日本一の飛行機だった
「……凄い……凄い接戦だぜ……」
「……妖精が1635点……本田が1638点……」
「……辛うじて本田が制したか……」
「……これって本当か? 俺は妖精ちゃんの方が良かったように思うんだが……」
「……風じゃないか? 本田の演技のときは風が落ち着いたよな……」
「……本田にとってはラッキーだったってことか……」
・
・
・
「本当にラッキーだったな」
今は第3ラウンドと第4ラウンドの間の休憩で、本田と遠藤はピットに座っていた。
そして二人には本部テント前に集まって、勝手なことを言い合っている声が聞こえていた。
「ええ……俺もそう思います。 これで次に妖精がトップを取らなければ俺の勝ちです」
本田は次のフライト……アンノウン……の演技を確認するために小さな模型を手に持っている。
「いや、トップは譲ってもいいぜ。 2点差以内ならな……」
「……それって、殆ど同点じゃないですか……」
脱力した本田がチェアーの背もたれに上体を預けた。
「惜しかったな。 3点差か……」
「ビーナス」の準備をしている井上が横に立ってる博美を見上げた。
第4ラウンド、二回目のアンノウンも井上がトップバッターなので、目慣らしが終わればすぐに出番となる。
「そうですね。 流石は本田さんです」
「ああ……流石だな。 でもよ、本田が博美ちゃんの上に行ったのはノウンだけだぜ。 次はアンノウンだ。 博美ちゃんが勝つさ。 ぃよっと……」
井上はアンダーカバーを取り付け、裏返しだった「ビーナス」を表に向けた。
「……それは分かりません。 簡単には勝てないですよ……」
博美の視線の先には模型で演技を確かめている本田が居た。
予選10位の藤井による目慣らし飛行の後、井上の演技が始まった。
最初の演技が変則的に高い高度の水平飛行から始まるので、井上はデッドパス後インメルマンターンを使って高度を取り「ビーナス」をセンターに向かわせた。
高度を上げるために開いていたスロットルが閉じられ、ゆっくりと「ビーナス」は近づいてくる。
下向きに演技を始めるため、十分速度を落としておく必要があった。
「……はい、センター……」
助手として後ろに立っている静香の合図と共に「ビーナス」は下向きに「インバーテッドループ」を描き始めた。
第3ラウンドで吹いていた風も収まり、「ビーナス」は綺麗な円を描く。
最下点に差し掛かると1回転ロールをして、そのままインバーテッドループを続ける。
頂点を通過して再び最下点で、今度は1/2ロール。
昇降舵を引く通常のループに変わり、残りの1/2ループを描くと頂点で背面飛行に移った。
演技は進み、次は7番目の「6ポイントロール」だ。
これは井上の選んだ演技であり、60度ごとにポーズを見せながら360度ロールをする。
60度という中途半端な角度で機体を止める(ポーズを見せる)には、昇降舵と方向舵の微妙な操作が必要とされる。
「(……よし……)」
このような横に長い演技では、スタートの位置は経験の浅い静香では分からない。
井上は自らセンターとの距離を計りエルロンスティックを倒した。
「ローリングサークル 2ターン 1ロール 内回り」
風上サイドで「2ターン スピン」をした「ビーナス」が背面飛行に移ったとき、静香の声がした。
11番目の演技、博美の選んだローリングサークルだ。
「……ん!……」
井上が大きく頷く。
見た目は派手ではないが、アンノウンの中で一番の大技だ。その証拠に係数……ジャッジの付けた点に掛ける数字で、難しい演技ほど大きくなる……は7とトンでもない大きさだ。
つまり、一つのミスで7点……ジャッジ3人では21点……という大きな減点となる。
「……センター……」
静香の合図で井上はラダーを左に、エルロンを右に切った。当然2旋回で1ロールなのでエルロンを動かした量は僅かだ。
背面飛行の「ビーナス」は右にロールしながら右に曲がり始める。
90度旋回したところで45度ロールをするようにエルロンスティックを微調整しながら、ラダーとエレベーターは一定の半径で旋回するように、また高度が変化しないように調整しなければならない。
「(……くっ!……くそが……こうか?……ちくしょう……んっ!……あ、合わねえ……)」
必死になって井上はスティックを動かすが、「ビーナス」は旋回半径は安定せず高度も上下に変化する。
「(……だ、ダメだ……)」
奮闘も虚しく、2旋回目はナイフエッジサークルの様になってしまっていた。
2番目に演技をする予選7位の坂下の複葉機が離陸した頃、「ビーナス」を回収して加藤がピットに帰ってきた。
「井上さん、お疲れ様でした。 これで今年の選手権のフライトは終わりですね」
ピットに立っている井上の側の機体スタンドに「ビーナス」を乗せる。
井上は一足先に送信機ボックスを持って帰っていたのだ。
「……ああ……終わっちまった……」
井上が「ビーナス」に燃料ポンプからのパイプを繋いだ。
「……悔しいな……最後のアンノウン……」
ポンプを逆転させて機体から燃料を抜く。
「……毎回毎回……出場するたび悔しさが残るんだ……」
ポンプを回したまま、井上は工具箱からスプレー洗剤を取り出すと主翼に吹き付け、ウエスで拭きはじめた。
「……と言っても……満足した時が引退なのかもな。 この悔しさのお陰で、また練習を頑張れる」
井上は側に立ったままの加藤に向かって口角を上げた。
八角の「ボイジャー」がセンターに近づく。
「(……低い……)」
最初に行うのは八角が選んだ演技だ。博美は彼がどのように演技をするか見ようとしていた。
「ボイジャー」は大して高度を上げずに飛んでいる。
「(……大丈夫なのかな? あれじゃ小さくループしなくちゃ……)」
ループの半径が小さければ二つのループを揃え易くなる。しかし、途中で入れるロールが難しくなるはずだ。
「ボイジャー」がセンターで下向きに「インバーテッドループ」を始める。
電動である「ボイジャー」は大直径のプロペラのお陰で降下速度が随分と遅かった。
「(……えっ! あんな所から……)」
垂直を45度ほど通り過ぎたとき「ボイジャー」はロールを始めた。
ループをしながら比較的遅いロールレートで回り、センターを通過するときに主翼が丁度水平になる。
「(……そ、そうかー 短いチャイニーズループって考えれば良いんだ……)」
「チャイニーズループ」とはロールしながらループする、要するに「ローリングループ」の事だ。
つまりセンターの前後45度ずつ、計90度で1ロールの「ローリングループ」を「ボイジャー」はしたのだった。
「(……そうだったんだー……)」
「ボイジャー」は頂点を通り過ぎ、2回目のループに入った。
感嘆の吐息や失望の溜息の聞こえる中、特に事故も無く演技は淡々と進み、今フライトエリアでは青葉の複葉機が演技をしている。
成田が現役の頃からトップフライヤーだった青葉だが、成田の引退後もトップフライヤーであり続けていた。
エンジン始動ピットには鈴村の、これも複葉機が準備万端置いてある。
ことほど左様に、決勝に出ているスタント機は複葉機が多い。メイン、サブ、どちらも単葉機なのは井上と博美だけだった。
チームヤスオカのワンボックス車の脇に「ミネルバ」と「ミネルバⅡ」が並べて置いてある。
「……どっちを飛ばす?」
「ミネルバⅡ」の側に立って空を見ていた博美に加藤が近寄った。
「……ん……風は安定してる。 本当なら「ミネルバ」なんだろうけど……」
博美は目線を下げて「ミネルバⅡ」を見た。
「……ここは「ミネルバⅡ」を飛ばしたい……」
下げた視線を再び空に戻して博美は続ける。
「……この子は……お父さんを世界選手権に行かせてくれたんだ。 仕事で出られなくなっちゃったけど……あの時、日本一の飛行機だったんだ……」
博美は横に立っている加藤の顔を見た。
「……ううん……世界一だったかもしれない。 だから……それを皆に示したい。 日本チャンピオンに成るとき……世界チャンピオンに成るときには「ミネルバⅡ」を飛ばしたいんだ。 今日なれるとは限らないけどね……」
博美はしゃがんで「ミネルバⅡ」のキャノピーを撫でた。
「……最後のフライトだよ。 一緒に頑張ろうね……」
キャノピーの中で、博美に似せて新土居の作ったパイロット人形が、親指を立てていた。
排気音が聞こえ、エンジン始動ピットを取り囲んでいた人垣が割れた。
キャップを被りサングラスを掛けた、ジーンズにTシャツの博美がそこから現れる。
送信機を前に下げ、加藤を引き連れて急ぐこともなく博美はゆったりと歩き出した。
「ミネルバⅡ」は森山が滑走路に運んで行った。
審査員の前にある操縦ポイントに立つと、博美はスロットルを全開にする。
森山に抑えられた「ミネルバⅡ」からYU185Gの咆哮が響く。
博美はスロットルをアイドリングの位置に戻し、森山に向かって頷いた。
森山が「ミネルバⅡ」から手を離す。
加藤が博美の肩を「ぽん」っと叩く。
「(……ん……)」
頷いた博美は益々集中していく。
もう自分自身が3人に分離する感覚にも慣れている。
「テイクオフ!」
離陸の宣言と共に「ミネルバⅡ」は滑走を始めた。




