気持ちは決まってる
井上達と練習をする土曜日の朝、博美はスクーターでヤスオカ模型に向かっていた。家を出て40分、特に渋滞には遭わなかったのだが、制限速度を守って走るとバスより少し時間が掛かるようだ。
「(意外と時間が掛かったなー でも重い荷物を持たなくていいから楽だ)」
光輝が大きなキャリアーを付けていたお陰で、送信機の入ったアルミボックスを簡単に縛り付けて運べる。バッグは前の籠に入れてヒモで縛っていた。
「(バス運賃も馬鹿にならないもんなー ガソリン代の方がずっと安上がりだ)」
おそらく往復で2リットルもガソリンを使わないだろう。
「(えーっと 今はバスセンターだよね)」
信号で止まったときに左を見ると、見慣れたビルが在った。例のイタリア料理店のポスターが目立っている。
「(さあ、もうすぐだ)」
信号が青になり、博美はスロットルを開けた。
「秋本さーん。 おはよう」
博美がヤスオカ模型の駐車場に入ってくと、樫内が手を振って挨拶をしてきた。いつものお嬢様スタイルでなく、ジーンズにTシャツという博美と同じような格好をしている。
「おはよう、樫内さん。 早かったのねー」
スクーターを隅に置き、博美も手を上げた。キャリアーからボックスを下ろし、籠の中のバッグを持つとチームヤスオカのワンボックス車に向かって歩いていく。
「おはよう、博美ちゃん。 「ミネルバⅡ」は積んであるよ」
ワンボックス車の側には森山が立っていた。
「森山さん、おはようございます。 新土居さんと篠宮さんは?」
あと二人が見当たらない。
「新土居さんは仕事。 今日は珍しく雨が降ってないから、飛行機の塗装ができるんだ。 篠宮君は来るはずだけど」
森山は送信機の入ってるボックスを博美から受け取り、ワンボックス車に積み込んだ。
「篠宮さん、ほんとに来るんですよね?」
なかなか現れない篠宮に、樫内が心配して森山に尋ねる。
「樫内さんは篠宮さんに会いたいんだもんねー」
横から博美が口を挟んだ。
「来るって。 朝メールがあったから。 っと、来たんじゃないか?」
駐車場に軽自動車が入ってきた。店の客は、さすがにこんなに早い時間には来ないだろうから、篠宮で間違いないだろう。
「おはようございます。 すみません、遅れました」
やはり降りてきたのは篠宮だった。
「おはようござます」
ところが、助手席からショートボブの女性も降りてくる。それを見て挨拶を返そうとしてた樫内が、博美の腕を掴んで固まった。
「いたい。 樫内さん、痛いから……」
力の強さに、博美が悲鳴を上げる。
「あれ誰? ねえ、あの女誰よ!」
博美にしか聞こえないように、小さな声で樫内が聞いた。
「ぼ、私会った事がある。 たしか 篠宮純子さん。 篠宮さんの従姉弟だと聞いたけど」
やはり小さな声で博美が答えた。
「なんで篠宮さんが連れてくるのよ。 どういう関係よ!」
樫内の手に、さらに力が入る。
「いたい! 樫内さん、痛いってー 離してよ!」
博美はやっとの思いで樫内を振りほどいた。
「おはよう。 篠宮君、今日はどうしたの? 女の人連れかい?」
博美たちが二人で揉めている間に、森山が挨拶を返す。
「いえいえ、彼女なんかじゃ無いですよ。 これは従姉弟で、車が無いんで送ってもらったんです。 この車は彼女のなんですよ」
篠宮が顔の前で手を振って答える。
「あー この人知ってる。 何週か前、アーケード街でベンツに乗って軟派してた二人連れの一人だ」
森山の顔を見て、純子が声を上げた。
「えっ! …まさかあの時に声をかけた人?…」
森山の顔が引きつっている。
「ひょっとして、純ねえが言ってた「ださい」二人連れって……」
篠宮が聞いた。
「そうよー この人だった。 ほんっと「ださ」かったんだから。 でも今日はスッキリしてるわね」
森山を上から下まで見て純子が言う。
「これなら良いのよ。 よく似合ってる。 やっぱりさー 突然普段と違うファッションをしても借り物になるのよねー」
今日の森山は、普段から飛行機を飛ばすときの姿をしている。ストレッチ性のあるパンツ(ズボン)にポロシャツ、足元はトレッキングシューズだ。それらが適度に使い古され、森山の雰囲気に合っている。
「あのー おはようございます」
「おはようござます。 篠宮さん」
気を取り直して博美と樫内が挨拶を返した。
「おはよう、直海ちゃん、博美ちゃん。 直海ちゃんは今日はアウトドアスタイルだね。 似合ってるよ」
篠宮がさらっと樫内を褒める。
「(おっ、崇ったら上手ねー) おはよう、博美ちゃん。 今日も可愛いわねー っで、隣は?」
純子は篠宮の言葉を聴いて、樫内が気になった。
「樫内直海です。 秋本さんの同級生なんです」
樫内がお辞儀をした。
「私は篠宮純子。 この崇の従姉弟で2才上よ。 ひょっとして崇に告白したのってあなた?」
純子が右手を出して言った。
「あっ! は、はい」
樫内が慌てて右手を出して握手をした。
「あらー 素敵じゃない? こいつに目を付けるなんて、なかなか鋭いわよ。 こいつなら浮気は出来ないだろうし。 真面目だしね。 って、崇ー いい娘じゃない。 なんでさっさと付き合うって返事をしなかったのよ。 ばっかじゃない?」
純子が篠宮の肩を叩いた。
「いってー 純ねえ、何するんだよ。 肩が外れたら如何するんだ」
篠宮が大げさに痛がり、肩をすくめる。
「乙女のか弱い力であんたの肩がそんなに簡単に外れるわけが無いじゃない。 ねえ樫内さん」
「え、ええ。 そ、そうですよねー (な、なんなのこの人)」
ぽんぽんとよく喋る純子に樫内が面食らっている。
「うふ♪ (でも、この人に掛かると篠宮さんって弟扱いになるのね。 なんか可愛い)」
「あらー いい笑顔。 博美ちゃんとは違う魅力があるわ。 崇、ここで返事しなさい。 気持ちは決まってるんでしょ」
再び純子が篠宮の背中を叩いた。
「だから、痛いって。 ぽんぽん叩くなよ」
「あっと、あんまり時間が無いんだった。 それじゃ崇、私は仕事に行くわね。 樫内さん、また後でね。 皆さん、失礼します」
篠宮の抗議を無視して、純子は行ってしまった。
4人が乗ったチームヤスオカのワンボックス車は森山の運転で郊外に差し掛かっている。助手席には篠宮が座って、純子の言葉を反芻していた。
「(気持ちは決まってる…か… ほんとにそうか? 僕は再来年には県外に出るだろう。 彼女はまだ学生だ。 離れることになる。 それが分かってて、ここでOKしていいのか?)」
大事に思うほど、篠宮は樫内に申し訳なく思う。
「(初めて告白されて、戸惑って返事を遅らしたんだが… 分からん。 僕はどうしたい?)」
「篠宮君、どうした? なんか悩みでも有るか?」
無口になった篠宮の様子に、森山が尋ねた。
「人の心は難しいです。 自分自身の事なのに」
前を向いたまま篠宮が答える。
「彼女のことか? 正直、俺からすると羨ましい限りだけどな。 どうせ就職のことなんか考えてるんだろ。 だけどな、まだ1年半も先の事だと思わないか? 直ぐに分かれる恋人も居るってじゃないか。 そう考えると、1年半先の事なんて考えなくてもいいんじゃないかな…」
ぎりぎり篠宮に聞こえる声で森山が言った。
「(1年半が遠いか近いかの考え方か… そうかもな。 直ぐに愛想を付かされるかもしれない。 ここは馬鹿になるのもいいかも…)」
再び篠宮は黙り込んだ。
「ねえ、秋本さんの飛行機ってどれ?」
振り返ってワンボックス車の貨物室を見ながら樫内が聞く。
「右上の棚に乗ってる飛行機だよ。 「ミネルバⅡ」っていうんだ」
博美も振り返ると指差した。貨物室には左右の壁沿いに上下二段の棚が付けられていて、今日は3機の飛行機が乗せられていた。
「これ? みんなカバーに入ってるから分からないけど、随分大きいのね。 お店に下がっているのより大きいみたい」
乗っている飛行機は皆傷防止のため、尾翼や主翼、さらに胴体まで布で出来たカバーが掛けられている。
「うん、かなり大きいと思うよ。 お店のは30年以上前の機体だから今の飛行機より小さいよね。 でもあれは世界チャンピオンになった飛行機だよ。 凄い飛行機なんだ」
「へー そんな飛行機が置いてあるって事は、世界チャンピオンに成った人が居るってことね」
こんな田舎にねー と樫内が感心する。
「そう言えばさー 私を含んでチームヤスオカって言うんだけど、私の飛行機以外は篠宮さんが設計してるんだってー 凄いよね」
今の飛行機の事で、ふと博美は思い出した。
「作ったのは、今日は居ないけど新土居さんって人で、エンジンなんかの整備は森山さんがしてるんだ」
「篠宮さんが設計? 篠宮さんって4年生でしょ。 ねえ、篠宮さん」
博美の説明を聞いて、樫内は助手席の篠宮に声を掛ける。
「おっ! っと、なんだい直海ちゃん」
思考の海から引き戻された篠宮が驚いて振り返った。
「秋本さんから聞いたんですけど、篠宮さんって何時から飛行機の設計してるんですか?」
助手席との間を仕切っているパイプを掴んで上体を起こし、樫内が聞く。
「そうだねー 小さい飛行機は中学校2年ぐらいから設計してたね。 模型屋さんで材料を買ってきてさ、ちまちま作って飛ばしてた。 スタント機は高専に入ってから… これも段々大きくなってね、今のフルサイズっていうのは、設計だけなら2年生かな? 実際に作ったのは3年生になってからだよ。 最初が新土居さんの飛行機、次が森山さんので僕のが半年ぐらい前かな」
思い出すようにして篠宮が答えた。
「そう言えば、最初に合ったときに出来たばかりじゃなかったですか? 私が始めて?… 2回目かな… 安岡さんの飛行場に行ったとき」
ゴールデンウイークに練習したときのことを博美は思い出した。
「そうそう、あの時に初めて噂の美人を近くで見たんだよね。 飛行機はそのちょっと前に出来ていたよ」
さり気なく博美が恥ずかしくなる言葉を篠宮が発した。
「そうですよねー 秋本さんは美人だもの、一度見たら忘れられないですよねー」
横から割り込んでくる樫内の言葉に「トゲ」が見え隠れする。
「あっ! いやいや、直海ちゃんも美少女だよ。 二人はタイプが違ってるから… 博美ちゃんは元気一杯って感じだし、直海ちゃんはお淑やかなお嬢様ってタイプだね」
篠宮が慌ててフォローをする。
「実際は、樫内さんのほうがスポーツが出来るんですよ。 私はスポーツは駄目なんです」
太ももの筋肉が凄いんですよー と返答に困ることを博美が暴露した。
「(はあ…… 篠宮も彼女が出来ちまった…… 俺たちに春は来るのかね…… 純子さんか…… 彼氏居るのかな? 後で篠宮に聞いてみよう……」
三人のお喋りを聞きながら、さっき合った純子のことを考えている森山だった。




