100手目 慶長ボーイ
駒とチェスクロの音――私たちを待っていたのは、予想外におしゃれな空間だった。
観葉植物で仕切られた空間に、4人がけのテーブル席が並んでいる。
長机だけの殺風景な将棋クラブとは大違い。
「なんともモダンな将棋道場ですね」
大谷さんも、すこしおどろいたようすだった。
というか、私たち、これまた浮いてる気が。
ララさんは困惑する私たちをおいて、すぐに受付へ向かった。
「Hello」
受付の女性――デパートの案内嬢みたいに制服を着ていた――は顔をあげて、
「あ、ララさん、おはようございます」
と挨拶を返した。あまりにも気さくで、私はララさんがここのスタッフだと気づいた。
だって、もう昼過ぎだもの。接客で「おはようございます」はおかしい。
ララさんは、ちょっと困った顔を作って、
「今、お金ないの。来週のバイト代、前借りさせてくれない?」
とたずねた。けっこう無茶な要求。
スタッフの女性もあきれ気味。
「またですか? マスターに怒られますよ」
ま、マスターって言うのか。
渋谷向けにいろいろアレンジしているようだ。
道場によくある賞状なんかもほとんどなくて、真っ白な壁に抽象画が掛けられていた。
「お願い。ちゃんと働くから」
ララさん、両手を合わせて拝む。
「マスターからよろしく言われてはいますが……」
スタッフの女性は、受付テーブルの下からこっそり封筒をとりだした。
「はい、どうぞ」
「ありがとぉ」
あっさり貸したわね。マスターってひと、ずいぶん用意がいい。
もしかして愛人……いや、勘ぐりはやめておきましょう。
「ララさん、そのお金、どうするの?」
私は純粋な疑問をぶつけた。私たちにくれるとも思えない。
ところが、ララさんは返事をしなかった。道場の奥へ移動する。
窓際とは反対側、2方向を壁に囲まれたすみっこのスペース。
そこに、ひとりの少年が座っていた。
フレームのない横長のメガネ。
着ている服はカジュアルだけど、すぐにブランド物だと分かった
「ハロー、イッチー」
イッチーと呼ばれた少年は、顔をあげた。
なにやら難しげな本を読んでいる。
「南さん、こんにちは」
「イッチー、これでやらない?」
ララさんは、封筒をひらひらさせた。私はびっくりする。
「ララさん、真昼間からなに言ってるのッ!?」
「なにって……将棋のお誘いだけど?」
ぐッ、そういう誘いか。勘違いしてしまった。
ララさんはニヤニヤして、
「香子、けっこうエッチなこと考えるんだね」
と、二の腕をツンツンしてきた。私は顔が赤くなる。
「からかわないでよ。まあ、将棋なら……って、それもダメでしょッ!?」
「え? なんで?」
だって賭け将棋じゃない。お金を見せてるんだから。
ブラジルでは知らないけど、日本でギャンブルは違法だ。
私はそのことを小声で丁寧に説明した。
「みんな賭け麻雀とか普通にしてるよ?」
「あれはやってないことになってるの」
「じゃあ、これもやってないことにすればOK」
えーい、日本の建前と本音の文化を理解しなさい。
そもそも、私たちの部は一回不祥事でつぶれているのだ。気をつけないと。
そのことを説明しかけたところで、イッチー少年はこちらに顔をむけた。
「……もしかして、都ノの裏見さんと大谷さん?」
私たちは、そうだと答えた。
「どこかで見たことがあると思いました」
え? なに? 新手のナンパ? 東京、ナンパ多すぎでは。
少年は立ち上がると、ていねいに挨拶しなおした。
「僕は慶長大学2年の児玉一朗です。みんなイッチーって呼んでます」
ということは……大学将棋関係者か。
「おふたりについては、主将の三和さんから聞いてます」
おっと、三和さん、主将だったのか。さすがは高校で全国3位だったことはある。
「どうぞ、お座りください」
児玉先輩は、4人掛けの一番奥にずれた。
私たちは順々に腰をおろす。ララさんが児玉先輩の正面で、通路側に私と大谷さん。私はララさんのとなり。大谷さんは児玉先輩のとなり。
「お冷やをお持ちしました」
さっきの受付の女性が、お冷やを運んできた。
「なにかご注文は?」
「ないよ」
ララさんのそっけない返答。店員さんは一礼して、べつのテーブルへ移った。
喫茶店っぽい動き。いろいろ複合させた施設みたいね。
よくよくみると、《本日のおすすめスイーツ》というボードが目にとまった。
児玉先輩は、私たちがひと息ついたところを見計らって、
「3人は、この道場へなにしに?」
と、ざっくばらんに尋ねてきた。それは私が訊きたい。
「ララさんに誘われて……」
私が言い終わるまえに、児玉先輩はくすりとした。
ですます口調をやめて、こう続ける。
「なるほど、なんとなく察しがついたよ。南さんと渋谷に来たけど、お金がない、と」
くぅ、ずけずけと言ってくれますね、この先輩は。
ララさんだけは笑って、
「この席は、大学生が交流するときによく使うスペースなんだよ。だから……」
さっきの封筒をひらひらさせた。
「5倍層で、どう?」
「ははは、ララさん相手に5倍はきついなぁ。倍層で」
専門用語がとびかって、よく分からなくなる。
「ララさん、ごばいそう、ってなに?」
「あれ? 知らないの? 日本語だよ?」
「あやしげな日本語は知らないのよ」
「エッチなのは分かるのにねぇ」
は? いいかげんにしてちょうだいな。ここは一発ガツンと――言おうとしたら、児玉先輩がわりこんできた。苦笑気味に制止してくる。
「まあまあ、ふたりとも落ち着いて……で、倍層なら受けるの?」
「Não、5倍層」
「ララさん、ダメだってば」
私は強くいさめた。すると、さすがに児玉先輩も事情を察してくれた。
「都ノは、そのあたりにかなり神経質みたいだね。でも、将棋部が潰れたのは、部費の横領だったんだろう? 賭け将棋じゃないよ」
「そういう問題じゃ……」
「たしかに、そういう問題じゃないかもしれない。だったら、こういうのはどうかな。僕が負けたら、ここのマスターに、南さんのお給料を倍にしてもらうよう提案する。もちろん、来週の分だけだよ」
「Não、3倍にして」
「それはできない。きみのほうは失うものがなにもないからね」
「わたしが負けたらわたしのお給料ゼロでいいでしょ?」
「ダメ、労働基準法違反」
私は法学部じゃないけど、アルバイトにタダ働きさせるのが違法っぽいのは分かる。
ララさんも納得したようだ。給料袋をジーンズのポケットに仕舞った。
「じゃ、始めましょ」
ララさんは、テーブルの下から折りたたみ式の将棋盤をとりだした。
なるほど、こういう仕組みになってるのか。
だんだん分かってきた。将棋道場というよりも、将棋が指せるカフェなのだ。
現に、となりの席のカップルは、将棋を指していなかった。
「30seconds?」
「30秒はかかりすぎ。20秒」
早指しか――児玉先輩、自信ありげ。
ララさんも、すぐに受けた。腕まくりをして気合いを入れる。
「よぉし、じゃんけん」
ぽんで、ララさんの後手になった。
「Vamos começar!! よろしく!」
「よろしくお願いします」
ふたりとも一礼して、対局開始。
「7六歩」
「8四歩ッ!」
「ハハハ、気合い入ってるね」
「お給料、倍だよ、倍」
いくらもらってるか知らないけど、なんか時給がよさそう。
6八銀、3四歩、6六歩、8五歩、7七銀、7二銀、7八金、8三銀。
こ、これは棒銀? しかも原始棒銀っぽい?
「怖いなぁ。7九角」
児玉先輩は、笑顔で角を引いた。定跡通り受けていく方針だ。
8四銀、5六歩、9五銀。
ほ、ほんとに原始棒銀。ララさん、大丈夫なの?
私の心配が伝わったのか、ララさんは私のほうを向いてウィンク。
「大丈夫。おじいちゃんから教わった無敵戦法だよ」
ぐぅ、ますます心配になってきた。
いい話っぽく表現してるけど、ようするにブラジルへ移民したときから知識量が増えてないってことでは? だとすると、最新戦法に対応できなくない?
私の焦燥をよそに、次の手が指された。




