110手目 くわえタバコ
「橘先輩、飲み物買って来ましたよ」
冷たいペットボトルで、私は橘さんのほっぺたを小突く。
「……」
「先輩? 熱中症じゃないですよね? 大丈夫ですか?」
「……」
魂が抜けている。これには火村さんもあきれて、
「一敗くらいで、なにヘコんでるのよ。メンタル弱すぎでしょ」
と小言を言った。それはそれで追い打ちをかけているような。
私はもうちょっとべつな言い方をすることにした。
「先輩、次の対局までに気合いを入れてください。せんぱ……」
「可憐、そちらはどうだ?」
朽木先輩が登場した。その途端、橘さんはシャキンと立ち上がった。
「はい、ぼっちゃま、こちらは2勝1敗でチーム勝ちを収めました」
「そうか。男子もチーム2連勝だ。おたがいにがんばろう」
「はい、ご健闘をお祈りいたします」
橘さんは深々と一礼した。朽木先輩はその場を去る。
……………………
……………………
…………………
………………あのさぁ。火村さんも再びあきれかえる。
「男のまえで、そういうあからさまなキャラチェンジする?」
「男のまえ? ……主人のまえで態度をあらためるのは、当然だと思いますが?」
「なぁにが主人よ。あんた、あいつの奴隷やってるわけじゃないんでしょ」
橘さんは聞き捨てならないと思ったらしく、険しい表情になった。
「わたくしは5歳のときから、朽木爽太さま専属のメイドとしてお仕えもうしあげているのです。これは朽木グループが破綻してからも変わらない契約です」
「5歳ぃ? 日本じゃ児童労働が認められてるっての?」
「……」
あッ、これ訊いちゃダメなやつだ。
私は火村さんを抱きかかえて、口もとをおさえた。
「橘先輩、飲み物を買って来ましたよ。お茶で良かったですか?」
「……ありがとうございます」
ふぅ――私が胸をなでおろすと、アナウンスが入った。
《あ〜、マイクテスト……レディースの部のみなさーん、会場へお戻りくださーい》
「よしッ! 吸血姫シスターズ、出動ッ!」
火村さんは私の腕をふりはらって飛び出した。
待ってぇ〜。
○
。
.
「あら、ずいぶんと若い子ね」
うわぁ……けっこう年上。アラフォー……いや、30代半ばくらいかしら。
細目で、あまりお化粧をしていない感じの女性だった。髪も無造作お団子ヘア(中華娘みたいなやつじゃなくて、ポンパドールの前髪と組み合わせてあった)。服装は全体的にすっきりしていて、上はベージュの女性用スーツだ。キャリアウーマンっぽい。
《振り駒は終わってますか〜? じゃんけんでもいいですよ〜?》
おっと、まだしてなかった。私は相手の女性に、先後の決め方を確認した。
「じゃんけん」
女性はサッと右手を出した。じゃんけんぽん。私の勝ち。
「勝ったので、先手でいいですか?」
「ご自由に」
他の席も駒並べと振り駒が終わった。急に静かになる。
《対局準備のできていないところはありますか〜? ……では、始めてくださーい》
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
女性は頭をさげて、ポンとチェスクロを押した。
そこそこの手つきだけど、ちょっと荒っぽいところがあるわね。なんかこう……っと、こんなこと考えてる場合じゃなかった。切れ負けの序盤はサクサク。7六歩。
「8四歩」
ん、居飛車党? ……用心かも。
6八銀、3四歩、6六歩、6二銀、5六歩、6四歩、7八金。
「6三銀」
右四間か――切れ負けだからアリかも。
とりあえず4八銀と進める。
5四銀、5七銀右、6二飛、5八金、4二玉、6七金右。
相手の女性は、ここで手をとめた。胸ポケットに刺さっていたペンをとりだす。
まさか自分で棋譜をつける気? ……と思いきや、いきなり口にくわえた。
「3二銀」
「どうしたの? 指さないの?」
女性の質問で、私は我に返った――口にペンをくわえる癖のひと、初めて見たかも。
とはいえ、他人の奇癖を観察してもしょうがない。私は6九玉と寄った。
3一玉、7九玉、5二金右、2六歩、7四歩、2五歩、1四歩。
めちゃくちゃ急いで攻めて来る気配はないわね。
「2四歩」
こちらから攻める。
同歩、同飛、2三歩、2八飛、7三桂。
さて、ここからが問題だけど……ん? なんか匂うわね。
かすかな化学薬品っぽい香りだ。私は、それが前方から漂っていることに気づいた。
「……あの、すみません」
「なに? トイレ?」
「インク漏れしてませんか?」
噛んで壊れたのでは。そう予想したけど、答えは斜めうえを行っていた。
「これ電子タバコよ」
……………………
……………………
…………………
………………は?
「タバコ?」
「輸入品なの。万年筆にみえるから便利でしょ」
このおばさん対局マナー悪すぎィ!
「切れ負けだから、早く指したほうがいいわよ」
ぐぅ、言われなくても指します。9六歩。
「1五歩と伸ばしてもいいけど……9四歩」
私はバランスを取るために1六歩と突いた。
8五歩、3六歩。
「6五歩。開戦」
これはさすがに攻め切れないでしょ。私は自信を持って同歩とした。
8八角成、同玉、8六歩、同歩。
相手は3三角と打ち直した。王様が角筋に入ったけど、これは恐れなくていい。
「6六角」
合わせて消す。
7五歩、同歩、6六角、同銀、6五銀。
同銀、同桂は6六歩で切れるから、同飛としてきそう。
このおばさん、手つきはちょっと慣れていないところがある。でも、私たちと同じように1勝してるチームだから、侮るとマズい気がした。将棋指しの勘。
「同銀」
「同飛」
飛車で取ってきた。私は6六歩と蓋をする。
「4五飛」
急所のスライド――やっぱり初心者じゃないわね。
私は4六銀とがっちり受けた。
7五飛、7七銀、8五歩。
ん? この歩は?
不気味な手だ。私は1分ほど考えた。
……同歩に9五歩の端攻め? この線が一番高い。
「7六歩」
しっかり止めておく。
「んー、あなた、なかなかやるわね」
おばさんは電子タバコをくわえたまま、そうつぶやいた。
「大学生? 高校生?」
「……大学生です」
「どこの大学?」
あぁ、めんどくさい。根掘り葉掘り訊かないで欲しい。
個人情報は教えたくないから、ごまかしときましょ。人数の多い大学がいい。
「晩稲田です」
「あら、私も晩稲田よ」
ぐぉおおおお……墓穴を掘った。
「どこの学部?」
「あ、あとで話しませんか? 時間がなくなりますよ?」
「それもそうね」
セーフ。おばさんは7四飛と引いた。
「8五歩」
「9五歩」
ほんとに端攻めなのか。でも、これは足りないでしょ。同歩。
おばさんは駒音叩く6九角と打ち込んだ。
……ん? いい手な気がする。
相手は銀を持っている。5八角じゃ4七角成は防げない。同角成、同飛、6九角、4八飛に5九銀があるからだ。かと言って、5七金は守りが薄くなってしまう。
「……」
裏見香子、考え中。おばさんは電子タバコの中身を入れ替え始めた。
綿のようなものに液体をかけている――っと、こんなの観察してる場合じゃない。
「8六銀」
8五桂を阻止する。4七角成は許容。
おばさんはキャップを閉めて、口にくわえなおした。
「んー、そうきましたか。4七角成」
5五銀、3九銀、2六飛、4八馬、2七飛、3八馬、1七飛。
さあさあ、捕まらないわよ。後手の銀打ちがぼやけてきた。
ここから2八銀不成でも4八銀不成でも、働きはよくない。
私は残り時間を確認した。私が12分、おばさんが14分。
おばさんはここで1分使って、2八銀不成を選択した。
「5七飛です」
2九銀成、8三角(反撃!)、6五桂、5九飛、7一飛、6五角成。
桂馬を回収できた。後手は2九成銀の処置がむずかしいはず。
「2八馬」
これは……1九成銀の狙い? それならこっちもゆっくりできる。
私は9筋の端歩を伸ばした。
端を逆襲する。
これを見たおばさんは、
「ちょっと攻め過ぎたか……」
と反省して、1九成銀とした。スーッと息を吐く。
煙が見えないタイプらしく、かすかに匂いだけがした。受動喫煙。
ちゃっちゃと終わらせましょう。9三歩成。
「逃げるならここかしら。6一飛」
なるほど、最悪6五飛と切るわけか。
だったら徹底的に封鎖する。
「6四桂」
「ずいぶん絞るわね」
しぼる? ……なにを?
「4二金寄」
よくわかんないけど、6四桂を厳しいと見たのは確かなようだ。
私は9二歩と打って、じわじわ攻めていく。
おばさんは、また30秒ほど考え込んだ。
「……5四歩」
ほぉ、これは手筋だ。同銀なら6四馬、同馬、同飛でたいへんなことになる。
「同馬」
こっちで取って安心。
私がチェスクロを押すのと同時に、おばさんは5一飛と寄った。
……むッ、しまった。これもいい手だ。
放置は5四飛、同銀、6四馬で困る。
「6五馬」
私は馬をいったん戻った。
「5四歩」
「同銀」
「その馬には消えてもらうわ。7三桂」
あッ……馬交換になっちゃった。5五馬、同馬、同歩以外に選択肢がない。
私は泣く泣く交換に応じた。
5五馬、同馬、同歩、3七角、5六飛。
おばさんは電子タバコを揺らしながら、目つきを鋭くした。
「切りますか。5四飛」




