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空の妖精  作者: 道豚
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洋子お嬢さん


 博美が手術台に固定されていた頃、明美と田中は手術室前の廊下に置いてあるベンチに座っていた。

「田中先生、手術って何時間ぐらい掛かるんでしょうね?」

 明美が「手術中」と点いている灯りを見ながら言う。

「私も専門外ですから、はっきりとした事は分かりませんが…… 長くても2時間ってところではないでしょうか」

 明美の声に不安な響きを感じた田中が出来るだけ普通の調子で答えた。

「はあっ…… そうですか…… 長く掛かりますね……」

 明美は大きなため息を吐くと、ベンチにもたれて目を閉じる。眠いわけではなく、不安な気持ちが口をついて出てくるのを我慢しているのだ。田中にはその気持ちが痛いほど分かる。

「そうだっ! 秋本さん。 良い事を思いつきました。 ちょっと待っていてください」

 田中は立ち上がると廊下を歩いていった。




 角を何度か曲がり、田中が来たのはナースステーションだった。

「すみません。 師長さんはいらっしゃいますか?」

 カウンターの中に居る看護師に田中が声を掛ける。

「はい、居ります。 少々お待ちください」

 その看護師は後ろのパーテーションの中に入って行き、すぐに年配の看護師を連れてきた。

「はい。 私が師長ですが、どの様なご用件で…… えっ! 洋子お嬢さん」

 出てきた婦長が田中を見て驚いている。

「まあまあ。 洋子お嬢さん、立派になって…… 今日はどうされました? ひょっとして此方に帰ってくださるとか……」

「師長さん。 その呼び方は止めてって言ってるでしょ。 私ももうすぐ30よ。 お嬢さんなんて年じゃないわ」

 田中が苦笑しながら口を挟む。

「それにまだまだ帰って来る気は無いわ」

「いいえ、私から見ればまだまだお若いですよ。 まだお帰りにはならないんですか。 院長先生も待って見えるのに」

「もう…… その話はいいの。 それより、院内PHSを借りられないかしら」

「洋子お嬢さんの希望なら、なんだって大丈夫ですよ。 PHSですか…… ねえ、予備はあったかしら?」

 師長が少し離れた所に居たさっきの看護師に聞いた。

「はい、あります。 何台必要ですか?」

「すみません。 一台でいいです」

 看護師はそれを聞いてロッカーからPHSを持ってくると師長に手渡した。

「ありがとう。 洋子お嬢さん、どうぞ」

 師長がそれを田中に渡す。

「ありがとうございます。 それで、お願いがあるんですが」

「なんでも仰ってください」

「いま第二手術室で行っている手術が終わったら……いえ、終わりそうになったらこのPHSに連絡していただきたいんです」

「第二手術室ですか…… ねえ、第二手術室って今何の手術してたかしら」

「えーと……これ言っても良いんですか?」

 ファイルを持って看護師が師長と田中を交互に見て尋ねた。

「大丈夫よ。 洋子お嬢さんは院長先生のお孫さんだから」

 師長が説明し

「大丈夫です。 内容は知ってますから」

 田中もそれを肯定する。

「いま行われているのは、腸と膣が繋がってしまった部分の分離、縫合と膣にドレンを繋ぐ手術です」

 それを聞いて看護師が師長に説明した。

「という事は患者さんは女性ですね」

「そうです。 可愛いんですよー たしかモデルさんじゃないですか?」

「これ! 患者さんの個人情報に興味を持つものじゃありません!」

 師長が看護師を叱る。

「えっ! 彼女は学生ですよ。 モデルなんてしてないはずですが」

 看護師の言った言葉に田中が違和感を持った。

「でも、これ……」

 看護師がカウンターの下から情報誌を取り出し、ページを捲る。

「ここに写真が……」

 渡された情報誌にある美容院紹介のページを田中が見ると、確かに博美の写真が載っている。少し派手な化粧をしてカメラに向かって微笑む博美は、まごかたなくモデルだ。

「あら。 何時の間にこんな事してたのかしら?」

「綺麗ですよねー 一目で判っちゃいました。 彼女、最近人気なんですよ。 でも誰なのか情報が無かったんです。 学生だったんですねー」

「なんにしても、患者さんの個人情報です。 他言無用ですよ。 特に外で話すことは厳禁です」

 師長がしっかり釘を刺す。

「はい、分かってます」

 看護師は真顔で首を縦に振った。




 田中がナースステーションから手術室前まで戻ると、明美は少し離れた所に置いてある公衆電話で小さな声で電話をしていた。

『今、始まったばかりよ…… ううん、ぜーんぜん緊張してなかったわ…… 分からないから、しっかり戸締りして大人しくしているのよ…… うんうん、電話するから。 それじゃね』

 電話を切ると、明美は田中を見た。

「どなたでした?」

 田中が尋ねる。

「下のが気になるらしくて電話をしてきたんです」

「そう言えば妹さんがいましたね。 一人で寂しいんですね」

「それもあるんでしょうが、やっぱり心配なんだと思います……」

 話しながら明美の顔が暗くなってきた。

「大丈夫ですよ。 広川先生はベテランですし、藤江先生も若いですが腕は確かです。 それでです、いい物を借りてきたんです」

 田中がPHSを見せた。

「手術が終わる頃に連絡をもらえます。 だから此処で待って無くてもいいんです。 此処では気持ちが暗くなるので何処か明るい所に行きましょう」

 頷く明美を連れて、田中は廊下を歩いていった。




 廊下でのやり取りなど知らず、博美は手術台の上で睡魔と闘っていた。麻酔が効いていて痛みを感じず、また動けないので退屈なのだ。広川も時々看護師に指示を出すだけで、それ以外は無言で作業をしている。

「よし。 上手くいったな」

 手術開始から30分ほどたって、広川がやっと口を開いた。

「博美ちゃん。 何処も痛いところは無いかい? ドレンの取り付けは終わったよ」

「あっ! べ・別になんとも無いです。 なんだかあそこがつっぱてる様ですけど」

 うつらうつらしていたせいで、いきなり声を掛けられ驚いたように博美が答える。

「なんだい、寝てたのか? 随分図太い神経をしてるんだね。 つっぱった様に感じるのは我慢してね。 やっぱり異物を付けた訳だから」

「ええ、大丈夫です」

「さあ、それじゃ腸に出来た裂け目を縫うよ。 横向けに寝てもらえるかな」

 話しながら広川が下半身を固定していたベルトを外し、看護師と藤江と共に博美を横向けにした。

「この状態でまた固定するね。 きつい姿勢かもしれないけれど我慢できるかな?」

 枕の位置を合わせながら広川が尋ねる。

「はい、我慢できる程度です」

「(わー、手術室ってこんなになってるんだ。 へー 割とごちゃごちゃしてるんだ)」

 横を向いたことにより手術室の様子が良く見えるようになり、博美はのん気な事を考えていた。

「それでは始めます」

 藤江の声がしたと思うと、お尻が圧迫されるような変な感覚が博美を襲った。

「ひっ!」

 変な声が口をついて出てしまう。

「大丈夫だから、最初はちょっと変な感じがするかもしれないけれど、直ぐに慣れるよ」

 藤江が落ち着いた声で博美に言う。

「は・はい……」

 博美は手を「ギュ」と握り、目をつむった。




 藤江はモニターを見ながら次々と処置具を取り替え、ダイヤルを回して内視鏡を操る。見る見るうちに膣の内側を縫合し、腸との癒着を剥がすと膣の外側を縫った。

「(凄い奴だ……内視鏡をここまで操るなんて……)」

 広川は邪魔にならない位置でモニターを見ながら感心している。

「(しかし、博美ちゃんも大したもんだ。 結局寝ちゃってるよ。 どれだけ図太い神経をしてるのか。 ふむ……将来大物になるかもね)」

 小さなカーテンの向こう側を覗いて広川はあきれていた。




 1時間ほどで藤江は全ての縫合を終えた。

「広川先生、後は確認するだけです」

「よし、分かった。 それじゃ外に連絡してくれるかい」

 広川が看護師に指示をした。

「はい」

 看護師は返事をすると

『ナースステーション。 第二手術室は間もなく手術終了します』

 インカムで連絡をした。




 手に持ったPHSが振動を始めたのに田中が気が付いた。すぐに通話ボタンを押してPHSを耳に当てる。

「はい、田中です…… はい、もう直ぐ終わりますか。 ありがとうございます」

 既に明美は立ち上がっている。

「秋本さん。 手術が終わるそうです。 行きましょう」

 テーブルの上のコーヒーカップの中は既に空っぽだ。二人はレジで代金を支払うと喫茶室を出て、急ぎ足で手術室に向かった。





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