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凛として駒娘──裏見香子の大学将棋物語  作者: 稲葉孝太郎
第20章 新宿将棋大会(2016年6月5日日曜)
111/496

110手目 くわえタバコ

たちばな先輩、飲み物買って来ましたよ」

 冷たいペットボトルで、私は橘さんのほっぺたを小突く。

「……」

「先輩? 熱中症じゃないですよね? 大丈夫ですか?」

「……」

 魂が抜けている。これには火村ほむらさんもあきれて、

「一敗くらいで、なにヘコんでるのよ。メンタル弱すぎでしょ」

 と小言を言った。それはそれで追い打ちをかけているような。

 私はもうちょっとべつな言い方をすることにした。

「先輩、次の対局までに気合いを入れてください。せんぱ……」

可憐かれん、そちらはどうだ?」

 朽木くちき先輩が登場した。その途端、橘さんはシャキンと立ち上がった。

「はい、ぼっちゃま、こちらは2勝1敗でチーム勝ちを収めました」

「そうか。男子もチーム2連勝だ。おたがいにがんばろう」

「はい、ご健闘をお祈りいたします」

 橘さんは深々と一礼した。朽木先輩はその場を去る。

 ……………………

 ……………………

 …………………

 ………………あのさぁ。火村さんも再びあきれかえる。

「男のまえで、そういうあからさまなキャラチェンジする?」

「男のまえ? ……主人のまえで態度をあらためるのは、当然だと思いますが?」

「なぁにが主人よ。あんた、あいつの奴隷やってるわけじゃないんでしょ」

 橘さんは聞き捨てならないと思ったらしく、険しい表情になった。

「わたくしは5歳のときから、朽木くちき爽太そうださま専属のメイドとしてお仕えもうしあげているのです。これは朽木グループが破綻してからも変わらない契約です」

「5歳ぃ? 日本じゃ児童労働が認められてるっての?」

「……」

 あッ、これ訊いちゃダメなやつだ。

 私は火村さんを抱きかかえて、口もとをおさえた。

「橘先輩、飲み物を買って来ましたよ。お茶で良かったですか?」

「……ありがとうございます」

 ふぅ――私が胸をなでおろすと、アナウンスが入った。

《あ〜、マイクテスト……レディースの部のみなさーん、会場へお戻りくださーい》

「よしッ! 吸血姫きゅうけつきシスターズ、出動ッ!」

 火村さんは私の腕をふりはらって飛び出した。

 待ってぇ〜。

  

  ○

   。

    .


「あら、ずいぶんと若い子ね」

 うわぁ……けっこう年上。アラフォー……いや、30代半ばくらいかしら。

 細目で、あまりお化粧をしていない感じの女性だった。髪も無造作お団子ヘア(中華娘みたいなやつじゃなくて、ポンパドールの前髪と組み合わせてあった)。服装は全体的にすっきりしていて、上はベージュの女性用スーツだ。キャリアウーマンっぽい。

《振り駒は終わってますか〜? じゃんけんでもいいですよ〜?》

 おっと、まだしてなかった。私は相手の女性に、先後の決め方を確認した。

「じゃんけん」

 女性はサッと右手を出した。じゃんけんぽん。私の勝ち。

「勝ったので、先手でいいですか?」

「ご自由に」

 他の席も駒並べと振り駒が終わった。急に静かになる。

《対局準備のできていないところはありますか〜? ……では、始めてくださーい》

「よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

 女性は頭をさげて、ポンとチェスクロを押した。

 そこそこの手つきだけど、ちょっと荒っぽいところがあるわね。なんかこう……っと、こんなこと考えてる場合じゃなかった。切れ負けの序盤はサクサク。7六歩。

「8四歩」

 ん、居飛車党? ……用心かも。

 6八銀、3四歩、6六歩、6二銀、5六歩、6四歩、7八金。

「6三銀」


挿絵(By みてみん)


 右四間か――切れ負けだからアリかも。

 とりあえず4八銀と進める。

 5四銀、5七銀右、6二飛、5八金、4二玉、6七金右。

 相手の女性は、ここで手をとめた。胸ポケットに刺さっていたペンをとりだす。

 まさか自分で棋譜をつける気? ……と思いきや、いきなり口にくわえた。

「3二銀」


挿絵(By みてみん)


「どうしたの? 指さないの?」

 女性の質問で、私は我に返った――口にペンをくわえる癖のひと、初めて見たかも。

 とはいえ、他人の奇癖きへきを観察してもしょうがない。私は6九玉と寄った。

 3一玉、7九玉、5二金右、2六歩、7四歩、2五歩、1四歩。

 めちゃくちゃ急いで攻めて来る気配はないわね。

「2四歩」

 こちらから攻める。

 同歩、同飛、2三歩、2八飛、7三桂。


挿絵(By みてみん)


 さて、ここからが問題だけど……ん? なんか匂うわね。

 かすかな化学薬品っぽい香りだ。私は、それが前方から漂っていることに気づいた。

「……あの、すみません」

「なに? トイレ?」

「インク漏れしてませんか?」

 噛んで壊れたのでは。そう予想したけど、答えは斜めうえを行っていた。

「これ電子タバコよ」

 ……………………

 ……………………

 …………………

 ………………は?

「タバコ?」

「輸入品なの。万年筆にみえるから便利でしょ」

 このおばさん対局マナー悪すぎィ!

「切れ負けだから、早く指したほうがいいわよ」

 ぐぅ、言われなくても指します。9六歩。

「1五歩と伸ばしてもいいけど……9四歩」

 私はバランスを取るために1六歩と突いた。

 8五歩、3六歩。

「6五歩。開戦」


挿絵(By みてみん)


 これはさすがに攻め切れないでしょ。私は自信を持って同歩とした。

 8八角成、同玉、8六歩、同歩。

 相手は3三角と打ち直した。王様が角筋に入ったけど、これは恐れなくていい。

「6六角」

 合わせて消す。

 7五歩、同歩、6六角、同銀、6五銀。


挿絵(By みてみん)


 同銀、同桂は6六歩で切れるから、同飛としてきそう。

 このおばさん、手つきはちょっと慣れていないところがある。でも、私たちと同じように1勝してるチームだから、あなどるとマズい気がした。将棋指しの勘。

「同銀」

「同飛」

 飛車で取ってきた。私は6六歩と蓋をする。

「4五飛」

 急所のスライド――やっぱり初心者じゃないわね。

 私は4六銀とがっちり受けた。

 7五飛、7七銀、8五歩。


挿絵(By みてみん)


 ん? この歩は?

 不気味な手だ。私は1分ほど考えた。

 ……同歩に9五歩の端攻め? この線が一番高い。

「7六歩」

 しっかり止めておく。

「んー、あなた、なかなかやるわね」

 おばさんは電子タバコをくわえたまま、そうつぶやいた。

「大学生? 高校生?」

「……大学生です」

「どこの大学?」

 あぁ、めんどくさい。根掘り葉掘り訊かないで欲しい。

 個人情報は教えたくないから、ごまかしときましょ。人数の多い大学がいい。

晩稲田おくてだです」

「あら、私も晩稲田おくてだよ」

 ぐぉおおおお……墓穴を掘った。

「どこの学部?」

「あ、あとで話しませんか? 時間がなくなりますよ?」

「それもそうね」

 セーフ。おばさんは7四飛と引いた。

「8五歩」

「9五歩」

 ほんとに端攻めなのか。でも、これは足りないでしょ。同歩。

 おばさんは駒音叩く6九角と打ち込んだ。


挿絵(By みてみん)


 ……ん? いい手な気がする。

 相手は銀を持っている。5八角じゃ4七角成は防げない。同角成、同飛、6九角、4八飛に5九銀があるからだ。かと言って、5七金は守りが薄くなってしまう。

「……」

 裏見うらみ香子きょうこ、考え中。おばさんは電子タバコの中身を入れ替え始めた。

 綿のようなものに液体をかけている――っと、こんなの観察してる場合じゃない。

「8六銀」

 8五桂を阻止する。4七角成は許容。

 おばさんはキャップを閉めて、口にくわえなおした。

「んー、そうきましたか。4七角成」

 5五銀、3九銀、2六飛、4八馬、2七飛、3八馬、1七飛。


挿絵(By みてみん)


 さあさあ、捕まらないわよ。後手の銀打ちがぼやけてきた。

 ここから2八銀不成でも4八銀不成でも、働きはよくない。

 私は残り時間を確認した。私が12分、おばさんが14分。

 おばさんはここで1分使って、2八銀不成を選択した。

「5七飛です」

 2九銀成、8三角(反撃!)、6五桂、5九飛、7一飛、6五角成。

 桂馬を回収できた。後手は2九成銀の処置がむずかしいはず。

「2八馬」

 これは……1九成銀の狙い? それならこっちもゆっくりできる。

 私は9筋の端歩を伸ばした。


挿絵(By みてみん)


 端を逆襲する。

 これを見たおばさんは、

「ちょっと攻め過ぎたか……」

 と反省して、1九成銀とした。スーッと息を吐く。

 煙が見えないタイプらしく、かすかに匂いだけがした。受動喫煙。

 ちゃっちゃと終わらせましょう。9三歩成。

「逃げるならここかしら。6一飛」

 なるほど、最悪6五飛と切るわけか。

 だったら徹底的に封鎖する。

「6四桂」


挿絵(By みてみん)


「ずいぶんしぼるわね」

 しぼる? ……なにを?

「4二金寄」

 よくわかんないけど、6四桂を厳しいと見たのは確かなようだ。

 私は9二歩と打って、じわじわ攻めていく。

 おばさんは、また30秒ほど考え込んだ。

「……5四歩」

 ほぉ、これは手筋だ。同銀なら6四馬、同馬、同飛でたいへんなことになる。

「同馬」

 こっちで取って安心。

 私がチェスクロを押すのと同時に、おばさんは5一飛と寄った。


挿絵(By みてみん)


 ……むッ、しまった。これもいい手だ。

 放置は5四飛、同銀、6四馬で困る。

「6五馬」

 私は馬をいったん戻った。

「5四歩」

「同銀」

「その馬には消えてもらうわ。7三桂」


挿絵(By みてみん)


 あッ……馬交換になっちゃった。5五馬、同馬、同歩以外に選択肢がない。

 私は泣く泣く交換に応じた。

 5五馬、同馬、同歩、3七角、5六飛。

 おばさんは電子タバコを揺らしながら、目つきを鋭くした。

「切りますか。5四飛」

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