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空の妖精  作者: 道豚
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妖精が飛んでる


 大勢のギャラリーが見つめる中、離陸した「ミネルバⅡ」がデッドパスをした。

 これまでと同じ様に近めの距離を飛ぶ「ミネルバⅡ」は、まるで空中にレールが敷かれているかのように小揺るぎもせず真っ直ぐ飛んでいく。

 風下サイドに近づいた時「ミネルバⅡ」はおもむろに1/2ロールをして背面飛行になった。そしてそのまま昇降舵エレベーターを押して(下げ舵にして)1/2インバーテッドループを描き、高い高度の水平飛行でセンターに向かって飛行を始めた。

「……あ、あんな方法があったんだ……」

「……これまでの選手はみんなインメルマンだったよな……」

「……あの方法ならインメルマンみたいに速度の落ちた所でロールをしなくていい訳だな……」

「……見ろよ……修正が少ないから飛びが滑らかだぜ……」

「……バカ……妖精だぜ。 ハナっから飛びはなめらかだっちゅーの……」

     ・

     ・

     ・

 下向きに始める最初の演技のためには出来るだけゆっくり飛びたい、しかしループ後にロールをするインメルマンターンではそこまで速度を落とせない。

 なぜならロールをする為には……ふらついてコースがズレるのを避けるには……ある程度の速度が必要なのだ。

 その点、博美の方法だと最初にロールをしているので上空では、ただ真っ直ぐ飛ぶ様に方向舵ラダーを修正すれば良いのだ。

 もちろん博美はインメルマンターンでも十分綺麗な演技の進入が出来る。

 それでも、より綺麗にできる方法があれば、それを使うのは当然だろう。




「……センター……」

 加藤の声と同時に博美はエレベータースティックを押し、「ミネルバⅡ」は下向きに「インバーテッド ループ」を始めた。

 スロットルは閉じられているので、エンジンはトルクを出していない。風が弱いこともあり、ラダーの事は気にせず博美は丸く宙返りするようにエレベーターの操作量を調整する。

 60度回り、機首が下向き30度になった時、博美は補助翼エルロンを少し右に切った。

 八角ほすみより高い高度から演技を始めたのでループの半径は大きい。ロール開始を遅くしないと間延びしたようになって演技が締まらなくなるのだ。

 「ミネルバⅡ」はロールをしながらループを続け、最下点を通過するときは主翼が水平だった。

 此処からは上昇することになる。

 博美はエルロンスティックを倒したままスロットルを開き始めた。

 エンジンがトルクを出し始め、機体が捻れそうになる。

 それを博美はラダーで修正する。

 ラダーを使うということはロール速度に影響が出る。

 博美は一定の速度で回転するようにエルロンの操作量を加減する。

 つまり4方向……右手の上下左右と左手の上下左右……全ての方向にスティックは動かされ、調整されていた。

 博美の的確な操作により「ミネルバⅡ」は仮想垂直面にコンパスで描いたようにループをしていた。

 二周目のループも完璧にこなすと「ミネルバⅡ」は背面飛行で演技を終えた。




 「アスリートBP」をエンジン始動ピットに置いて、本田はいつものように目を閉じて座っていた。

「(……静かだ……エンジン音しか聞こえない……)」

 「ミネルバⅡ」がデッドパスを飛んでいるときはギャラリーの話す声が聞こえていた。ところがその後、演技が始まっただろうに……エンジン音で何となく分かる……誰も声を出さない。

 出場の前には雑念を捨てて集中したいのに、本田は飛行場の静けさに逆に集中出来ないでいた。

「(……どうなってるんだ……ん? 今は「3/4スローロール オポジットディレクション」か?……)」

 ロール系の演技だろう、比較的高回転で回るエンジン音が右から左に通り過ぎていく。

「……ほぅ……」

 ギャラリーの零す感嘆の吐息が小さく聞こえてきた。

「(……どうなってる……見たい……しかし、見るとヤバイ気がする……)」

 左の方でエンジン音が大きくなる。

「(……フィギュア9だな……)」

 エンジン音の位置が段々高くなるのは垂直上昇しているからだろう。数字の9の縦棒を飛んでいるはずだ。

 やがてエンジン音が小さくなった。

「……ほぅ……」

 再びギャラリーの吐息だ。

「……ぁ……ああ……」

 知らずしらず、本田は目を開けていた。




「(……アワーグラス……)」

 開いた目に映ったのは、今まさに本田の選んだ演技を始める「ミネルバⅡ」だった。

 中間高度を背面飛行してきた「ミネルバⅡ」はセンターで機首を上げ45度で上昇する。

 上の高度の手前まで上昇すると135度のインバーテッドループをして、ちょうど上の高度で水平飛行になった。

 センターを通り過ぎ、さっきのループと対称の位置で再び135度のインバーテッドループ。45度での背面降下姿勢になる。

 文章にすると簡単だが、実際には上昇した後の大角度ループと下向けに始めるループの半径を同じにするのは至難の技だ。

 センターを通過するときに1/2回転のロールをして下の高度の近くまで降下すると、又々ダウンを打って135度インバーテッドループ。

 低い高度で背面水平飛行をして、センターに対称な位置で四度目の135度インバーテッドループ。

 結局、4回の135度のインバーテッドループを、それぞれ違う条件で行う事になる。そして、先ほども書いたが、条件の違っているすべてのループの半径を揃えるのは神業のような物なのだ。

「……ほぅ……」

 本田の口からも吐息が漏れた。

 中間高度の水平飛行に移るループの半径さえ、博美の演技は揃っていたのだった。




 朝から同じ場所に座って、審査員の遠藤は博美の演技に点を付けていた。

「(……ふぅ……コース良し、回転角度良し……)」

 演技は進み「2ターン スピン」が今終わった。

「(……減点無し……って……おい、また10点だぜ……)」

 どうもさっきから10点以外の数字を遠藤は書いた記憶が無い。

「(……だよな……)」

 気になった遠藤はジャッジペーパーを……本当なら飛行機から目を離すのはいけないのだが……頭から見直した。

「(……間違いない……オール10点だ……た、確かに「ノウン」よりは簡単だが……)」

 選手が自分達で決める「アンノウン」は……ぶっつけ本番でも飛ばせるように……「ノウン」よりも簡単なマニューバが選ばれる傾向にある。

「(……それでも、ぶっつけ本番だろ……なんでオール10点になるんだ!……)」

「ローリングサークル 2ターン 1ロール 内回り 背面スタート」

 自分の付けた点に驚く遠藤に、助手をしている男の声が聞こえてきた。

 これがこの「アンノウン」では一番難しい演技だ。遠藤は改めて「ミネルバⅡ」を見つめた。




「……センター……」

 加藤の合図と同時に博美はラダースティックを左に半分ほど、エルロンスティックは僅かに右に倒す。

 「ミネルバⅡ」は右にゆっくりロールをしながら右に……背面飛行なのでラダー左で右に曲がる……旋回を始めた。

 90度旋回で45度のロールなので、ロール速度は遅い。

 最初のうちはノーバンク旋回のようだが、それでも少しづつ傾斜は大きくなる。

 揚力の垂直成分が減るにつれ機体が下がろうとするので、傾斜に合わせて博美はエレベータースティックを押していく。

 エレベーターを使うと、揚力の水平成分が向心力を発生する。それに合わせてラダー量は減らしていく。

 バンクが45度を越える頃にはラダースティックはニュートラルを過ぎて、逆に右に倒す事になる。

 この辺りを過ぎると、もうエレベーターが旋回をつかさどり、ラダーは機体が下を向かないように機首を持ち上げる仕事をする事になるのだ。

 旋回を続け、向こう側に行った時には「ミネルバⅡ」は完全に主翼を垂直にしていた。




「(……凄い……綺麗だ……)」

 ポカンと口を開けたまま本田は博美のロールングサークルを見ていた。

「(……妖精だ……妖精が飛んでる……)」

 スロットルを無駄に開いていないのだろう、小さなエンジン音をたてて……まるでスキャットを歌うように……「ミネルバⅡ」は軽やかにロールをしながら旋回を続けている。

 翼の幅が小さく塊り感のある複葉機と違って、単葉機の「ミネルバⅡ」は翼の幅が大きく、見た目も優雅で軽やかだ。その事が、より儚げな妖精を思わせる。

「(……っく!……俺は、何を見とれてたんだ……)」

 「ミネルバⅡ」が2回の旋回を終えて背面飛行でセンターを通過したとき、さっきまでの妖精は消え、本田が我に返った。

「(……見ない! もう俺は見ないぞ!……)」

 後ろ髪を引かれながらも本田は後ろを向き、強引に目を閉じ耳を塞いだ。

「(……ダメかな……ダメかもしれない……)」

 それなのに閉じた目の中で「ミネルバⅡ」が華麗に演技を決める。

「((……くそ! くそー ……何で俺は見てしまったんだ……)」

 いつの間にか本田は項垂れていた。




「フィギュアZ ウイズ 4ポイントロール アップ」

「……ん……」

 加藤の告げる演技に博美は頷いた。これが博美にとって今年の日本選手権での最後の演技だ。

「……センター……」

 加藤のコールを聞きながら博美は「ミネルバⅡ」を水平飛行させる。

 この演技はセンターを通り過ぎてから始まるのだ。もっとも審査員はすでに採点を始めている。

「(……もう少し……もう少し……今!……)」

 三人の博美のうち、俯瞰で見ている分身が合図をする。

「(……ん!……)」

 送信機を持つ博美がそれに答え、エレベータースティックを引いた。機首が上がるにつれ、スロットルを開いていく。エンジンがトルクを出すことにより、機体には宙返りを捻るように力が働く。

「(……ラダー右だよ……)」

 宙返りがねじれない様に「ミネルバⅡ」に乗った分身が教えてきた。博美は左のスティックを手前に引いたまま右に僅かに倒す。

 「ミネルバⅡ」は135度の綺麗な丸を描いて、背面姿勢で45度の上昇を始めた。





 ポーズを見せると4ポイントロール(90度ごとにポーズをしながら360度ロールする)をする。

 45度で上昇しながらそんなマニューバを行うため、抵抗を受けて「ミネルバⅡ」は速度が落ちてきた。

 博美はスロットルを開く。それに答えYU180Gはパワーを出す。

 4ポイントロールを終えると再びポーズの後、博美はエレベータースティックを押して「インバーテッドループ」をする。

 速度を失った飛行機にとって、このループは失速を招きかねないほどの大技といえる。

 しかし森山の調整したプロペラは、効率良くエンジンのパワーを推力に変えることで「ミネルバⅡ」を軽々と持ち上げた。




 全ての演技が終わり「ミネルバⅡ」が最終着陸態勢に入った時、エンジンが止まった。

「(……あは、止まっちゃった……予想より使っちゃたのかな……)」

 さっきまでの緊張から開放された博美が「ぺろっ」と舌を出す。

 実は、やや重い「ミネルバⅡ」を風の弱い状況で飛ばすに当たって、博美は燃料を満タンにせず少なめに入れていた。

 「ミネルバⅡ」は満タンにすると600cc程も燃料が入ってしまう。ところが競技を終えても、何時も3~4割程度残っているのだ。これだけで200グラムくらい余分な重量を積んでいる事になる。そこで博美は400ccだけ燃料を入れて演技したのだ。しかしどうやら緊張していた所為で、少々スロットルを開け気味にしていたようだ。もっとも、此処まで来たらエンジンは止まっても減点はされず問題は無い。

 この方法は……博美の知らない事ではあったが……安岡が現役の頃によく使っていた。彼は世界選手権で「必ずエンジンを止めて着陸する男」と言われたものだった。

 そのまま「ミネルバⅡ」は綺麗に着陸して、森山が回収に走っていく。

「……さ、戻ろうか」

 それを見ながら加藤が博美の肩を叩いた。

「うん……あれ?……」

 返事をして歩き出そうとした博美がそのまま座り込んでしまった。

「おいおい、何やってんだ……」

 加藤が博美の腕を掴んで支える。

「……ち、力が入らなくなっちゃった……」

「……はぁ……またかよ。 ほれ……」

 加藤の右腕が博美の膝の裏に当てられ、左腕が背中を支えた。

 つまり、久しぶりに「お姫様抱っこ」で博美は審査員の前から帰ることになったのだった。




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