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空の妖精  作者: 道豚
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お母さんの馬鹿!


 秋本家のダイニングに醤油の焼けた良い匂いが漂ってくる。明美がキッチンから運んでくるのは鰤の照り焼きだ。

「お母さん、これも運ぶんだよね?」

 光がいくつかの小皿をお盆に載せながら聞いた。

「ええ、運んで頂戴」

 照り焼きの皿をテーブルに並べながら明美が答える。

「はい、持って来たよ。 あとはお味噌汁だよね?」

 何故か今日は光が積極的にお手伝いをしているようだ。

「ねえ、僕の手伝う事は無いの?」

 テーブルの傍に立っている博美が聞く。何時もは明美に手伝わされるのに、昨日から何もさせてもらえないのだ。

「あなたはいいの。 座って待ってなさい」

 ご飯をつぎながら明美が答える。

「えー 暇だなー」

「お姉ちゃんは病み上がりでしょ。 それに自分は食べられないんだから」

 光がご飯をついだ茶碗を明美から受け取りながら言った。

「そうだけどさ……」

 しぶしぶ、博美が自分の定位置に座る。明美と光の前には美味しそうな夕飯が並んでいるが、博美の前にはビールの中ジョッキが置かれているだけだ。中には紫色のドロッとした液体が入っている。

「さっ、いただきましょう」

「いただきまーす」

 明美の合図で博美と光が手を合わせる。明美が味噌汁の椀を持ち、光が早速ご飯を口に運ぶのを横目に見ながら、博美はジョッキの中身を少し口に含んだ。

「ねえねえ、お姉ちゃん。 それってどんな味? 美味しくないの?」

 あまり嬉しそうな顔をしない博美を見て光が尋ねる。

「甘いよ。 これはグレープ風味かな?」

「だったら何で嫌そうなの?」

「もう飽きちゃったよ。 いいなー 光はご飯が食べられて」

 最初は美味しいと思った流動食も、流石に三日目ともなると飽きてしまい、味気なく感じるようだ。




 それでもどうやらジョッキ一杯を飲み干した博美は後片付けもさせてもらえず、ソファーに座った。することも無く、テレビのリモコンに手を伸ばしたところでふと思い出した。

「(そうだ! 井上さんって如何だったんだろ)」

 早めに夕食を取ったので、まだ六時前だ。

「(多分終わってるよね。 でもまだだったらいけないから康煕君に聞いてみよっ)」

 携帯電話を取ると、ぽちぽちメールを書く。

{康煕君、もう今日の競技は終わった? 井上さんは如何だった?}

 メールを送信して博美が改めてテレビをつけると、丁度天気予報をしていた。

「(明日は低気圧が近づくんだー 風が吹くなー)」

 テレビに映る気圧配置を見て、博美がぼんやり考えているとメールの着信音がした。

「(康煕君だ! 早いなー)」

 いそいそとメールを開く。

{やばい。 2ラウンド目にサーマルに蹴られて大幅減点。 現在5位で3位と45点差。 明日高得点で無いと予選を通れない}

「(えっ! そんな……)」

 博美の手から携帯電話が滑り落ち、フローリングに当たって硬い音を立てた。




「だからー 僕が行かないとダメなんだってばー」

「あのね、あなたは病み上がりなの。 退院したばかりで食事も満足に出来ないの。 行ける訳無いでしょう」

 彼是かれこれ30分も博美と明美が言い合っている。博美は明日の予選第3ラウンドで助手をしたいと言い、明美は退院したばかりで体力も無いのに行くなんてとんでもないと言う。

「もー お母さんの馬鹿!」

 とうとう博美は怒って二階の部屋に行ってしまった。

「はあ~~ どうしてあの子はあんなに分からずやなんでしょ……」

 明美がぐったりと机にもたれた。

「お姉ちゃんの言う事も分かるよ。 あんなに練習したのに何も出来ないなんて悔しいよね」

 黙って二人の口論を聞いていた光がソファーから言う。

「それはお母さんにも分かるのよ。 でもね、満足に食べてないのよ、絶対倒れるわ」

 机に上半身を乗せたまま光を見て明美が答えた。

「もう…… 如何したら良いのかしら……(こんな時にお父さんが居てくれたら良いのに……)」

 何処まで我侭を聞くべきか明美は迷っていた。




「お母さんの馬鹿、馬鹿、ばかー」

 部屋の中で博美は枕を殴りつけている。とばっちりを受けた枕はとうにぺしゃんこだ。

「(僕が居ればサーマルなんかに邪魔されたりしなかったのに…… 明日は風が吹くんだから、高得点を取るなんて、簡単じゃないよ)」

 枕を殴るのを止め、博美はベッドに寝転がった。じんわりと涙が瞳を濡らす。

「(せっかくのチャンスなのに、井上さんかわいそう……)」

 今年は珍しく予選の日が非番になったと言った井上の言葉を博美は思い出していた。

「(もう、お母さんに頼むのは止めよう。 始発のバスに乗って安岡さんのお店に行けばきっと飛行場まで乗せて行ってくれるよね。 帰りは井上さんの車があるから問題ない。 よっし、決めた)」

 タンスから下着とパジャマを出して、博美は部屋を出る。階段を降りて居間の前を通るときに

「シャワーを浴びるから」

 と言って風呂場に入った。




「んっ? 今博美が通ったわよね?」

 未だ居間で悩んでいた明美が光に聞いた。

「うん。 シャワー使うんだって」

 歌番組を見ていた光が答える。

「そう…… ちょっと早くない?」

 まだ7時を回ったところだ。

「ひょっとしてさー お姉ちゃん、早起きするつもりなんじゃない? だから早く寝ようとしてるのかも」

「それ当たりかもしれないわね。 決めたわ、そうと成れば私にも考えがある……」

 明美は小さく舌を出して唇を舐めた。

「お母さんを舐めるんじゃないわよ……」

 明美から漏れ出す黒いオーラに光は身をすくめた。




 翌朝、4時に博美は目覚ましの音で目を覚ました。日の出まではまだ1時間あり、外は真っ暗だ。音を立てないようにベッドから降りると、夕べ洗面から持ってきたタライの水で顔を洗った。そして寝る前に用意してあった服に着替える。飛行機を飛ばすときは何時もジーンズだが、今はドレンが当たると痛いので穿けず、ロングのスカートを用意してあった。

「(あとは、日焼け止め、サングラス、キャップ。 財布もいるよね。 あっ! パットも……)」

 博美はバッグに必要と思われる物を詰めると携帯電話を取り出して時間を見た。

「(4時半かー まだちょっと早いなー)」

 始発のバスは5時15分だ。バス停まで行く時間を考えても家を出るには早すぎる。

「(あっ! 朝と昼の流動食が要る)」

 飲み物はバス停前のコンビニで買うことが出来るが、流石に流動食は手に入らない。

「(仕方が無い、台所まで取りに行くかな)」

 そっとドアを開けると、博美は足音が立たないようにゆっくり台所に向かった。




 博美が一階に下りると、台所から灯りが漏れている。

「(あれー お母さん、灯りを消し忘れたのかな?)」

 特に深く考えず、博美は扉を開けた。

「あらー 博美。 いいところに来たわね。 ちょっと出汁巻き卵を見てくれない?」

 そこにはエプロンをつけて料理をする明美が居た。

「えっ! お、お母さん。 何してるの?」

「何って、見て分からないの? お弁当よ。 井上さんの手伝いに行くんでしょ。 あなたは流動食だからお弁当は要らないでしょうけど、私と光はお弁当が居るのよ。 さあ、早くして」

「うっ、うん」

 何がなんだか分からないながらも、博美は卵焼き用のフライパンを持った。

「ねえ、どういうことなの? お母さんは行くことに反対じゃないの?」

 夕べの言い合いを思うと、明美の行動は博美には理解できない。

「あなた、どうせコッソリ出て行くつもりだったでしょ。 あんなに言っても考えを曲げないなんてお父さんと一緒ね。 だからどうせ言ってもめないなら、お母さんも付いていって見張ってる方がマシかなって」

 明美が微笑みながらゆっくりと話す。

「そしたら光も見に行きたいんだって」

 明美は博美の顔を見つめた。

「ごめんなさい。 僕、どうしても井上さんに選手権に行ってほしいんだ。 だって井上さん、めったにないチャンスなんだから」

 博美も明美の顔を見て言った。

「分かるわ。 お母さんの負けよ…… っ博美、卵が焦げてる!」

 博美の握っているフライパンから芳ばしい香りが漂っていた。





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