えっ、モデル?
「3・2・1・はいっ!」
「わっ!」
突然の掛け声と共に体が浮き上がる感覚に博美は声を上げた。
「博美ちゃん、やっと起きたねー」
直ぐ傍で広川の声がする。
「もう手術は終わったよ。 今ストレッチャーに移ったところだ」
「えっ! もう終わったんですか? すみません、僕寝てましたよね?」
「いや、別に謝ってもらう事はないよ。 しかしよく寝てたねー 局部麻酔のはずが全身麻酔と間違えたかと思ったよ」
ストレッチャーを押しつつ広川が笑いながら話をする。
「手術は上手くいったよ。 腸からの出血は完全に止まっているからね」
ストレッチャーはすぐに出口に着いた。既に扉は開けてあり、向こう側に別のストレッチャーが用意してある。
「さあ、もう一度移るよ」
広川と藤江、そして看護士が博美の体の下に手を差し込む。
「3・2・1・はいっ!」
さっきと同じ掛け声と共に博美は扉の外のストレッチャーに移った。
博美がストレッチャーの上に安定して寝たときには手術室の扉は閉められていた。博美は首を左右に向けて周りを見るが、何故か誰も居ない。
「(みんなどこに居るんだろ? なんか寂しい所だなー)」
五分も経っただろうか、博美が諦めて天井を見ているとドアの開く音がして誰かが入ってきた。
「ごめん、ごめん。 博美ちゃん、寂しかったね」
入ってきたのは手術中に着ていた服から何時もの白衣に着替えた広川だった。
「それじゃお母さんたちに入ってもらうね」
そう言うと広川は廊下に繋がるドアを開ける。博美がそちらを見ると明美と田中が見えた。
「おかあさん! 待っててくれたの?」
「当たり前じゃない。 大事な博美を置いて何処へも行かないわ」
明美がストレッチャーの横にやって来て、博美の頬を撫でながら言った。
「よく頑張ったわね。 何処も痛いところは無い?」
「うん、なんとも無いよ。 ちょっとあそこがつっぱった感じがしてるけど、痛くは無いよ」
「そう……良かった。 広川先生、ありがとうございました」
横に立っている広川に顔を向けて明美がお辞儀をした。
「いやいや、私のした事は大した事じゃ無いですよ。 それより藤江先生が上手でした」
「そう言えば藤江先生は?」
「彼は次の手術のために別の手術室に行きました」
「ええっ! そんなに続けて手術をするんですか?」
「そうなんですよ。 彼の内視鏡の技術はこの病院でピカイチなんです」
「あのう、先生」
博美が二人の会話に口を挟んだ。
「これから僕はどうすればいいんです?」
「ああ、説明をしてなかったね。 博美ちゃんはもう少しこの部屋で休んでいてね。 ここは手術後に体調が悪くならないかを確認するための部屋なんだ。 30分ほどして問題が無ければ病室に帰っていいよ。 今晩は看護師が頻繁にチェックに来るから、面倒かもしれないけれど我慢して。 明日の朝になれば点滴も外れて食事が出来るようになるはずだよ。 もっとも流動食だけど」
「それって美味しいんですか?」
博美は流動食という物が気になっている。
「そうだねー 野菜ジュースみたいな物だから、不味くはないと思う。 もっとも僕もあまり経験が無いけどね。 あっ、それとドレンにチューブを繋いであるから、これが外れるまではベッドから出ないように」
「えっ、チューブ?」
広川の言葉に博美は自分の足元を見た。 しかし胸から下は毛布が掛けられていて様子は分からない。
「ほら、これだよ」
広川が毛布を少し持ち上げて、博美の両足の間からチューブを見せた。チューブはストレッチャーの下のほうに繋がっているようだ。
「しばらくは膣内の膿や生理の血が出るから勝手に外さないようにね。 あと麻酔は2~3時間で切れるから、もし痛かったら看護師に鎮痛剤を貰って飲んで」
「分かりました」
博美と明美が返事をした。
「それじゃ、僕はこれで失礼するから。 何かあったら看護師に言って」
広川は部屋を出て行った。
「無事に終わったようですね。 私もホッとしました」
田中も部屋に入ってきた。
「田中先生もどうもありがとうございました。 お陰さまで無事終わりました」
明美が改めて御礼を言った。
「博美、田中先生がお母さんを元気付けてくれてたのよ。 喫茶室まで連れて行ってくれてね」
「そうなんだ。 先生、ありがとうございました。 でもお母さんって喫茶室に居たんだね。 いーなー。 僕も紅茶を飲みたかったなー」
「ごめんねー 飲めるようになったら連れて行ってあげるね」
「うん、絶対だよ。 ところで光は?」
「あっ! 忘れてた。 終わったら電話をするって言ってたのに」
そう言うと明美は部屋を飛び出していった。
「ふふ……」
「うふふ……」
博美と田中は顔を見合わせて笑っていた。
「えいっ! 動けっ!…… 動けったら……」
ベッドの上で博美が体に力を入れている。特に体調も悪くならなかったので、あの後すぐに病室に帰り、ベッドに寝たのだが
「あれっ! 脚が動かないよ。 なんで?」
ストレッチャーから移るときに自分で動けないことに気が付いたのだ。それを聞いた看護師が
「まだ麻酔が効いているからよ」
と教えてくれて
「自分で動かそうとしてると早く動くようになるわ」
そう言ったのだ。
「博美、そんなに慌てなくてもいいから。 ちょっとは落ち着きなさい」
ベッドサイドの椅子に腰掛けた明美があきれている。
「だって、悔しいじゃない。 それに寝てばかりじゃ退屈なんだもん」
「はあ…… また始まった。 あんたって、ちょっとは大人しくしてられないの? それにチューブがまだ取れないんだから、ベッドからは降りられないのよ」
「ちぇー、つまんないの。 何時になったらチューブが取れるのかなー」
「まっ、今晩中は無理かもね。 諦めて寝てなさい」
「つまんない・つまんない……」
諦めたようで、ぶつぶつ言いながらも博美は体を動かすのを止めた。
「そういえばお母さん、今晩はどうするの? やっぱり家に帰るんだよね」
「そうね、光のことも気になるから…… ねえ、やっぱり一人は寂しい?」
「ううん、大丈夫。 寂しくなんかないよ」
その言葉に虚勢を感じた明美は博美の頭を撫でながら言う。
「無理をしなくていいのよ。 あなたはまだ子供なんだから、もっと自分に正直で居なさい。 我慢しすぎると、手術を決めたときのように爆発しちゃうわ。 お母さんはあなたの我侭も受け止めてあげるから」
「うん。 お母さん、ありがと。 でも今晩は光のところに居てあげて。 きっと心配してるから」
「そお、あなたは優しい娘ね」
明美は頭を撫でていた手を離して博美に向かって微笑んでいた。
明美が家に帰って一人になり、博美はベッドの上にあるテレビを見ている。普段あまりテレビを見ないので芸人の騒ぐ番組の「のり」について行けずやや白けながら、それでも暇つぶしに眺めているのだ。
「秋本さん、検診です」
夜も遅くなった頃、病室の扉を開けて入ってきたのは、昼間師長と一緒に田中と話をしていた看護師だった。
「はい」
博美はテレビを止めて看護師を見た。看護師は少し顔が赤くなっているようだ。
「体温と血圧を測りますね」
看護師は体温計と血圧計を取り出すと体温計を博美に渡した。
「脇に挟んでください。 測っている間に血圧も測ります」
博美は胸を肌蹴て体温計を左の脇に挟む。看護師はそれを確かめると右腕で血圧を測りだした。
「えーっと、120の75ですね。 体温はどうですか?」
博美が脇の下から体温計を取り出した。
「36.3度です」
デジタルの数字を読む。
「はい、問題ありません。 特にどこか痛いところなんかは無いですか?」
「ええ、特にありません」
博美が答えるが、看護師はなにか言いたげに博美を見ている。
「あのー なにか?」
あんまり見つめられるので、博美が首をかしげた。
「秋本さん! 私ファンなんです。 サインしてください」
いきなり看護師が色紙とペンを差し出し、頭を下げる。
「え、え、えー な、なんで僕のサインなんて…… それにファンって……」
「秋本さん、今人気あるんですよー なのに情報が全然無くて…… 学生さんだったんですね」
「あのー なんで僕が人気なんです? それに情報って……」
「だって、綺麗なんですから。 この辺りでは一番じゃないですか?」
「そんな…… 綺麗な人はいっぱい居ますよ。 それにお姉さんとは初めて会ったわけで、僕のこと知らなかったはずでは?」
「とんでもない。 知ってましたよー ほら!」
看護師が例の情報誌を出してきた。
「ここに秋本さんの写真が載ってます」
美容院紹介のページを開いて博美に見せる。
「それにー ネットでも……」
話しながらスマートフォンを取り出し操作すると画面を見せた。
「(……病院では携帯電話は使っちゃいけなかったんじゃ……) ってこれ!」
そこには高専で出回った博美の写真が映っている。隣に居たはずの光は画像ソフトによってぼかされていて、博美だけが浮き上がっているようだ。
「綺麗ですねー これを見て私、ファンになっちゃいました」
看護師は博美をウットリとして見ている。
「お姉さん。 ファンだなんて、お姉さんは僕のこと何だと思ってるんですか?」
「えっ! モデルに決まってるじゃないですか」
「え!ーーー モデル!ーーー」
博美の声が夜の病棟に響いた……




