意外と苦手?
決勝の第2ラウンド、一回目のアンノウンの最後の演技者である本田の「アスリートBP」が「フィギュアM」の最初のストールターンをして、真下を向いている。
本田は自分に裏側を見せ垂直降下する機体を見ながら、方向舵を切るタイミングを計っていた。
「(……ここだ!……)」
(センターまでの距離)+(スタート時の高度)まで降下したとき、本田は方向舵を右に切り、スロットルを開けた。
「アスリートBP」は加速しながら機首を風上に向け、コースが変わっていく。
複葉機の利点である主翼に挟まれた胴体の発生する揚力……単葉機に比較して大きい……によって「アスリートBP」は横滑りも少なく、描くループは綺麗だ。
当然ラダーの反応も良く、本田はキッチリと制御していた。
「……凄い……」
森山の回収してきた「ミネルバ」を整備スタンドに載せ、チラチラと本田のフライトを窺っていた博美がポツリと呟いた。
「……そうだな。 あれを見ると……悔しいが、流石はチャンピオンだなって思えるな」
横に立っている加藤が博美にウエス(ぼろ切れ)を渡す。
「うん……まるで重力がなくなってるみたいだ……」
「……でもよ……あれって本田が慣れてるからだろ?」
加藤は「フィギュアM」の二回目のストールターンをする複葉機を見上げた。
「確かに「ミネルバ」はナイフエッジループの時に大きく滑るけど、ちゃんと重心は円を描いてたからな。 センターを外したのは痛いけど……それを除けばそんなに違わないと思う」
「そうでもないよ……多分、本田さんの方が減点が……そうだなー……2点は少ないんじゃないかなぁ」
立ち上がった博美が見ると、複葉機は最後の引き起こしをする所だった。
「ローリングサークル 2ロール 外回り」
操縦ポイントの本田に助手の遠藤が告げるが、本田は軽く頷くだけで「アスリートBP」を水平飛行させることに集中していた。
最初の演技のナイフエッジループを含むフィギュアMは何度もしたことのある演技なので、他の選手よりアドバンテージはあったが、それ以外は初めて……構成するマニューバは当然初めてでは無い……なので、特に有利というわけでは無いのだ。本田も慎重にならざるを得ない。
もっとも「ローリングサークル」はアンノウンで必ずと言っていいほど選ばれるので、本田もある程度は練習していた。
「センター!」
遠藤の声と同時に、本田はラダーを右、エルロンを左に切り、「アスリートBP」は左ロールをしながら右旋回を始めた。
「(……ん? 意外と苦手?)」
「ミネルバ」の片付けを終え、博美はチームヤスオカの車の横に立って本田の演技を見ている。
「(……ロール速度が変わるし、旋回もぎこちない……)」
本田も博美のようにポイントを決めてロールと旋回のリズムを合わそうとしているのだが、ロールが早すぎたり遅すぎたりと不安定なのだ。また旋回も背面状態と正面状態で旋回半径が違っているし、高度も上下している。
「……上手いなー……」
「……さすがは本田だな……」
「……減点できないんじゃないか……」
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しかし、飛行場の彼方此方では絶賛の声がしている。
「(……みんな気がつかないのかなぁ……) ねえ康煕くん、この演技ってどう思う?」
「んー 上手いんじゃないか? ただ、博美の演技に比べると……なんか滑らかさが足り無いか?」
流石に博美の演技を何時も見ている加藤である。何処が、とは言えないまでも違和感を持っているようだ。
「ん、ありがと。 僕だけが思ってる訳じゃないんだ」
加藤の顔を仰ぎ見た後、博美は本田の複葉機に視線を戻した。
「……諦めるな、粘れ……そんなに悪い出来じゃないぜ……」
目の前で奮戦する本田を遠藤が励ましている。
実際、本田はこういうロールしながらループや旋回をする演技を苦手としていた。
無理も無い。本田が小学生の頃のスタントの実質的な先生だった彼の父親には……当時としては当たり前なのだが……ロールという物は、いかに真っ直ぐに飛ばせるか、が重要だったのだ。
ロールしながら曲がるなんてもっての外。
そういう事を頭に叩き込まれた本田は、今になってもそれを抜け出せずにいた。
「……ようし、よく粘った。 肩の力を抜け、次はリバースインメルマンだ」
「アスリートBP」は無事にローリングサークルを終えた。
次は比較的簡単な演技だ。少しは休憩できるだろう。
もっとも……その次には博美の選んだ「ツーループス ウイズ 1ロール トップ ツー トップ」が待っている。
「(……ここで言っても、どうしようもない。 気になってインメルマンまで悪くなる……)」
遠藤は余計な事を言わない事に決めた。
リバースインメルマンターンを綺麗に決め「アスリートBP」はセンターに帰ってきた。
「ツーループス ウイズ 1ロール トップ ツー トップ」
遠藤が告げた。
本田の肩が「ピクリ」とする。
「センター!」
遠藤のコールと同時に本田は昇降舵を引き、スロットルを開き始めた。「アスリートBP」は本田の操作に答え、大きくループを描く。
頂点が近づく。
ロールを始めるタイミングを計っていた本田は……ほんの僅か……エレベーターへの操作を忘れた。
結果……「アスリートBP」は操作に忠実にループの頂点を平らに飛んだ。
一回目のアンノウンが終わり、例によって本部テントにはギャラリーが集まっていた。
「……おいおい……本田が1578点で秋本が1584点だぜ……」
「……妖精が本田の上に来たな……」
「……しかしよー なんちゅう接戦なんだ……」
「……これで、二人とも1000点を持つわけだろ。 順位はどうなるんだ?」
「……まだ分からないぜ。 今のところは本田が僅かにリードしてるが、あと2ラウンドある……」
「……今年の日本選手権は伝説になるだろうな……」
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「ちょっと多いなー ねえ康煕君、これ要らない?」
弁当から一切れのカツを箸で摘み、博美が尋ねている。
「ん? ああ、いいぜ。 貰おうか」
加藤が手に持った弁当を差し出した。
「仲が良いわねー」
そんな二人を見て静香が零した。その静香の手にも弁当がある。
今はお昼休みで、選手と助手には弁当が配られていた。
博美と加藤、井上と静香は揃ってチームヤスオカのタープの下で昼食を食べている。
「……少し風が出てきたね……」
影が揺れるのに気が付き、博美が陽光を遮るタープを見上げた。
それは風に揺れている。
「……そうだな……そんなに吹かないような予報だったのにな……」
加藤が左手に持ったスマホのスクリーンを指で擦る。
「……やっぱり予報は変わってないな……っと、でもないか?」
加藤の指が止まった。
「……局地的に積乱雲が出来てるようだ。 この風はその影響だろうな」
加藤の見てるページはXバンドレーダーの情報だ。これは気象衛星より精細な雲の様子が分かる。
「多分かなり変化する風だろう」
加藤はスマホを傍らに置いて弁当を持ち上げた。
決勝の第3ラウンドの演技は第1ラウンドと同じ「ノウン」プログラムだ。
ただ風が吹き出した所為で、ただでさえ難しかった演技が更に困難なものになっていた。
「……あぁー……」
鈴村が何か失敗をしたのだろう。ギャラリーのため息が飛行場を流れている。
しかし博美はいつものように椅子に座り目を閉じていた。
エンジン始動ピットには「ミネルバⅡ」が置いてある。不安定な風が吹き出したので「ミネルバ」から交換したのだ。
「……そろそろだぜ……」
横に立ってる加藤が言う。
「……ん……」
小さく答えると博美は目を開けた。
「かなり風が悪そうだぜ。 フィギュア9のローリングループがかなり捻れてた」
さっきの溜息の訳を加藤が説明する。
「……うん……そうだね。 上のほうで横向けの波が出来てる。 こんな風って滅多に無いよ」
博美は何時ものように背伸びの後に空を見た。
「バーティカル キューバンエイト」
「……ん……」
博美のノウンプログラムも中ほどに差し掛かっていた。
風下から「ミネルバⅡ」が水平飛行で近づいてくる。これから行う演技は、簡単に言えば縦に8の字を描く演技だ。
「……なあ……なんで妖精の飛ばす時って、風が落ち着くんだろうな……」
「……そう言えばそうだな……」
「……さっきのトップハットだって、コースの修正に使わなかったな……」
ギャラリーの話しているトップハットという演技は奥行き方向のコースのズレを修正できるのだ。
「……お前ら知らないのか? 魔法だぜ。 妖精にはお手の物だろうが……」
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ギャラリーの間で荒唐無稽な話がまかり通るほど「ミネルバⅡ」は風の影響を見せていなかった。
「センター!」
加藤の声に合わせ「ミネルバⅡ」が機首を上げてループを始める。
3/8ループをして背面で45度の上昇姿勢。ポーズを見せると4/8ポイントロール(45度ごとにポーズを見せながら180度ロール)して正面での45度上昇姿勢になる。
再びポーズを見せるとループ。
「(……あれ! 気流が安定してる……)」
高く上がった「ミネルバⅡ」の進行方向を見た博美は、演技前に見た横方向の波が消えているのに気がついた。
当然、ループは捻れない。博美は無駄な修正をせず、「ミネルバⅡ」は綺麗にループを描き45度の降下姿勢になった。
降下姿勢でポーズを見せ2/2ポイントロール(180度でポーズを見せ一回転ロール)。エレベータースティックを押して(スティックを押す=下げ舵)インバーテッドループ。
「ミネルバⅡ」は低い高度の背面飛行姿勢でこの演技を終え、風上サイドに向かった。
演技も終盤に差し掛かった。
「スプリットS」の演技を風上で行い「ミネルバⅡ」は低い高度の水平飛行でセンターに向かってくる。
次は「4ロール オポジットディレクションズ」だ。これは1回転ロールを回転方向を変えながら連続で4回する。
ロールとロールの間にポーズがあってはいけない。
「(……今!……)」
4回もロールをするのだ、センターのかなり手前から演技を始めなければならない。
「ミネルバⅡ」は右にロールを始める。
主翼が傾くにつれラダーを打って機首が下がるのを止める。背面姿勢に近づくにつれエレベーターをダウンにする。再び主翼が傾くとラダー。正面に戻った時には既に左にエルロンを切っている。
ロール1回転でおよそ1秒。その時間で左スティックは左右上下に揺り動かされることになる。
これを4回……
「ミネルバⅡ」は回転しながら飛ぶライフルの弾丸のように……回転することが当たり前のように……真っ直ぐに審査員の正面を飛び抜けた。




