本物だ……
助手席に博美を乗せ、明美の運転する車が堤防の上を走っていた。風が強く吹いているせいか、時々車が大きく揺れる。
「ねえ、この道で間違いないの?」
ガードレールが無いので、うっかりはみ出したら下まで落ちてしまう。ハンドルを握る明美の手に力が入るのも仕方が無いだろう。
「うん、間違いないよ。 もう少し行くと堤防から降りる道があるんだ」
特に心配した様子も見せずに博美が答える。それもその筈、博美には車が風で揺れるのが予め分かっているのだ。
「降りる道が見えたら一度止まって」
博美が意外なことを言う。
「遅くなったのに、いいの?」
博美と明美の準備はすぐに終わったのに光がなかなか起きず、家を出るのが遅くなったのだ。その為、既に8時30分になろうとしている。そして今、その光は後部座席で熟睡していた。
「うん、風の強さを感じておきたいんだ」
周囲より高い堤防の上は、風を感じるには都合がいい。
堤防から降りる道の手前で明美が車を止めると、すぐに博美は車から出て行った。
「うーんっ! お母さん、着いたの?」
後部座席から光の声がする。
「やっと起きたわね。 まだよ、博美が風を感じたいからって、外に出たの」
明美が後ろを振り返って言った。
「うわー 凄い風! お姉ちゃん、大丈夫かなー スカートが捲くれそうだよ」
少し先で遠くを見ている博美の様子を見て光が言う。片手で髪を押さえ、もう片手はスカートを押さえているが、ロングスカートなのに時々膝が見えている。
「そうねー もう少し生地の厚い、デニムかなんかのスカートなら良かったかもね」
明美も少し心配している。しかし当の博美は風を見るのに一生懸命なのだろう、スカートが翻るのもあまり気にしてないようで、押さえている手もお座成りだ。
「うーん、これ大変だなー」
5分も見ていただろうか、博美は車に戻ってきた。
「何が大変なの?」
車をスタートさせながら明美が聞く。
「風の変化が早いんだ。 井上さん、付いてこれるかなー ひょっとしたら指示を減らさないといけないかも……」
答えながら、博美は考え込んでしまった。
井上はビーナスを置いてあるピットの前に立ち、空を見つめている。既にエンジンテストは済ましてあり、準備は完璧だ。
「やあ、井上君。 寝てないなんて珍しいじゃないか」
眞鍋が近づいてきて話しかけた。
「眞鍋さん、俺は別に何時も寝てるわけじゃないですよ。 脳みそを休ませているんだから」
井上がまた怪しげな説を唱える。
「まあまあ、それで今日はどうして寝てないんだ?」
怪しい説の事は華麗にスルーして再び眞鍋が聞いた。
「いや、博美ちゃんのように風が見えないかなってね。 やっぱり見えないや……」
ため息をつく様に答えると、首を垂れた。
「そんな事を気にするって事は、あの娘は今日も来ないんだな?」
眞鍋の声が心配している。
「ええ、来れないって事なんで……」
井上は声も元気が無い。
「おいおい、しっかりしてくれよ。 よし! 今日は俺が助手をしてやる。 どうせ俺は昨日の成績で予選通過確実だ。 今日は捨てラウンドだからな、目一杯サポートするぜ」
第1ラウンド、第2ラウンド共に眞鍋はトップの成績だったため2000点を獲得している。残り1ラウンドしか行われないことにより、眞鍋が首位で予選を通過するのは確実だ。
「そうですか、有り難い事です」
井上が心此処にあらずという風に答える。今駐車場所に入ってきた車の助手席に博美を見たような気がしたのだ。
「(まさかな…… 俺はそんなに彼女に頼っているんか?)」
井上は博美の影を振り払うように首を振った。
9時になり、目慣らし飛行が始まった。今日も本田が担当している。
「(おいおい、あの本田でさえあんなになるんかい? こりゃ今日はだめかもしれんな)」
昨日と違い、とても日本選手権上位選手とは思えない飛び方をするのを見て、井上は今日の厳しい条件を思い知らされたような気がした。
「あれ誰ですか? 風が強いけどよく押さえ込んでますね」
後ろから声がする。
「去年の選手権五位の本田だ。 流石だけど、演技にならないな…… って! えっ、博美ちゃん!」
後ろの声に答えながら井上が振り返ると博美が立っていた。
「えへへへ、来ちゃった。 おはようございます、井上さん♪」
首を傾げるオマケまで付け、満面の笑みを浮かべて博美が挨拶をする。
「おう、おはよう…… って、どうして? (おいおい、俺は幻でも見てるんかい?)」
井上がつい手を伸ばして博美の頭を触った。
「本物だ……」
井上の手に確かに触った感覚がある。
「何ですか? 僕は幽霊なんかじゃないよ。 無理を言ってお母さんに連れてきてもらったんです」
頭を抑えられているので上を向けず、上目遣いで井上の顔を見て博美が言った。
「井上さん! なに女の子を触ってるの?」
いきなり横で甲高い声がする。
「し・静香。 い・い・いや、これは別に……」
その声を聞いて井上が手を離し、声のした方を向いた。そこにはポニーテールの女性が立っている。
「別に何? 私がちょっと離れてる間に……」
女性が更に井上を攻め立てる。
「あれっ! 桜井さん。 おはようございます。 お久しぶりです」
誰かな? っと博美が見ると、看護師の桜井だった。
「えっ? ひょっとして博美ちゃん?」
桜井が博美を見て言った。
「はい、博美です。 緊急搬送の時はお世話になりました」
博美がお辞儀をする。
「あらー 博美ちゃん、綺麗になったわねー モデルだって噂があるけど、それも仕方が無いわね」
桜井の表情から警戒が消えた。
「モデルなんかじゃないですよー ねえねえ、桜井さんって井上さんと付き合ってるんですか? 前にお弁当作ってましたよね」
ここぞとばかりに博美が質問を重ねる。
「うふふふ。 そうなのよー ねえ、なんでこーんな男に引っかかったのかしら」
薄っすらと頬を染めて桜井が答えた。
「わー いいなー やっぱり大人だと結婚まで考えるんですか?」
博美は興味深々だ。
「そうねー やっぱり考えるわね。 ねえ、井上さん」
二人の話を恐々として聞いていた井上に桜井が突然話を振った。
「えっ、ま・まあそうだね。 その内にね」
困ったように答えると、井上はいつものチェアーの方に歩いていった。
ピクニックテーブルを挟んで、博美と井上が向き合っている。
「という訳で、井上さんに出す風の情報がめちゃくちゃ多くなるんです」
博美が堤防の上で調べた気流の様子を説明した。
「うーん、それだけ変化するとなると…… 俺の脳みその情報処理が間に合わなくなるな」
井上もそれを聞いて思案顔だ。
「それで、思いついたんですけど」
話しながら立ち上がると、博美は井上の後ろに回り
「すみません、井上さん立って」
立った井上のシャツの後ろを摘んだ。
「こうしてシャツを引っ張るんです」
言いながら摘んだシャツを上下左右に引っ張る。
「おっ! なるほど、これなら方向が直接感じられるな」
背中に感じるシャツの動きはまるで風が直接肌に方向を教えてくれるようだ。
「どうです? いいでしょ♪ あとは言葉で補助すればかんぺきっ!」
博美は「どや」顔だ。もっとも後ろに立っているので井上には分からなかったようだが。
出番が近づき、井上と博美はエンジン始動ピットに居た。完全に準備の出来たビーナスの後ろで加藤が機体を支えている。
「しかし、博美。 なんでスカートなんだ? 何時もはジーンズなのに」
座っている加藤は目の前でひらひらする柔らかい布を見て言った。それは今にも捲くれ上がり、博美の大事な所を衆人の目に晒しそうだ。
「手術の痕が触ると痛いから仕方が無いじゃない。 押さえてるからそんなに捲くれないよ」
片手でスカートを押さえながら博美が言う。
「それに座って見てるのは康煕君だけだよ。 すけべ!」
「ばっか。 そんなもの俺が見たがるとでも思ってるのか? 目が腐る」
「ひどーい。 そんなこと言うなら、康煕君だけには絶対見せないんだからね」
「馬鹿! 他人にも見せるな!」
久しぶりに会ったにも関わらず、相変わらず痴話げんかの二人である……




