空の妖精
正午を少し過ぎた頃、やっと最後の選手の演技が終わった。これから集計だが、飛行場に居る全員は今日の結果は分かっていた。もう「ぶっちぎり」で井上がトップだ。2位の選手と素点で200点近い差がある。今日は井上以外は捨てラウンドになったのだ。
「井上さん、今日はトップで1000点ですよね。 昨日は何点だったんですか?」
お弁当が並んでいるテーブルの周りに皆で座っている中から博美が尋ねた。
「昨日が990点だった。 だから合計点は1990点になるな」
手元に帰ってきたジャッジペーパーの余白で筆算して井上が答えた。
「それだけ在れば予選通過ですよね。 早く集計が発表されないかなー」
一人だけ流動食を飲みながら博美が嬉しそうだ。
「やあやあ、相変わらず此処は楽しそうだ。 それにさっきは素晴らしい演技だったね」
歩いてやって来た安岡が井上の方を見ながら話しかけてきた。
「いやー 博美ちゃんのお陰ですよ。 ほんと昨日はどうなる事かと思ってましたから」
井上が答えると、加藤と小松も頷いた。
「昨日の井上さんは怖かったもの。 博美ちゃんは女神様ですよ」
小松がしみじみと言った。
「女神様じゃなくて妖精じゃないかな。 その妖精の博美ちゃんにお願いがあるんだけど」
安岡が言う。
「何でしょう? 僕に出来ることなら……」
博美が「こくっ」と首を傾げる。
「この前のように「ダッシュ120」を飛ばしてくれないかな」
「別にいいですけど…… 何故?」
「今日のジャッジに博美ちゃんのフライトを見せたいんだ。 デモフライトだね」
安岡が「ニヤッ」とした。
「これが上手く行けば博美ちゃんにも良い事があるはずだ」
予選も終わり、飛行場全体を寛いだ雰囲気が覆っている中に、エンジンの音が響きだした。安岡が「ダッシュ120」のエンジンを始動したのだ。
「おー 安岡の旦那、珍しく飛ばすんかい。 おい本田、よく見とけよ」
成田が弁当を食べる手を止めて、隣で弁当を食べている本田に言った。
「えっ! でも送信機を持ってるのはさっき井上さんの助手をしてた女の子ですよ」
本田が見たところ、操縦するのは安岡では無いようだ。
「なにー 本当だ…… こうしちゃおられん。 おい奥山さん、ジャッジするぞ!」
成田は食べかけの弁当をテーブルに置くと、まだ置いたままになっていたジャッジ席に向かった。
成田が席に座ってみると、ご丁寧にもジャッジペーパーが置いてある。
「(安岡の旦那…… 用意周到だな。 そんなに自信があるんかい)」
成田は憮然として鉛筆を持った。
「おねがいします」
エンジン調整が終わり、篠宮が「ダッシュ120」を滑走路に運ぶ間に博美が操縦ポイントに来て挨拶をした。
「お、おう」
可愛らしい声に、成田が少し「どきっ」とする。
「(俺としたことが…… こんな小娘に照れるなんて)」
成田は頬が熱くなるのを感じた。もっとも日焼けして真っ黒になっている頬は、他人から見れば何も変化していなかったのだが……
気負いも無く、博美は「ダッシュ120」を離陸させる。しかしそれは他人から見て驚くような飛行だった。滑走路の周りに生えている葦が大きく揺れて、相変わらず風が強いのを示している。その葦のすぐ上を掠めるように上昇する「ダッシュ120」はしかしまったく揺れない。それはまるで此処とは別の世界を飛ぶ飛行機を見ているようだ。風に揺れる葦と揺れない飛行機、見ている人間はそれを同じ空間の物体とは認識出来なかったのだ。
「(どうやって飛ばしてるんだ? 見たい、見てみたい。 スティックの動きをこの目で見たい)」
成田は目の前でスカートをはためかせている博美の前に回って手元を見たい衝動に駆られていた。そんな成田の気持ちなど知らずに、博美はパターンを描いていく。描かれる図形は何時も成田が審査員のための講師をしている時に使っているスライドの様に「きちっ」と整っていて、風が強いにもかかわらず変形していない。よく見ると風の強さにあわせて機体の向きを細かく調整している。
「(なぜ瞬時に調整出来るんだ? 普通なら機体に変化が現れないと調整の方向や量が分からないじゃないか。 どうなってるんだ!)」
どんなベテランでも飛行機の姿勢が変わらない限り風の影響は分からない。いかに小さな変化を捉えるかが成績を左右する。それなのに博美は変化する前から微調整をしている。成田はますます訳が分からなくなった。
「(ロールは安岡の旦那に習ったんだな。 よく似ている)」
演技の中に含まれているロールは安岡のそれに似ていてスムーズで綺麗だ。ロスが少ないのだろう、ロールをしても速度が落ちない。それによってフルサイズでない「ダッシュ120」も十分な上昇をする。
「(しかし、ストールターンは俺のに似ている…… 俺は教えたことは無いはずだ)」
垂直上昇して、頂点で横に回るストールターンは一旦空中に止まるため、風に流されやすい。成田はそこで補助翼と昇降舵を使い、風に流されないターンをする。その仕方は本田にしか教えていないはずだった。しかし、博美は今朝、本田のフライトを見ていた。そこでストールターンをする機体の動きから舵の使い方を覚えたのだ。
「(宙返りは妖精の秋本譲りか…… これは仕方が無いな)」
主翼に風をはらんだ様な宙返りは、かつて見た博美の父親の仕方だ。綺麗なのだが演技の部分により半径が違ってきやすい欠点がある。現に演技の下の部分と上の部分で少し半径が違っているようだ。減点するかしないか難しい所だが、他が完璧な分減点したくなる。
やがて最後の演技「フィギュアZ」を終えた。
「(終わったか…… おっといけねえ、点をつけてねえや)」
演技に見とれて成田はジャッジペーパーにマークを付け忘れていた。
「安岡さん。 この娘はあんたの隠し玉か? とんでもないフライトをするじゃないか」
成田は左側を見て、そこに居る安岡に話しかけた。
「いやいや、この娘は井上君が見つけたんだ。 凄いだろ」
安岡が成田に説明を始めた。
「おっと、まだ下ろさないようだよ」
二人の会話に奥山が割り込んできた。見ると「ダッシュ120」が再びセンターの演技開始点に来ている。そこで「ダッシュ120」はゆっくりと右にロールを始めた。それと同時に左に旋回していく。
「ローリングサークル……」
成田が呟いた。
「この風の中でこの演技をするのか・・・」
安岡も驚いたように言う。風はさらに強まり、博美のスカートは膝が見えるほど捲れ、はためいている。その中を「ダッシュ120」は綺麗な円を描いてセンターに帰ってきた。当然ロールも一回転している。
「まさか!……」
成田が驚く。これで終わり、水平飛行で抜けていくかと思った「ダッシュ120」がロールを続けたまま宙返りを始めたのだ。
「凄い…… 綺麗だ……」
成田の口からはもうまともな言葉が出てこない。やがて「ダッシュ120」は宙返りを終わり、水平飛行に移った。しかしロールは続けたままだ。そしてロールをしながら着陸態勢に入る。
「空の妖精…… ただの妖精の娘じゃない、あの娘は空に祝福されている。 あの娘は空の妖精だ!」
滑走路すれすれでロールを止めた「ダッシュ120」がふわりと着陸したとき、成田が大声で言った。
「空の妖精か…… いい名だ」
安岡が頷いた。
篠宮が回収した「ダッシュ120」をピットに置くと、たちまち選手たちが周りを取り囲んだ。
「どうなってるんだ?」
「何処に秘密が有るんだ?」
「古い設計の方が良いのか?」
「裏を見せてくれ」
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取り囲まれた篠宮に質問が飛んでくる。
「すみません! これは安岡さんの飛行機ですから。 安岡さんに聞いてください」
篠宮が大声で質問を裁いていた。
「あー 面白かった」
皆の関心が「ダッシュ120」に向いているうちに、博美は明美たちの元に帰ってきた。
「ほーんと、お姉ちゃん楽しそうだったね。 飛行機も嬉しがってたみたい」
光が「にこにこ」と迎える。
「凄かったな。 やっぱり風を見ながら操縦してるんか?」
井上が聞いた。
「そうですね、今日は変化が早くて指が疲れました」
言いながら博美は親指をマッサージをしていた。
F3Aの得点は、そのラウンドでの最高点を1000点として、割合(1000分率)で求めます。
第一ラウンドの様に接戦だと1000点に近い人が多くなり、第三ラウンドの様にぶっちぎりの人が居ると皆の点が低くなります。




