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凛として駒娘──裏見香子の大学将棋物語  作者: 稲葉孝太郎
第21章 2016年度新人戦(2016年6月12日日曜)
127/496

126手目 テイラー展開

 ここは電電でんでん理科りか大学の近くにあるファミレス。

 打ち上げに集まった私たちは、それぞれ親しいメンバーで固まっていた。

 奥のほうには、A級の強豪校がちらほら。

 私たちのテーブルには、1年生を中心に顔見知りが座っている。

 正面で私の愚痴を聞いていた火村ほむらさんが一言。

「この恨み、晴らさでおくべきか……裏見うらみの恨み……それってギャグ?」

 ちがーうッ! 私はジュースのグラスをドンとテーブルに打ちつけた。

「新たな決意表明に決まってるでしょ」

「どうどうどう……そんなに怒らなくてもいいじゃない」

 私は馬じゃないっちゅーねん。まったく。

 火村さん、自分が勝ったからって調子に乗りすぎでしょ。

「女子で2日目進出は、もこっち先輩以来ですね」

 となりで食事をしていた奥山おくやまくんが、そうつぶやいた。

 火村さんはいよいよ勢いづいて、

「アハハハ、ようやく私の時代が来そうねッ!」

 と高らかに笑った。

 なんかどこまでもツケあがりそうなので、無視しておく。

 というか、相手のばんくんがガラスケースに突っ込んだのが悪いのよ。あとから「事故がなければ万全の体調で〜」なんて言っても遅い。だれが賠償するのか知らないけど。

「新人戦も終わったし、これでしばらくは日曜日があるなぁ」

 松平は疲れ切ったようすで、レストランの椅子にもたれかかった。

 そうそう、そこも大事。日曜日がつぶれまくるのは、やっぱりキツかった。

「奥山は、どうやって勉強してるんだ?」

「俺は司法試験受験団体に入ってる。もこっち先輩と同じところ」

「研究室みたいなもんか?」

「いや、私的サークルだ。単位はつかない」

 松平と奥山くんは、これから期末試験に向けてどう勉強するか議論し始めた。

 火村さんはパスタをくるくるさせながら、ふたたび私に話しかけた。

香子きょうこはナニ学部だっけ?」

「経済」

「どんなこと勉強してるの?」

 需要供給曲線とかパレート最適とかインフレとか――あぁ、頭痛くなってきた。

「火村さんこそ、試験勉強は大丈夫? 日本語の筆記とか難しくない?」

「ほら、私って博士号を何個も持ってる天才だから」

 もぉ、まともに自己紹介してくださいな。

 じつは帰国子女でも留学生でもないんじゃないの。日本生まれの日本育ちな気がする。

「っていうか、香子はなんで経済学部にしたの?」

 ほほぉ、ヒトの進路選択に突っ込んできますか。

 こういうのを語るのは嫌いじゃないから、私は返答する。

「世の中の仕組みにちょっと興味があるのよね。で、数学がまあまあ得意だし、経営者を志望してるわけじゃないから、経済にしたの」

「ふぅん」

 反応が薄い。質問した側なんだから、もっと傾聴力を発揮してくださいな。

 私がストローに口をつけかけたところで、別方向から声をかけられた。

「あ、裏見さん、数学が得意なの?」

 げぇ、変なのに反応されてしまった。氷室ひむろくんだ。

「僕と一緒に双曲線関数をテイラー展開してみない? おもしろい式があるんだけど?」

「氷室、あんたそれ香子のこと誘ってるの?」

 火村さんのツッコミに、氷室くんは笑った。

「数学の世界はだれでもウェルカム、招待状もいらないんだ」

 な、なんなの、この会話。

 とはいえ、席が近いから無視するわけにもいかない。

 私はよく分からないまま答えた。

「ていらぁてんかい、ってなに?」

「ある関数上の点aについて、一階微分、二階微分、三階微分と、高階微分を繰り返した微分係数が分かっているとき、その点から離れた距離にある点xの値を突き止める級数を得る作業だよ。厳密な定義じゃないけど、これなら大丈夫だよね?」

 さっぱり分からん。いや、多少分かる用語はある。

 氷室くんはポケットからペンをとりだして、なにやらメモり始めた。

「例えば、こういう関数があるとするよね?」


挿絵(By みてみん)


 ん、これはさすがに分かる。

「ただの二次関数よね?」

「正解。じゃあ質問。このf(x)を一階微分すると?」

「f'(x)=2x」

「いいねぇ。二階微分すると?」

「f''(x)=2」

「x=1のときのそれぞれの関数の値は?」

「f(1)=1, f'(1)=2, f''(1)=2よ」

 氷室くんはペンをカチカチしながら、

「裏見さん、やるね」

 と笑った。氷室くん、いつもより楽しそう。

 とはいえ、ここまでは高校の範囲内で、しかも初歩だ。

「さっきの説明を繰り返すよ。『ある関数上の点aについて、一階微分、二階微分、三階微分と、高階微分を繰り返した微分係数が分かっているとき、その点から離れた距離にある点xの値を突き止める級数を得る作業』だよ。僕たちはf(x)=x^2の点x=1のときの値をすべて知ってるね?」

「そうね」

「じゃあ、x=2のときのf(x)の値は?」

「4」

 私は即答した。

「どうやって計算した?」

「x^2にx=2を入れたら4だからよ」

「正解。でも、それをせずに答えを導き出せるのがテイラー展開なんだ」

 氷室くんはササッと式を書いた。


挿絵(By みてみん)


 ……………………

 ……………………

 …………………

 ………………ん、ちょっと待って。これって見たことがある。

「大学受験の裏技で使えるテクニックじゃなかったかしら」

「あ、やっぱり知ってたね。現行のカリキュラムからは外されてるけど、教科書によってはちらっと触れられてるよ。これにさっきの微分係数とa=1、x=2を代入すると?」

 私は頭のなかでちゃちゃっと計算した。

 初見はややこしかったけど、数列としては

「……4になるわね」

「二次関数でやるとありがたみがないけど、三角関数なんかではとっても便利なんだ」

 氷室くんは、笑いながらジュースを飲んだ。

「ちなみに、0を中心とするときはマクローリン展開と言って……」

「おいおい、テイラー展開の初歩なんかで、うちの後輩をナンパしてんじゃねぇぞ」

 おおっと、この声は――風切かざぎり先輩。

 先輩は左手をあげて、ヨッと私たちにあいさつした。

 私はちょっと驚いたせいで、あいさつも返さずに、

「先輩、いらしてたんですか?」

 と尋ねてしまった。風切先輩はもうしわけなさそうに、

「昼間は悪かったな。病院でガーゼ交換してもらってた」

 と答えた。

 姿が見えないと思ったら、病院へ行ってたのね。

 新宿で殴られたあとに担ぎ込まれた病院かしら。あるいは、べつかもしれない。

 一方、氷室くんも先輩の登場に喜んで、むりやりスペースを作ろうとした。

「さささ、先輩、どうぞ」

「いや、さすがに狭すぎだろ……火村がソファーから落ちそうになってるぞ」

 同意。ただでさえ大人数で詰めてるのに、もうひとりはムリだ。

「それに、ほかのメンツと話したいことがある。三和みわっちはどこだ?」

 1年生はおたがいに顔を見合わせた。慶長けいちょうの子が、

「朝一の実習があるとかで、先に帰りました」

 と答えた。

「そっか……もこっちは?」

 これには奥山くんが、

「ノンアルコールなら帰るって言ってました」

 と答えた。風切先輩は、

「めちゃくちゃだな……」

 と呆れた。

「伝言なら、あした部室で会いますからOKですよ」

「いや、速水と直接話したい。気遣いサンキュ」

 風切先輩はそう言い残して、ほかのテーブルへ移動した。

 私たちはひそひそと言葉をかわす。

「速水先輩と直接話したいことって、なにかしら」

 私の問いかけに、ほかのメンバーは異なる反応を示した。

 松平は「うーん、なんだろな」と言って、首をひねった。

 火村さんは全然関心がなさそう。

 一方、奥村くんだけは意味深な表情をしていた。

 私は目ざとく気づいて、

「奥山くん、なにか知ってるの?」

 と尋ねた。

「んー、知ってるというか……まあ、あの件かな、っていうのはあるよ」

「あの件?」

 私はドキリとした――もしかして、風切先輩が殴られた件、外部に漏れてる?

 ところが、それは杞憂だった。

「たぶん、来年度の連合会長選挙だと思う」

「連合会長……? 速水先輩が候補ってこと?」

「うーん、どうだろ」

 奥山くんは煮え切らない調子で、先を続けた。

「ここだけの話、来年度の会長選びってむずかしいと思うんだよね。今年度は3年の入江いりえ会長が実力的に上位で、まとめ役にも向いてたから揉めなかったらしい。でも、今の2年生上位陣は、ちょっと個性が強いから、どうかな」

 奥山くんは表現を濁した。ようするに、組織のトップとしてどうか、ってことよね。

 私は上位の2年生をパッと思い出してみた。

 土御門つちみかど先輩は論外として――

「へっくし! ……うーむ、だれかわしの噂をしておるのぉ」

 八ツ橋やつはしのほうからくしゃみが聞こえたけど、放置で。

「……速水先輩と朽木くちき先輩なら、大丈夫なんじゃない?」

 私は候補をふたりにしぼって答えた。

「朽木先輩はバイトで忙しすぎて、ムリなんじゃないかな」

「速水先輩は?」

 奥山くんは一瞬口をつぐんだ。不適切な質問だったかしら。

 私はあわててこの質問を取り消そうとした。

「まあ、来年度のことだし……」

「もこっち先輩がいいと俺は思う。けど、先輩はやりたくないみたいなんだ」

 なるほど、そういうことか。

「ま、どうせ俺たちとは関係のないところで決まるんだし、朽木先輩の芽もなくは……」

「僕がどうかしたのか?」

 ぎくぅ! 私たちは一斉に硬直した。

「く、朽木先輩、こんばんは」

 奥山くんは、後頭部に手をあてて、気まずそうにあいさつした。

 朽木先輩はちょっと怪訝そうな顔をして、

「こんばんは……という状況なのか? 打ち上げ中だが?」

 と返してきた。正論。

「い、いえ、おつかれさまです」

「うむ、おつかれさまだ。奥山くんと裏見くんのベスト16は見事だったぞ」

 いえいえ、それほどでも――って、それどころじゃない。

 どう誤魔化そうかしら。私は頭をフル回転させる。

「……晩稲田おくてだのほうは、いかがでしたか? もうひとりいましたよね?」

「ああ、又吉またよしくんか。又吉くんは氷室くんに負けてしまった」

 氷室くんはいかにも作ったような顔で、

「アハハ、負かしちゃってすみません」

 と謝った。

「どのみち君が優勝候補だ。仕方がない……で、僕の名前が聞こえたようだが?」

 だーッ、話題を逸らしてくれないのか。困った。

 ふたたび頭をフル回転させる。ところが、先に朽木先輩のほうから、

「もしや、日曜日の件か?」

 と、的外れなことを言い始めた。さらに、深刻そうな顔までして、

「あれはたいへん失礼した。まさか帰り道に風切くんがケガをしてしまうとは」

 と嘆息した。

「え、いえ、その……まあ……朽木先輩のせいではないかな、と」

 私はどぎまぎしながら答えた。

「そう言ってもらえると助かる……それにしても、なぜケガをしたのだ?」

 ん? 理由を知らないの? ……って、あたりまえか。朽木先輩は先に帰ったもの。

 ということは、速水先輩、あの事件を全然口外してないのね。知ってるのは、私、速水先輩、氷室くん、火村さん、三和さん、それと筒井つついさんの6人だけってことになる。この6人は殴られるところを目撃した。

「えーと、私もよく知りません」

 とりま、とぼけておく。

「そうか……詮索するのも失礼だな。では、また来週」

 朽木先輩はそう言って、晩稲田の席へもどって行った。

 私はホッとひと息、ジュースを飲む。

 ひとの口って、もっとこう軽いかと思ったけど、意外とみんな――ん?

 ……………………

 ……………………

 …………………

 ………………

 なんでケガだって知ってるの?

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