124手目 切り裂きジャック
「いたたた……」
私たちは廊下に尻もちをついてしまった。
なにかにぶつかった気がする。というか、普通に衝撃があった。
「いてて……ごめん、コントロールが利かなくて……」
見ると、グレーのハンチング帽をかぶった少年が、廊下に転倒していた。
耳にはイヤホンをはめて、足にはローラーブレードを履いている。
私は、なにが起こったのかを察した。
廊下を疾走していて、通行人の私たちにぶつかったのだ。
「裏見、大丈夫か?」
「な、なんとか」
私は松平の手を借りて起き上がる。スカートのほこりを払っていると、奥山くんが、
「磐、廊下で走るなって言われただろ」
と強めに注意した。
「へへへ、ごめんごめん、ちゃんと改良したつもりだったんだけどね」
バンと呼ばれた少年は、ローラーブレードで器用に立ち上がった。
その場でクルリと一回転する。
「すごいだろ。電動式の自作だぞ。バッテリーが3時間もつ」
奥山くんはあきれかえって、顔をしかめた。
「そういう意味じゃなくてな……おい、松平もなんか言え」
「裏見にぶつかるなんて、死刑に値するぞ」
いや、そういう意味でもないと思うんだけど。
そもそも小学校で廊下を走るなって習うでしょ。
磐くんは片足立ちをして、バランスを取った。見ているこちらがヒヤヒヤする。
「まあまあ、固いこと言わずにさ。俺のベスト8を祝ってくれよ」
ベスト8……バン……あ、もしかして、トーナメント表の磐くんかしら。
私は恐る恐る尋ねた。
「ご明察。俺が首都工業大学、期待の1年生、磐一眞だ。よろしくぅ」
磐くんはローラーブレードでピョンピョン跳ねた。
こっちが心配になるってば。やめて欲しい。
一方、奥山くんは磐くんと比較的面識があるらしく、
「ベスト8ってことは、山名に勝ったのか?」
と尋ねた。磐くんは「へへへ」と笑いながら、
「イチコロだったぜ」
と答えた。
「ほんとかぁ? あとで速水先輩に確認するからな」
「というわけで、奥山、松平、友だちのよしみで情報をくれ」
「情報?」
「聖ソフィアの火村ってのは強いのか?」
奥山くんと松平は顔を見合わせた。そして、奥山くんのほうが、
「おまえに教える義理はないなぁ」
と答えた。
「チェッ……まあ、ベスト8に残ってるんなら強いだろうな」
磐くん、当たり前の推論。
「そっちの……裏見さんだっけ? 裏見さんはどうだった?」
「私もベスト8よ」
磐くんは口笛を吹いた。
「へぇ、日高を負かしたんだ。なかなかやるね」
そうでもありましてよ。
「それじゃ、俺は飲み物買ってくるから、またあとでな」
磐くんはローラーブレードのかかとをこつりとやった。
ギューンとエンジンがかかる。ほんとに電動式なんだ。すごい。
「バイバーイ」
磐くんはエレベーターのほうへ向かった。
私たちは控え室へ――
ガッシャーン
○
。
.
「えー、ここは関東将棋幼稚園ではありませんので、備品を壊さないでください」
連合の入江会長は、半ばあきれ気味に注意をうながした。
選手は全員座って、初日最後の対局を待つ。
私のまえに座っているのは、細身の少年。服装がちょっと変わっていて、白いシャツに真っ赤なネクタイをしていた。サスペンダー付きのズボンを履いて、口の端に笑みを浮かべている。全体の印象として……なんか腹にイチモツありそう。
「今日は都ノの裏見さんと指せるなんて、光栄です」
というのが、彼の第一声だった。
うーん……なんかなぁ……絶対思ってないでしょ。
いかにもカモが来たって感じのオーラを出している。
「どうかしましたか?」
「な、なんでもないわ」
「太宰くん」
おっと、この声は――顔を上げると、朽木先輩が立っていた。橘さんもいる。
太宰くんは笑って挨拶を返した。
「朽木先輩、おそようございます。昨晩はお楽しみでしたか?」
「すまん、午前中はバイトが入っていてな」
「アハハ、冗談ですよ、冗談」
んー、この太宰って子、心臓に毛が生えてそう。ますます警戒。
「晩稲田は2名残っているようだな」
「はい、僕と又吉ですね」
「又吉くんの相手は氷室くんか……吉報を待っている」
「善処します」
朽木先輩は、もうひとつのテーブルへ移動した。
沈黙が流れる。
「それでは、振り駒をしてください」
私と太宰くんはゆずりあって、私が振ることになった。
カシャカシャ パラッ
「歩が5枚で私の先手ね」
「おっと、フルコンプですか」
ただの確率でしょ。私は駒をもとの位置にもどした。
「えー、これが本日最後の対局になります。連戦でお疲れかと思いますが、悔いのないように指してください……では、始め」
「よろしくお願いします」
私たちは一礼して対局が始まった。
あちこちでチェスクロを押す音が聞こえる。
「それではよろしくお願いします、と」
太宰くんもようやくチェスクロを押した。
先手の私はひと呼吸置いて、7六歩と指す。
3四歩、2六歩、8四歩――横歩は避けましょう。
「6六歩」
この手を見て太宰くんは、
「横歩はお嫌いですか?」
と尋ねた。私はなんと答えたものか迷って、
「ノーコメントで」
と告げた。太宰くんはクスリとした。
「失礼しました。8五歩です」
7七角、6二銀、2五歩、3三角、6八銀、6四歩。
うーん、速攻くさいわね。用心。
私は7八金で囲いを急ぐ。
太宰くんはふたたび口をひらいて、
「そういえば、風切先輩は応援にいらしてないんですか?」
と質問した。これも回答に窮する。
「さあ、忙しいんじゃないかしら」
太宰くんはあやしげな笑みを崩さずに、6三銀と進出した。
「午前中にちらりとお見かけした気がするんですよね」
くわぁ、知ってて言ってるのか。
ほんとに警戒したくなる。私は4八銀と指しながら、
「なんで風切先輩のことが気になるの?」
と質問し返してみた。
「いえ、顔にガーゼをつけてらっしゃったので、すこし心配したまでです」
3二銀。
「そういうのは本人のプライバシーじゃない?」
4六歩。
「他人のケガを心配するのは自然なことだと思いますが」
4二玉。
私は4七銀と指しかけて、ふと手を止めた。
……………………
……………………
…………………
………………ん? ケガ?
なんでケガだって知ってるの? おできの可能性もあるのに?
「どうしました? 僕の顔になにかついてます?」
「な、なんでもない」
私は慌てて視線をそらした。4七銀と指す。
太宰くんはあごに指を添え、ぶつぶつとつぶやく。
「腰掛け銀模様か……受けて立ちます。5四銀」
5六銀、3一玉、5八金、5二金右、6九玉、7四歩、7九玉、7三桂。
後手は美濃なのね。なにかやってきそうな感じではある。
「6七金右」
とりま上部を厚く。
「4四歩」
太宰くんは角筋を止めた。
私は3六歩と突いて角頭に狙いをつける。
「4三銀左」
むッ、これは……雁木?
これから数年で流行りそうな囲い、と氷室くんは言っていた。
私はすこし警戒した。学生棋界のトップ層は、けっこう繋がっている。高校生のときにそれは実感した。強豪は強豪と顔をあわせる機会が多いからだ。
「……1六歩」
「そんなに警戒しなくても、いいですよ。1四歩」
「9六歩」
「そっちも受けますね。9四歩」
端は両方受けられてしまった。まあ、当たり前といえば当たり前だ。
私はお茶を飲んで小考する。
「……3七桂」
攻勢に出ましょう。後手から攻めるのはむずかしいはず。
3二金、2九飛、8一飛。
ん、飛車を下がるのか――チャンス。
「4五歩」
私は30秒の考慮で開戦した。
狙いが定めやすかったからだ。同歩、同桂、4四角と上がらせて、7五歩。これを同歩は7四歩で桂馬を殺せる。
「なるほど……分かりやすい攻めですね」
いちいちコメントしなくてよろしい。バレバレなのは百も承知だ。
分かりやすいことと回避できることとは全然ちがう。それが将棋。
太宰くんも、軽口のわりには長考している。
「……このラインを活かせばいいわけですか。同歩」
ライン? ……なんのライン?
駒の利きが繋がっているところは見えない。
はったりという可能性も……いや、あんまり深読みしないほうがいいわね。
口三味線タイプなのかもしれない。
「同桂」
ストレートに攻める。
同銀、同銀、4四歩なら先手の得になる。
「4四角」
太宰くんは読みどおり角を逃げた。
私は1五歩、同歩と味付けしてから、7五歩を入れた。
これが普通に厳しいでしょ。
8四飛と浮いたら、2四歩、同歩、1四歩と垂らす手が効いてくる。同香は2四飛と走るのが香取りだし、2三金と取りに行く手はちょっと考えられない。1五香、1四香、同香、同金のかたちはめちゃくちゃだ。後手が悪い。
「ま、普通に考えてこうですよね。6五歩」
パシリ
攻め合い。当然といえば当然。
「7四歩」
太宰くんは黙って8六歩と突いた。
これは……手抜けないわね。
「同歩」
「今、『これは手抜けない』と思いましたね?」
まるで心を読んだかのようなセリフ。
でも、将棋指しならこれはだいたい予想がつく考えだ。
驚くことはない。
「飛車先だから、さすがに」
「じゃあ、これはどうでしょうか?」
太宰くんは6六歩と取り込んだ。
これも……取るしかないか。同金は6五歩でめんどくさくなるから――
「同角」
こっち。私が指した途端、間髪おかずに角交換をしてきた。
6六同角、同金、8八歩、同金、8七歩。
うッ……全然手抜くヒマがない。
「ど、同金」
陣形がバラバラだ。若干不安になる。
反撃の糸口を模索していると、太宰くんはふたたび話しかけてきた。
「切り裂きジャックって、ご存知ですか?」
なに? ……雑談?
「外国の連続殺人犯……よね?」
「はい、1888年にイギリスで起きた連続殺人事件の通称です」
「それが、どうかしたの?」
「僕、実在の未解決事件が大好きなんですよ」
はぁ……なんというか……えーと……どういう文脈?
私はそこまで考えて、ふと背筋に悪寒が走った。
都ノ将棋部における目下の未解決事件――聖生のことを思い出したからだ。
「どうしました? 殺人事件とか、お嫌いですか?」
「……なんでその話をしようと思ったの?」
私の質問に、太宰くんは意味深な笑みを浮かべた。
「あ、すみません、対局中に自分の趣味を語るのは変でしたね。ただ……」
「ただ?」
「未解決事件の醍醐味って、見えなかったラインが見えてくることだと思うんですよ」
太宰くんは盤面に手を伸ばす。
「こんなふうに。8五歩」




