのようすを意外に思ったのか、
「火村さんって、年上だったんだね。留学?」
とたずねた。
火村さんはタンブラーをかたむけながら、
「世界を放浪してるの」
と、なんだか気取った返事。
脇くんはそれがおもしろかったのか、クスリと笑った。
火村さんは脇くんをみて、
「あんたこそ、なんかお子さまっぽいもの食べてるわね」
と言った。
そう、脇くんは前とおなじように、メロンソーダを注文していた。
脇くんは、スプーンをとめる。
「……これは、思い出の飲み物なんだよね」
「夏休みにママが作ってくれたの?」
火村さぁん、その言い方をちょっとなんとかしなさぁい。
一方、脇くんは怒りもせず、そっと目を閉じた。
「僕の両親は音楽家なんだ。父がフルートで、母がビオラ」
急に空気が変わった。
火村さんはタンブラーをかたむけつつ、横目で脇くんを観察する。
「……そんなかっこうでジャズクラブにいるのは、ささやかな反抗ってわけ?」
「火村さんは、ウィーンに行ったことある?」
「もちろん」
「僕がウィーンを初めて訪れたのは、ほんとうにまだ小さかったころで……あとで写真をみなかったら、正確な日付はわからなかったと思う。あれは2006年7月27日、小学3年生の僕は、夏休みに両親とオーストリアへ飛んだ。ウィーンを経由して、ザルツブルク音楽祭を観劇しに行くためだった。演目は……」
「モーツァルト」
脇くんはスプーンでクリームをすくい、口にはこんだ。
静謐な時間が流れる。
「もしかして、きみもあそこにいた?」
「ええ……あの年はモーツァルトの生誕250周年だったもの」
「そう、あの偉大な音楽家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの生誕250周年を記念して、彼のすべての作品が上演された。僕たちが観にいったのは『魔笛』だよ。成田を発つとき、ほんとうにわくわくしていた。あの頃はドイツ語もろくに読めなかったけど、飛行機のなかでパンフレットに何度も目を通した。指揮はリッカルド・ムーティ、演奏はウィーン・フィル……最高じゃないか」
火村さんはタンブラーをかたむけながら答える。
「あたしはあの演出、あんまり好きじゃないのよねぇ、前衛的すぎて」
「そっか……じつはね、僕がオーストリアで得た感動も、あの『魔笛』じゃなかった」
脇くんはふたたび目を閉じた。
グラスのなかで、ゆっくりとクリームが流れる。
それはメロンソーダの緑のなかに、いく筋もの模様をえがいていた。
「『魔笛』は29日が初日だった。僕たちはウィーンで一泊して、中央駅からザルツブルクへ出発するところだった。ところがね、その途中で両親とはぐれてしまった。路地へ迷いこんじゃったのさ。不思議と怖くはなかった。たぶん、状況がよくわかっていなかったんだろう……それに、道ばたでとてもステキなものを見つけたんだ。アイスクリーム屋さんだよ。移動式のね」
ダンスホールで演奏がはじまった。
リズミカルな音楽にあわせて、ひとびとの影がおどる。
「色とりどりのアイスを、僕はじっとみつめていた。すると、売り場のおばさんは僕になにか話しかけてきた。もちろんわからなかったよ。ドイツ語が通じないことに気づくと、おばさんはアイスの名前を英語で順番に言い始めた。僕はお金を持っていなかったのに、『メロンソーダ』と答えた。もちろん通じなかったさ。和製英語だからね。だけど、そのときは妙に機転が利いてね、べつの名前があること思い出した。『クリームソーダ!』と大声で言った。おばさんは急に納得顔で、バニラアイスをカップに入れ、クーラーボックスから缶をとりだし、中身をそそいだ。そして僕にくれた。手にとった僕はびっくりしたよ。メロンのはずなのに、茶色かったからね。匂いでコーラだとわかった。そう、おばさんは『アイスクリームにソーダをかけてくれ』っていう注文だと勘違いしたんだ。でもそのときはとてもうれしかったから、スプーンですぐに口に入れた。おいしかったよ、真夏の朝に食べるアイスクリームは」
リズムが流れる。
ドラムをたたいているのは、先週出会ったアキオさんだった。
黄色いアロハシャツが、ダンスホールの灯りに浮かぶ。
世界にはじぶんひとりしかいないのだと、そう語るようにリズムをきざんでいた。
「夢中で食べていたら、調子はずれの音楽があたりにひびいた。ハンチング帽をかぶった初老の男が、ベンチでアコーディオンを弾いていた。そのまわりで、こどもたちが何人か遊んでいた。男がアコーディオンを弾いても、こどもたちは見向きもしなかった。地面にチョークで落書きをしたり、そのうえで飛び跳ねたりしているだけだった。それでも男は楽しそうに弾いていた。こどもたちも、ほんとうに楽しそうに遊んでいた。アコーディオンのメロディは音程もリズムも合っていなくて、こどもたちの遊びはなにもかもがデタラメだった。だけど、そのデタラメさのなかに、僕はなぜかひとつの調和を感じた。その調和は、楽譜やリハーサルのように用意されたものじゃなくて、なにか……真夏のひざしにあらわれた、奇跡のようなものだった」
脇くんはそこで話をとめた。
微笑を浮かべる。
その微笑には、どこか自嘲的なところがあった。
タンブラーを半分ほどあけていた火村さんは、ひとことコメントする。
「で、そのときからクラシック不感症になっちゃったわけ?」
「不感症か……なかなかいい表現だね。僕はそのあと、両親に発見されてザルツブルクへ移動した。音楽祭で観た『魔笛』は、すばらしかったよ。ほんとうさ。でも、日本を発つまえのワクワクはもうなかった。帰りの飛行機でも、あの路地のことばかり考えていた」
「パパとママは怒ったんじゃない?」
「僕が迷子になったことに?」
「そうね……人生の迷子になったことに、かしら」
火村さんの返事をうけて、脇くんは笑った。
「最初は気づかなかったよ。帰国後も、僕は音楽学校に通っていたし、両親のレッスンもすなおに聞いていた。ただ、中学生くらいになると、ファッションの好みで注意を受けることが多くなって、とうとう高1のときに『音大には行かない』って宣言したら、さすがに気づいたのさ。僕にはクラシック演奏家になる気がないって。ナイトクラブ通いもバレて、大げんかになったあげく、家庭内勘当されたよ」
「でも、大学には行かせてもらってるじゃない」
「奨学金と自腹さ。両親は僕に、もう1円も投資する気はないみたいだね」
リズムが流れる。
それはクライマックスにむかっていた。
脇くんは顔をあげ、虚空をみつめる。
「僕はあのとき、音楽そのものを見た気がする」
脇くんはそう言って、口を閉じた。
グラスのなかに、うつくしい白と緑の模様が流れていた。
私が時間の感覚をなくしていると、ふと男性の声が聞こえた。
「よお、ワッキー」
アキオさんが、脇くんのうしろに立っていた。
すこし汗をかいていた。
さっきまでの音楽は、いつのまにか終わっていた。
脇くんはそちらに顔をむけた。
「なんですか?」
「俺の演奏はどうだった?」
私は、脇くんが答えられないんじゃないかと思った。
ところが、それは杞憂だった。
「ウィップラッシュのわりに、ずいぶんと優しく演奏したんですね」
「今夜の気分はどうだ? ノってるか?」
脇くんはほほえむと、足もとの大きなカバンから、真っ黒なケースをとりだした。
私はてっきり、将棋道具を運ぶためのカバンだと思っていた。
でも、将棋道具は駒箱ひとつしか入っていなかった。
ケースを膝のうえで開ける――銀色のフルートが姿をあらわした。
脇くんは両手でそれを持ち、表面のランプの反射を、じっとみつめていた。
「アキオさん、曲は?」
「ワッキーのリクエストで」
「……キャラバン」
アキオさんはわざとらしく口をあけ、うれしそうに首をふった。
「いいのか、酸欠で卒倒しないでくれよ」
「アキオさんこそ、テンポはコンマで合わせてください」
脇くんは席を立ち、店の奥の、一段高くなったホールへあがった。
ひとりの青年が歓声をあげる。
お店のバンドは、サックス、トランペット、ピアノ、ベースの4人。
そこへアキオさんのドラムと、脇くんのフルートがくわわる。
脇くんはスッと背筋を伸ばし、足を肩幅にひらいた。
フルートに口をつける。
シャーンとシンバルが鳴り、アキオさんの1、2、3から演奏がはじまった。
音がはじけ、古い洋画のOPみたいなイントロが流れた。
火村さんはそれをながめながら、お酒をひとくち飲む。
「なるほどね……あいつは逃げなかったわけか」
火村さんのセリフに、私は「どういう意味?」とたずねた。
「あいつのパパ、フルート奏者なんでしょ」
あッ……そっか。
私は脇くんをみた。
彼もまた、世界にはじぶんひとりしかいないみたいに、フルートを吹いていた。
ただ、アキオさんのときとはちがって、どこか憂いのある音色だった。
火村さんはタンブラーをおいた。そして、こう続けた。
「あいつはフルートを選ぶことで、クラシックから逃げないでいる。そういう戦い方もあるってことか……勉強になるわ……香子、とりあえず昇級おめでと。あたしたちも途中で逃げなければ、そのうち再戦できるでしょ。そのときは香子もハタチだから、打ち上げで一杯おごってあげる。勝者から敗者に、なぐさめのカクテルを、ね」




