初めてじゃないのか
鈴村の複葉機がアンノウンの「フィギュアM」に含まれている「下向きナイフエッジループ」を飛んでいる。
「(……うーーん……やっぱり後半に半径が小さくなるなー……あそこは難しいのかな?……)」
「ミネルバ」をエンジン始動ピットに置いて、博美は何時もの椅子に座り……何時もなら目を閉じているのだが……演技を見ていた。
これまで演技をした6人全て、ループの後半の機体が上を向く辺りでループ半径が小さくなっていた。予選順位が上位になっても殆どそこは変わらず、逆に井上の演技が一番良かった位だ。
「(……前半を出来るだけ小さく回して、後半は前半に合わせる様にすれば良いと思うんだけどな……)」
鈴村が次の演技に取り掛かったのを見て、博美は目を閉じた。
「(……ミネルバちゃん……付いてきてね……)」
頭の中で演技のシミュレートをする博美の両手はスティックを持つように動いていた。
操縦ポイントの直ぐ後ろに助手をしている若い男が立っていて、操縦ポイントにいる筈の「空の妖精」の姿は中央よりの審査員席からはチラリとしか見えない。
しかし審査員として経験の浅い遠藤は、見ようとすれば彼女を見ることの出来る一番端の席に座っていた。最も審査員席に座っている者としての責任がある。彼は余所見をせずに風下でターンしてセンターに向かってくる「ミネルバ」を見ていた。
「(……大きく見える……近くを飛んでるんだろう。 しかし、いつもながら素晴らしく真っ直ぐ飛ぶな……)」
風が弱いこともあり……ゆっくりと飛んでいるのに……「ミネルバ」はピクリとも翼を振らない。完璧な水平を保っているので……慣れていない者には……逆に向こう側に傾いているように錯覚をしそうだ。
「フィギュアM」
助手をしている男の声が小さく聞こえる。
センターの手前で「ミネルバ」が機首を上げ、垂直上昇を始めた。
「(……ん……良い位置で演技を始めたな……これならセンターに対称になるだろう……)」
遠藤は宙返りの半径を見て、それがセンターまでの距離と同じであることに気がついた。
「ミネルバ」は垂直上昇のポーズを見せると3/4ロールをして、さらに上昇する。
「(……まだだ……まだ減点は無い……)」
減点を数える遠藤の左手指は広げられたままだ。
エンジンの音が小さくなったと思った所で「ミネルバ」はストールターンをした。
「(……少し違ってるな……)」
ロール前後のポーズ中に上昇した距離が違っていた。
左手の小指が折畳まれた。
博美は裏側を見せて垂直降下をする「ミネルバ」を見てタイミングを計っていた。
足元から伸びているセンターラインと、今「ミネルバ」が降りているラインとの距離が「ナイフエッジループ」の半径になるのだ。その半径に水平飛行時の高度を足した高さが「ナイフエッジループ」を始める位置になる。問題は「ミネルバ」の反応の遅れが分からないことだ。
「(……ここかな……)」
そこで博美は少し早めに方向舵を右に切ることにした。
「ミネルバ」は機首を少し風上方向に向けた。しかし飛行コースは曲がらない。十分な向心力が胴体から発生しないのだ。
博美は「ナイフエッジループ」を始めるべき高度まで降下した時スロットルを開いた。プロペラ後流をラダーに受け「ミネルバ」はさらに機首を横に向ける。
横を向いている推力は「ミネルバ」のコースを風上方向にずらし、胴体の周りを流れる気流は「カナライザー」により整流され……主翼とは比べるべくも無いが……揚力を発生した。
「ミネルバ」は大きく横滑りをするような姿勢で「ナイフエッジループ」を始めた。
遠藤は下向きの「ナイフエッジループ」を始めた「ミネルバ」を見つめている。胴体の向きは飛行コースとズレているが、今はそれは減点対象では無い。重心の軌跡だけが問題なのだ。
「(……ループの始まりがボケたな……)」
遠藤の薬指がピクリとした。
「(……減点までは行かないか……)」
しかし指は折られなかった。
遠藤の目には最初に機首を風上に向けたときにループが始まったように見えたのだが、それは1点減点するには小さなミスに思えた。
「ミネルバ」はループの最下点を通過して上昇に移った。
「(……上手くラダーを調整した……しかしズレたか……)」
重心は綺麗に円を描いたのだが、最下点の位置がセンターからズレていて、薬指は折り曲げられる事になった。
「ナイフエッジループ」を終え「ミネルバ」は垂直上昇をする。高く上ったところでエンジンスロー。「くるり」とストールターンをした。
遠藤の左手は中指まで曲げられていた。
「(……高さが違った……)」
一回目と二回目のストールターンの高さが違ったのだ。
エンジン始動ピットの前に座り込んだ本田は、何時もと違って今行われている博美のフライトを見ていた。「アスリートBP」は準備を終わらせピットに置いている。
「(……う、上手い……あいつは初めてじゃないのか……)」
本田は、この下向きナイフエッジループは誰も経験がないと思ってアンノウンに入れたのだ。そして本田の思惑通り 、これまでの6人は、まともなループが描けずにいた。
「(……落ちる恐怖から、下向きでスロットルを開けるのは、誰でも躊躇するもんだろ……)」
本田自身も少しずつ……最初は高高度で練習して……低い高度にしたのだ。
それなのに博美は平然とスロットルを開けて見せた……本田にはそう見えた。
「(……これが「空」の妖精ってことか……あいつは空を理解してる……空を流れる風を使いこなせる……)」
「ミネルバ」は2番目の演技のため、風上サイドに向けて水平飛行をしていた。
「垂直上昇 1/2スナップ 正面抜け」
加藤が小さく博美に告げる。
「……ん……」
頷くと、博美は「ミネルバ」をサイドラインぎりぎりで垂直上昇させた。
ポーズを見せると左スティックを左下、右スティックを左に倒し(スロットルを開くため、右スティックは初めから上に上がっている)、直ぐにニュートラルに戻した。
「ミネルバ」は「くるっ」とポジティブスナップロールを打ち、見せていた面がそれまでの上面から裏面になった。
そのまま垂直上昇のポーズを見せると高い高度の水平飛行に移った。
「ローリングサークル 2ロール 外回り」
「……ん……」
加藤の言葉に頷き、博美は「ミネルバ」をそのまま水平飛行させる。
「……もうすぐ……もうすぐ……センター!」
加藤の合図と共に「ミネルバ」は左ロールと右旋回を始めた。
360度旋回する間に720度のロールである。分解すると……180度で360度……90度で180度……45度で90度……
博美は「ミネルバ」が旋回で45度向きを変えるごとに主翼が垂直から水平、水平から垂直、とロールするようにエルロンスティックを調節する。
主翼の角度がどんどん変わっていくのに合わせて、方向舵と昇降舵を加減して一定の半径で水平旋回させる。
360度旋回して元の場所に戻ったとき「ミネルバ」はぴったり2回転のロールをしていた。
「リバース インメルマン」
「……ん……」
「ミネルバ」は高い位置の水平飛行で風下に向けて飛んでいる。
博美はサイドラインとの距離を見てスロットルを絞り、エレベータースティックを押した。スティックを押すことによりエレベーターはダウン(下げ舵)になり「ミネルバ」は下向きに「インバーテッドループ」を描く。
アイドリングのエンジンはトルクを出していないので……飛行コースが捻れることが無く……この「ループ」は比較的簡単な部類になる。
最下点になった所で1/2ロール。
「ミネルバ」は低い高度の水平飛行に移った。
「ツーループス ウイズ 1ロール トップ ツー トップ」
次は博美の選んだ演技、2回宙返りの中で1回のローリングループをする物だ。エレベーターだけで出来るループの中にラダーとエレベーターの複合操作の必要なローリングループが入っていることで、同じ半径でループをすることすら困難な演技になっていた。
「……センター!」
加藤の合図で博美はエレベーターを引き「ミネルバ」が機首を上げるのに合わせてスロットルを開けていく。
さっきの「インバーテッドループ」とは違い、今度はエンジンはしっかりトルクを出している。博美はラダーを右に切って「ミネルバ」が捻れたループをしないように調整する。
頂点に達したとき、スロットルを閉じエルロンスティックを右に少し倒す。トルクが無くなったので、ラダーはニュートラルだ。
次の瞬間、ローリングループのためラダーを左に切る。
90度ループをして機首が真下を向いたときにはエレベーターはニュートラルになり、そこからはインバーテッドループと同じようにスティックを押す事になる。
最下点……「ミネルバ」はスタート時と同じ高度で背面飛行状態になっていた。
此処からはラダーを右に切るのだが、エンジンのトルクの影響やプロペラ後流を考えて、シビアな調整が必要だ。
左のスティックでそういった微妙な操作をしている間、エルロンを操作する右のスティックは一定のロール速度を保つため僅かに倒されたままだ。
頂点に帰ったとき「ミネルバ」はローリングループを始めた時とまったく同じ場所に居た。
後はスロットルを絞り、ループの残りを描けば良い。
「ミネルバ」はゆっくりと円を描き、スタートした場所に帰ってきた。
「ミネルバ」が最後の演技「2ターンスピン ディレクションズ」を終わり、水平飛行をしている。
「(……っと、終わったか……)」
気が付くと本田は博美の演技を最後まで見てしまっていた。最初は「フィギュアM」だけ見るつもりだったのに、つい博美の演技に引き込まれたのだ。
「おい……なにしてんだ。 すぐに出番になるぞ」
博美が着陸させれば、本田の出番だ。今すぐにもストップウォッチを持ってタイムキーパーが来るだろう。飛行機の準備は出来ているが、送信機やスターターは用意していない。
「あ、すみません遠藤さん」
本田は立ち上がると送信機ボックスを開けて送信機を取り出し、所定の場所に立てた。
「用意は良いですか?」
スターターを手元に用意しているとき、タイムキーパーの声が聞こえる。
「ちょっと待って……」
本田はそちらを見もせず、スピンナーを摘んで左右にプロペラを揺すった。さっきのような醜態はもう見せられない。エンジンに燃料が送り込まれるのを本田は確認したのだ。
「(……OKだな……)」
軽く周りを見渡し、本田はスターターを握った。
「OK」
「スタートします」
本田の合図でタイムキーパーはストップウォッチを押して離れていった。




