118手目 忘れていたイベント
「風切先輩の元カノ?」
「シーッ」
私はくちびるに指をそえた。
松平は周囲を確認する。
昼下がりの学生用のラウンジには、ちらほらと学生の姿があった。
「すまん、ちょっとおどろいた……ってわけでもないな」
「なんで? びっくりニュースでしょ?」
「あんだけイケメンなのに彼女いないのは変だと思ってた」
……………………
……………………
…………………
………………それもそうか。
「って、ポイントはそこじゃないのよ。お相手が宗像さんだってこと」
「むなかた? ……あの将棋道場の席主か?」
「そうよ」
「将棋界は広いようで狭いし、カップルができてもおかしくないだろ」
だーッ! 私の衝撃がまったく伝わってない。
とはいえ、風切先輩に元カノがいたというだけじゃ、ただのゴシップだ。
松平が聞き流すのも分かる。
「いい、これから言うことは絶対ナイショにしてちょうだい」
私が前置きすると、松平はやけに決めたポーズで、
「裏見も俺に秘密の相談をするようになったんだな。うれしいぞ」
と言った。
「やっぱり大谷さんに相談するわ」
「待ってッ! 話してくださいッ!」
私は公園の事件をつぶさに説明した。
「先輩が殴られた?」
だから声が大きいというに。私は松平を注意する。
「す、すまん……で、どうなった? ケガはなかったのか?」
「大アリよ。顔から血を流して病院に運ばれたわ」
「マジか……」
松平は椅子にのけぞった。
「で、殴ったキョウジが宗像さんの弟?」
「しかも殴った理由が、風切先輩と宗像さんの仲にあるみたいなの」
「というと?」
私は声を落とした。
「お姉さんが寄りをもどしたがってるんだけど、恭二くんはそれが不満なんだわ」
……ん、ちょっと待ってよ。私は自分の発言を精査した。
あのときのやりとりに、そこまで読み取れる情報量があったかしら。
「ごめん、今のは忘れて。私の深読みかも」
「いや、そういう勘は重要だ。俺は男だから、女の発想は全然分からん」
「そういう問題?」
「プラス、その場にいた裏見がそう感じたなら、重要な情報だと思う」
ふむ……あんまり自信ないのよね。
松平は売店で買ったコーヒーを飲みながら、
「いずれにせよ、男女のいざこざに首は突っ込めないな」
と慎重な態度を取った。いよいよ肝心要の話題に到達する。
「単なる男女のいざこざ……ならいいんだけど……ねぇ、なにか変だと思わない?」
「変? ……風切先輩が年上好きだったことか? 意外と甘えん坊タイプかもな」
私は松平の肩を軽くはたいた。
「ちがうわよ……例の暗号マニア」
松平は眉間にしわを寄せて、それからハッとなった。
「宗像さんが聖生……ってことか?」
「そこまでは言わないけど、今回もなにか噛んでるんじゃない?」
そう考えた理由は2つある。
ひとつは、私たちが新宿将棋大会に参加したのを、恭二くんが知っていたことだ。聖生に情報をリークされた、という可能性もありえなくはない。
もうひとつ、ふぶきさんには失礼だけど……ストーカーの線。風切先輩に対してストーキングをする動機があるのは、これまで氷室くんしかいなかった。でも、氷室くんは風切先輩を数学仲間(?)として慕ってるだけで、それ以上のものではなさそうだ。一方、ふぶきさんは違う。明確に恋愛関係。
「しかし、あのひとがストーカーには見えなかったけどなぁ」
「あくまでも可能性よ」
「ストーカーがどうかしたの?」
おっとっと、穂積さんが登場。
穂積さんは両手でお盆を持って、そのうえにハンバーガーとジュースを乗せていた。
「香子、まさかストーカーされてるの?」
「ちがうわよ。聖生の話」
「ふぅん……ちょっとここいい?」
穂積さんは、3つある椅子のひとつを引いて腰をおろした。
ジュースをひと口飲む。
「お兄ちゃんの話だと、聖生の住所を突き止めるのはムリっぽいって」
「警察が相手にしてくれないの?」
穂積さんは、警察にはまだ相談していないと答えた。
「とりあえずMINE社に連絡したんだけど、定型文で拒否されちゃった。大学の法律相談センターに行っても、たぶんムリだろうって……あ、詳細は話してないけどね」
私と松平は嘆息した。穂積さんはハンバーガーの包みを開けながら、
「でもさぁ、帝大の変態で確定だと思うのよね」
とつぶやいた。
うーん、穂積さんは氷室くんを完全にロックしているらしい。
「氷室くんは、こそこそしないでもっと単刀直入に迫るんじゃない?」
私のコメントに、穂積さんは首をかしげた。
「思考がぶっとんでるやつは、なにするか分かんないわよ……あ、そうそう」
穂積さんはハンバーガーをぱくりとやって、いったん飲み込んだ。
「今度の日曜の昼食、部費で出すから領収書忘れないように、だって」
「今度の日曜? なにかあるの?」
私が質問すると、松平は怪訝そうな顔をした。
「まさか忘れてないよな?」
「え?」
「新人戦だぞ」
……………………
……………………
…………………
………………あッ
○
。
.
えーッ、というわけで完全に失念してました。新人戦です。
まいった。なにも準備してない。
会場には各大学の1年生と、応援の上級生が集まっていた。
場所は電電理科大学。やたら使うわね、この校舎。
「抽選をおこないますので、1年生のかたは前に集合してください」
私たちは順繰りにクジを引いた。私は26番。けっこういるわね。
「それでは、人数も多いのでさっそく着席をお願いします」
私は対局席に移動した――げッ!
「あ、裏見ちゃ〜ん」
聖ソフィアのナンパ野郎だ。日焼けしてる金髪のほう。たしか……大友くん?
私はしぶしぶ椅子を引いて着席した。
「いやぁ、1回戦から裏見ちゃんと当たれるとかうれしいなぁ」
裏見ちゃん? ……なれなれしすぎる。
私は無視して駒をならべた。チェスクロをセットする。
「裏見ちゃん、調子どう?」
「まあまあかな」
「俺、団体戦からあんま良くないんだよねぇ。今度ふたりで研究会とかしない?」
はい、無視無視。振り駒。
「歩が1枚。私の後手ね」
「つれないなぁ。もうちょっとコミュ力磨いて……」
「対局準備は整っていますか?」
幹事の呼びかけで、大友くんもさすがに黙った。
「大丈夫ですね……では、対局を始めてください」
「よろしくお願いします」
私たちは一礼して、チェスクロを押した。
大友くんの棋風は把握している。団体戦のときは相居飛車だった。
「7六歩、と」
3四歩、7五歩……7五歩?
「ずいぶん驚いてるね。びっくりした?」
ぐぬぬ、団体戦で圧勝したからって舐めてるわね。三間飛車でしょ、これ。
潰す。
「1四歩」
「ん? 丸山ワクチンの亜種?」
風切先輩が振り飛車オールラウンダーだから、ひそかに対策を練ってたのよ。
ここで使うことになるとは思わなかった。
「7八飛」
私は8八角成とした。
同銀、3二銀、5八金左、1五歩。
棺桶に限定する。穴熊にしてくる可能性はあるけど、それは問題ない。
大友くんも、こちらの研究手順だと気付いたらしい。
あごに手をあてて、見下ろすように盤をにらんだ。
「……そっか、都ノには元奨の振り飛車党がいるんだったか」
事前の打ち合わせとか、しなかったのかしら。明石くんならしてそうだけど。
どうも聖ソフィアはマイペースな部員が多いようだ。
「ま、どのみち指すのは裏見ちゃんとだしね。4八玉」
4二玉、5五角、3三角、4六角。
いきなり難しくなった。このままだと7四歩で不利になる。
「6二飛」
飛車を寄る。大友くんは「ふふーん♪」と妙な声をあげた。
右ひじをテーブルに乗せて、そのうえにあごをおいた。
「ここで7四歩は同歩としてくれなさそうだしなぁ」
あたりまえでしょ。もちろん8二銀だ。
以下、7三歩成、同銀、7四歩、6四銀、同角、同歩、7三銀、6三飛で止まる。
「7七銀」
出て来ましたか。私は予定通り6四歩と伸ばした。
8六歩、7二銀、8五歩、6三銀。
「それは焦点がぼやけてる。8八飛」
うッ……たしかにバランスが悪いかも。
私は30秒ほど考えて8二飛と戻った。
「じゃ、囲い合いね。3六歩」
5二金右、3八銀、3一玉、6六銀。
「歩越し銀には歩で対抗よッ! 6五歩ッ!」
大友くんは7七銀と撤退した。私は5四銀と出る。
「ん、だったら俺も歩で対抗しちゃうよ。5六歩」
いやいや、対抗できないでしょ。
手なりで7四歩としてこないあたりは評価できるけど。
7四歩は5五銀で角を止められるから、なんともない。
私はそのまま4五銀と進出する。
「裏見ちゃん、過激だね。2八角」
大友くんは角を撤退した。
今度は5五銀が効かないから、6三金と出て7筋を守る。
「金銀バラバラ」
「いちいち突っ込まなくていいわよ」
大友くんは笑って8六飛と浮いた。
さて……さっきから盤外戦が激しいけど、指し手は着実なのよね。
聖ソフィアの校舎で一緒にいた有馬くんと互角かそれ以上のはずだし、要注意。
「3六銀」
とりあえず拾えるものは拾っておく。
ここで大友くんは長考に入った。攻めてくる可能性が高い。
7筋は無理だから、6六歩が本命ね。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これはけっこう厄介だ。
6六同歩、同銀、6五歩と反撃するのは、5五銀と出られてしまう。
以下、5四歩の調子が良さそうだけど、6四銀で困る。同金、同角のときに王手だ。9九角成とする暇がまったくない。これを封じようとして6六歩同、同銀、5四歩は、5五歩とそのまま突かれて同歩、同銀がさっきと同じ状態。
ふむむ、どうやら3一の王様の位置が悪いわね。流れ弾に当たりやすい。
となると、本格的に6筋を守る必要がある……6六同歩、同銀、6二飛とか?
でも、それはいきなり8四歩と突かれる可能性が――
「通りそうかな。6六歩」
大友くんは攻めを選択した。チェスクロを押す。
うーん……裏見香子、はやくも序盤でピンチ?




