ドクヘリ発進
ヘリコプターって、乱暴な操縦をされると「酔う」んですよね。
工事現場にあるようなプレハブの事務所の中、ソファの上で井上は体を伸ばし目を閉じていた。眠っているのではない、意識は完全に起きていて、外の音を聞いている。
「(中途半端な風だ。 強いか弱いかはっきりしろってんだ……)」
西高東低の典型的な冬型の気圧配置により、北西風が10メートル程度吹いていて、この日は仕事があるか無いか微妙だった。
突然、天井に付けられている赤ランプが点灯する。同時にモニタースピーカーからホットラインの呼び出し音が鳴り始め、井上は呼び出し音を数え始めた。1・2・3・4まで数えるや否や飛び起きるとドアを開け外に飛び出していった。
向かう先には白地に赤のラインの入った小型のヘリコプター 「ユーロコプター製EC135」が停まっている。井上は周りの安全を確認して、エンジン始動用の外部電源のスイッチを入れ、座席に座りながらエンジンを始動する。始動前点検をチェックリストを見ながらなんてことはしない。朝一番で点検は終わっているし、もう何千回と行っている動作だ。1分ほどでエンジンは快調に回り始めた。
エンジン始動と同時に回り始めたローターを潜る様にフライトスーツを着込んだ男女が乗り込んでくる。白衣を着ては居ないが医者と看護士だ。二人は乗り込むと医療機材の点検を始めた。
「山下、OKだ。 電源を外せ」
何時の間にか機体に取り付いていた整備士の山下に井上が声を掛けた。山下は電源を機体から外し邪魔にならない所まで運んで行くと、戻ってきて助手席に座る。
『ドクヘリ。 こちらCS』
運行管理から無線が入った。
「CS。 ドクヘリです。 感度良好」
すかさず井上がメモを用意しながら答える。
『ドクヘリ。 こちらCS。 要求先は南消防署。 ランデブーポイントは美郷中学校。 救急車呼び出しはみなみ6。 以上』
「CS。 了解」
井上はメモを整備士である山下に見せて、美郷中学校をGPSにセットさせると、エンジンをフライト位置まで加速した。
「全員、準備はいいか?」
井上の声に、乗り組んでいる全員がお互いにシートベルトをチェックする。
「CS。 離陸準備完了」
『ドクヘリ。 ヘリポートの風向きは300度。 風速18ノット。 突風成分4ノット』
「CS。 了解。 300度。 18ノット」
井上は計器をざっと見渡し、異常の無いことを確認すると、ピッチレバーを引き上げる。ホットラインが鳴ってから3分後、田中総合病院のヘリポートからドクターヘリ「JA135E」が機体を捩らせながら離陸した。
「ヒャホー♪」
「ワアァー」
「キャァー」
「ウォー」
ヘリコプターの中に一つの歓声と三つの悲鳴が響いた。歓声を上げたのは言わずと知れたパイロットの井上だ。
「井上さん、何て離陸をするんですか!」
横に座っている山下が非難めいた言葉を掛ける。
「みんな暗いんだよ。 さっきから俺一人しか喋ってないだろ。 緊張してるかも知れないが、そんなことじゃ現場で固まっちまうぞ」
「だからって、あんなことしなくても……」
「そーですよ。 事故でも起したらどうするんですか!」
うしろから看護士の桜井静香が負けじと大声を上げた。
「俺が事故を起すって?」
そう言うや否や、井上がスティックを前に倒す。EC135は前転するかのように大きく前に傾斜した。フロントウインドウからは地面しか見えない。
「…………」
井上を除く全員が声を失った。
「いけーー」
井上がピッチレバーをいっぱい上に引き上げる。667馬力を出すプラット・アンド・ホイットニーのターボシャフトエンジン二台が負荷に負けじと唸りを上げた。下手なパイロットがこれをやるとエンジンを止めてしまうかもしれない。しかし井上の操作は絶妙でエンジンは滑らかにトルクを最大に上げ、揚力を増やしたローターはEC135をロケットの様に加速させた。
離陸時に機体を捻ったお陰で、進行方向はすでに美郷中学校に向いている。井上が傾斜を戻したときには追い風に乗ってEC135は対地速度155ノット(約280Km/h)で飛行していた。
「俺はお前が生まれる前から飛んでいるんだ。 俺に意見するなんて100年早いんだよ」
井上が後にいる桜井に言った。
「でも……」
桜井がなにか言おうとしたが
「そんな事より、患者さんの情報を確かめるんじゃないのか?」
井上がこの話は終わりだという様に尋ねる。
「そうでした……」
桜井が反対側の席にいるドクターを見た。
「広川さん」
声を掛けるがドクターは返事をしない。
「ちょっと、広川先生。 起きてください!」
ドクターの広川啓二は気を失っていた……
ドクターヘリの運用の様子は、パイロットの方のブログ等を参考にさせて頂きました。
風速1ノット=約0.5m/s




