迷子
朝食時間の食堂は、相変わらず混雑していた。しかし、その中に一つ、ぽっかりと空いた場所がある。
「ねえねえ、康煕君。 土曜日はどうやって飛行場に行くの? 小松さんは就職活動で来れないんでしょ」
そこでは博美が箸を持ったまま、正面に座る加藤と話していた。連行される恐怖に、誰も合席しようとしないのだ。
「居た居た。 秋本さんはすぐ見つかるわね。 しかも必ず座れるしー」
そんな席に樫内がやって来て、加藤の横に座る。
「あんたねー 博美ちゃんを席取りに使ってるんじゃないわよね?」
博美の横に座っていた永山が睨みつけた。
「いいじゃない。 あんただって楽してるでしょ?」
樫内は何処吹く風と悠然としている。
「んで、何の話だったの?」
ぐぬぬっ、と睨む永山から視線を博美に移して樫内が尋ねた。
「まあまあ、裕子ちゃん。 落ち着いて…… えーとね、今度の土曜日にラジコンに行く事」
永山の肩を叩いて落ち着かせると、博美は樫内に説明する。
「日本選手権に行くから、その為の練習をするんだ。 ぼ、私は助手なんだけどね。 でも目慣らしで飛ばすことになったんだ。 あっ、目慣らしって言うのはテスト飛行みたいなものだよ」
博美は嬉しそうに説明した。
「へー 凄いじゃない。 土曜日ってどんな人が集まるの?」
味噌汁椀を持ったまま樫内が聞いてくる。
「私が助手に付く井上さんっていう人。 康煕君でしょ。 多分チームヤスオカの三人。 篠宮さんもチーム員だよ。 あと、真鍋さんってベテランの人。 もしかしたら安岡さんもかな? もちろん、そんな事には関係なくラジコンする人も居るかもね」
箸を咥えて博美が宙を見ながら答える。
「私も行くわ!」
樫内が椀を「どんっ」とテーブルに下ろす。
「博美ちゃんの飛行機を見てみたいから」
「んっ? 多分、朝お店に行くと乗せてくれると思うよ。 篠宮さんも乗るかもね」
博美が「にやにや」している。
「篠宮さんが居るから行きたいんでしょ?」
「ねえ、この間から篠宮さんって出てくるけど… 誰?」
樫内に対する怒りも収まったのか、永山が口を挟んだ。
「機械科の先輩で4年生だよ。 落ち着いた感じの人だよね、樫内さん」
博美が樫内に話を振った。
「そうね、何事にも取り乱さない紳士って感じかしら。 って、な、な、なんで私にそんなこと聞くのよ」
珍しく樫内が取り乱している。
「だって、裕子ちゃん。 分かった?」
博美が隣の永山を見る。
「分かったわ。 樫内さんの片思いね」
永山は深く頷き言った。
「樫内さんって… 男も女も行けるんだ……」
「違う! 私はノーマルよ」
樫内の声が食堂に響き渡った。
金曜日の夕方、博美はバスセンターからいつものバスで家に向かっていた。今日はやっとスクーターが手に入るとあって、朝からおかしなテンションで博美はクラスメート達に引かれていたのだが、流石にバスの中では大人しくしている。
「(うー 早く走ってよー 待ち遠しいよー)」
焦燥感に駆られていても、バスは普段どおりの時間を掛けて何時も博美の乗り降りするバス停に着く。停留所の何十メートルも前から料金箱に乗車券を入れ、ドアの前に立っていた博美はドアが開くと同時にバスから飛び出して行った。
「会長さん、出来てる?」
自転車屋はバス停の目の前だ。博美は飛び込むと自分のスクーターを探した。
「はい? えっとー どなたでしたっけ?」
店の中には行き成り飛び込んできた博美を見て、目を白黒させる中年の男が居た。
「あれっ! 会長さんは?」
ラジコンクラブの会長が居ると思っていた博美はその男を見てくびを傾げた。
「会長っておじいさんかな? 今は町内の商店会議に行ってる。 何か頼んでたのかな?」
カウンターの向こうで「にこにこ」しながらその男が言った。
「あっ! そうなんだー あの、秋本っていいますが、先週スクーターを修理に出したんです。 出来てますかねー」
やっと理解した博美がカウンターの前に来る。
「はいはい、秋本さんね。 うん出来てるよ。 今出してくるね」
そう言うと、男はカウンターの後ろにあるドアから出て行った。
「秋本さん、こっちだよ」
一人残され博美が不安に思っていると、店の外から声がする。
「はい……」
博美が外に出てみると、さっきの男が博美のスクーターのスタンドを立てるところだった。
「エンジンを掛けるね」
博美が来たのを見て、男はエンジンを掛けた。
「ライトも点くね。 方向指示器もOK。 ブレーキランプもOK」
軽くスターターを回すだけでエンジンは回りだし、ヘッドライトが点灯する。男がスイッチを操作して異常がないかを確認した。
「うん、全てOKだ。 いいよね?」
そして博美に確認すると、
「それじゃ、中にどうぞ」
エンジンを止めて博美を店に誘った。
「ありがとうございましたー」
ヘルメットを被り、博美がスクーターに跨っていた。
「暗いから気をつけて行ってね。 飛ばさないようにね」
会合から帰った会長と、その息子が博美を見送っている。
「はーい」
返事をして博美はスロットルを開け、暗くなった道路に出て行った。
「可愛い娘だね。 モデルが来たー ってあの子が騒いでたのも分かる。 あの秋本さんの娘なんだって?」
博美が見えなくなるまで見送り、店に入りながら男が聞いた。
「ああ。 最近は来ないけど、よく光輝君に連れられて飛行場に来てたね。 小さい頃は男の子みたいだったんだが、ほんと綺麗になった」
続いて店に入り、戸を閉めながら会長が答える。
「さあ、今日は終わりにするか…」
二人は道具を片付け、店のシャッターを閉めた。
空にはまだ少し明るさはあるが、道路はヘッドライトの当たっていないところは真っ暗だ。そんな中、博美は「うきうき」と走っていた。風が頬を撫で、ヘルメットから出ている髪を揺らす。
「(あー 気持ち良いなー このまま帰るのも詰まんないなー えーっと、今7時30分ぐらいかな? ちょっと先まで行って来ようかな)」
自転車より早く、しかも楽に走れることに気を良くした博美は、気の向くままに角を曲がっていった。
「(えっと…… 此処は何処?)」
ふと気が付くと、博美は知らない街、と言うか田圃の中の細い道に居た。
「(えっとー こっちの方から来たんだから、そっちに行けば帰れるよね)」
Uターンして走り出す。
「(こんな所、通ったかな? えー 分かんない……)」
元に戻るつもりが、行けども行けども見知った所に着かない。
「(うん、これは迷ったんじゃない?…… )」
考えるまでもない、完全に博美は迷子になっていた。時刻は8時を過ぎている。家では明美が心配しているだろう。
「(迷った、なんて電話したら心配するよね…… どうしよう……)」
道端にスクーターを止めて、博美は携帯電話を開き悩んでいる。
「(康煕君にかけようかな……)」
加藤なら怒らず教えてくれそうで、博美は電話を掛けた。
加藤は風呂から出て火照った体を冷まそうと、パンツ一枚でベッドに横になっていた。枕元に置いてあったスマホが電話を知らせる。
「(んっ? 博美か)」
博美から掛かった時は呼び出し音が違っているので分かるのだ。手を伸ばし、加藤はスマホを取った。
『康煕君、迷ったー ねえ、僕って何処に居るの?』
『はあー? 迷ったー?』
博美の泣きそうな声に、加藤は驚き、呆れた声になった。
『此処は何処なの? 康煕君教えて……』
泣きそうになって博美が携帯電話を握っている。辺りは灯りも少なく真っ暗だ。
『まあ、落ち着け。 その辺に何か目標になりそうな建物かなんかは無いか?』
加藤の声は落ち着いていて頼りになる。博美は周りを見渡してみた。
「(あれって、学校かな?)」
『向こうの方に学校があるみたい。 行ってみる』
携帯電話を握ったままスクーターに乗り、見えた学校の前まで博美は行った。
『着いたよ。 えーっと…… 華長中学校って書いてある。 ここって華長中なの?』
中学校の頃はライバル校として意識していた学校だ。
『田舎、田舎、って随分馬鹿にされたけど…… 華長中だって田舎じゃない!』
理不尽なからかいに怒りの湧いた博美は、一瞬心細さを忘れた。
『おまえなー 俺も華長中だぜ、少しは言葉に遠慮しろよ。 でも場所は分かった』
博美の言葉に「カチン」ときたが、加藤には場所がはっきり分かった。
『中学校を左に見るようにその道を行くんだ。 そのまま行けばバスの通るバイパスに出る。 バイパスを横切ってさらに行くと「ごめん」の町に出るから。 そこまで行けば分かるだろ?』
何故か博美は加藤の家の近くまで来ているようだ。
『分かった。 康煕君、ありがとう。 家に着いたらメールするね』
ほっとして博美は電話を切ろうとした。
「(このまま切るのは、なんか申し訳ないなー そうだ!)」
『康煕君、愛してる。 きゃっ!』
つい出来心で言ってしまった言葉に照れながら、博美は電話を切った。
「(……何なんだ……)」
いきなりの事で、加藤は博美の言った言葉が理解できないでいた。




