予選前日
外来の診察の終わった待合室で博美は明美が帰ってくるのを待っている。木曜日の診察で若干の問題があったため退院が今日、金曜日に延びてしまったのだ。珍しくロングスカートをはいた博美は普段とは違っておしとやかな淑女に見える。
「ほんとだー 綺麗ねー やっぱりモデルさんって普段からきれいなのねー」
其処彼処で看護師たちが話しているのが聞こえて来て、博美は恥ずかしくてうつむき加減だ。それが博美をさらに綺麗に見せている。
「博美、お待たせ。 手続きは終わったわよ」
明美がやっと帰ってきて横に座ると、博美の顔を覗き込んだ。
「あんた、顔が赤いわよ。 熱があるんじゃない?」
「ううん、大丈夫だよ。 なんか周りから見られているみたいで恥ずかしくって……」
明美が帰ってきて安心したのか、博美はやっと顔を上げた。
「そう、ならいいわ。 それじゃ帰りましょう」
「うん。 やっと帰れるね」
博美は立ち上がり、お尻に敷いていたドーナツ形のクッションを手に持った。それを一回捻り腕に通す。まるでアクセサリーの様になった。
「あらっ! いいわねー とてもクッションには見えないわ」
明美が感心したように言った。
二人が明美の車の所まで来てみると、広川が居た。
「やあ、博美ちゃん。 無事退院できて良かったね。 それでね、診察のときに言ったように暫くは流動食な訳だが、それを持ってきたよ」
見ると段ボール箱を載せた台車が置いてある。
「火曜日の朝の分まで、十一食分だよ。 火曜日に診察に来てね。 その時に流動食を続けるかどうかを決めよう」
「分かりました。 これ意外と美味しいんですよね」
「それは良かった。 何種類か入れておいたから、飽きないと思うよ。 それじゃ車に積んであげるね」
リヤゲートを開け、広川が段ボール箱を載せた。
「それじゃ、気をつけて帰ってください。 博美ちゃん、あそこは清潔にしておいてね」
「はい、どうもありがとうございました」
助手席に博美を乗せて、明美は車をスタートさせた。
博美が明美と家に向かっていた頃、井上は安岡の飛行場で何時ものピクニックチェアに座って頭を抱えていた。明日から始まる選手権予選のために態々(わざわざ)休みを取って練習に来たのだが、最近は博美の能力に頼ったフライトばかりしていた為に以前のフライトがしっくりこないのだ。
「どうしたんだ? 今日はらしくない飛びだな。 あの娘が居ないと調子が出ないのか?」
午後になってやって来た真鍋が座っている井上を見下ろして言った。
「ああ、全然上手く行かない。 知らない間に博美ちゃんに「おんぶ」していたのかな?」
顔を上げることもせずに井上は答えた。
「別にいいじゃないか。 どうせ助手に付いてもらうんだろ」
真鍋には人事なので、井上の悩みなどどうでも良い。
「それがどうも来れないみたいなんですよ……」
「そうか、それでいきなり練習を始めたんだな。 いつもなら前日は練習しないのにな。 焦っているわけだ」
「真鍋さん…… 嬉しそうじゃない?」
何処と無く真鍋は嬉しそうに見える。
「おっ! そう見えるか? 悪いが強敵が減るのはウエルカムだ」
「ちぇ…… なーにがウエルカムだよ。 年寄りが英語なんか使うなよ」
「ふんふんふん♪ いやー 今日はいい日だ」
鼻歌を歌いながら真鍋は井上から離れていった。
予選は中国四国が一つのブロックになっているので、井上たちが練習している頃にはスタント機を積んだ県外ナンバーのワゴン車やワンボックス車が飛行場に集まりだしていた。その中に千葉ナンバーのハイエースが居る。
「成田さんは審査員だから分かりますが、こーんな田舎に俺が来る必要があるんですか?」
助手席に座っている若い男が運転席の男に話している。
「あるから連れて来たんだ。 本田、おまえはまだまだ経験を積む必要がある。 安岡は世界チャンピオンになった男だぜ、会っておくべきだ。 やつのロールは世界一だ」
「成田さんだって元チャンピオンじゃないですか。 成田さん以上の人が居るって思えないですね」
「ばかやろ! 世界は広いんだ。 俺なんかより凄い奴はいくらでも居る。 ここにも居るかもな」
「そんな人が居ますかねー」
本田は納得していないようだ。
「まあ、おまえも何時かは分かるさ。 さあ、挨拶でもしてくるか」
成田は飛行場をぶらつきながら、気さくに挨拶をしていく。本田もそれに付いて挨拶をしていた。
「よお、井上君。 久しぶりじゃないか。 去年は予選にも出なかったみたいだが、今年は出るんだな。 どうだい、本選に出られそうか?」
いまだ座ったままで動かない井上の前に成田はやって来た。
「お久しぶりです、成田さん。 どうやら予選には出られましたが、調子は悪いですね」
「おいおい、しっかりしてくれよ。 あの集中力をまた見せてくれ」
成田が大げさに驚いてみせる。
「成田さん、集中力って?」
横に居た本田が聞いてきた。
「おお、忘れてた。 この井上君はな、飛ばすときに物凄い集中力を発揮するんだ。 凄いぜ、周りの空気が変わるからな」
本田が横に居るのを成田は忘れていたようだ。
「へー 空気が変わる?」
いつもの法螺話だと思って本田は信用してないようだ。
「本田君だよね。 去年の日本選手権で5位になったから、今年はシードで予選免除だね」
出場しなかったとはいえ、井上も本田を知っている。
「すいません、挨拶が遅れました。 本田です」
本田が慌てて挨拶をした。
「これはどうも、井上です。 君は有名だからよく知っているよ。 今日はなんで此処に?」
「いやー こいつはどうも「井の中の蛙」っぽい所があるんでな、ちょっと世間を見せてやろうかと」
井上の疑問に成田が横から答える。
「……ちぇっ……」
それを聞いて本田が小さく舌打ちをした。
「シード選手がこんな田舎の予選を見ても得るところなんて無いでしょう」
井上も成田の言葉を不思議に思った。
「いーや、どんな小さな事でも取り込む貪欲さがチャンピオンに成るためには必要なんだ。 それを知って欲しいな」
成田が二人に向かって言った。
「(貪欲に取り込む……か、博美ちゃんがまさにそうだな。 彼女は空を飛ぶ物全てから知識を得るからな)」
井上は博美の事を考えていた。
博美と明美は一度高専の寮に寄り、博美の洗濯物や携帯電話、若干の教科書を持って家に帰ってきた。
「ただいまー っあ、光はまだ帰ってないのかー」
誰も居ない家に向かって帰宅の挨拶をして、博美はちょっと「バツ」が悪く感じた。
「別に誰も居なくたっていいのよ。 挨拶は大きな声でね。 それにお父さんは居るかもね」
後から来た明美が笑いながら玄関を潜った。
「うん、そうだね。 お父さんに報告しよう」
博美は荷物をそのあたりに置くと、玄関を入ってすぐ横にある和室に入り、仏壇の前で手を合わせた。
「何を報告したの?」
居間に入ってきた博美に紅茶を出しながら明美が尋ねる。
「あそこを女の子にするってこと。 お父さんは僕が女の子だって知っていたんだから、反対はしないよね?」
「うん。 絶対賛成すると思うわ」
「よかった」
紅茶を飲みながら博美はふんわりと笑った。
成田はプロローグに出ていた日本チームの監督です。




