焦るな!
「スタートします」
ストップウォッチを押し、タイムキーパーが離れた。本田は点火装置のスイッチを入れスターターをスピンナーに押し付ける。
「ぷ・ぷ・ぷ・ぷ・・・・…………」
元気よくプロペラは回るが、普段数秒で始動するYU185cdiは、何故かいつまでも点火しない。
「……ぷ・ぷ・ぷ・ぷ・・・・…………」
エンジン始動に掛けられる時間は2分と決められている。段々と本田の顔が険しくなってきた。
「おい、一旦止めてチェックしよう」
見かねた遠藤が声を掛けた。
「……はい……おねがいします」
本田はスターターを離した。
機体ホルダーの男と遠藤が本田の「アスリートBP」を裏返す。
タイムキーパーが離れて、既に1分経っている。只ならぬ様子に、ギャラリーが「ざわざわ」し始めた。
本田が「アスリートBP」のアンダーカバーを外した。
「……っつ! これだ……」
なんと燃料コックが閉まっている。
燃料を入れるときや長く駐機しておく時に……エンジンに燃料が流れ込んで始動不良になるのを防ぐために……燃料コックを閉めておくのは常識だ。当然コックを開けなければエンジンは始動しない。事前点検を怠った本田のミスである。
本田は急いでコックを開けるとアンダーカバーを取り付けた。機体ホルダーの男が「アスリートBP」を表向けに始動ピットに置く。
残り時間は40秒しかない。
本田はスターターをスピンナーに押し付け、スイッチを握った。
「ぷ・ぷ・ぷ・ぷ・ぷ・ぷ・ぷ・ぷ・・・ブン・・・ぷ・ぷ・ぷ・ぷ・……」
「(……たのむ……掛かってくれ……)」
「ぷ・ぷ・ぷ・ぷ・ブン・ブーーーー」
やっとエンジンが掛かった。
「時間が無い! 直ぐに持って行け」
残りは20秒だ。遠藤がホルダーの男に怒鳴った。
始動時間内に飛行機を滑走路に置かないと、そのフライトは失格になる。エンジン調整は後に回して、取りあえず「アスリートBP」を滑走路に置かなければならない。
ホルダーは「アスリートBP」を持ち上げると滑走路に向かって走り、センターライン上に置いた。
「1分52秒です」
タイムキーパーがジャッジに報告した。
スロットルが全開にされた「アスリートBP」を押さえたまま、ホルダーの男が混合気を調整する。
この男も本田と同じクラブに所属しているフライヤーなのだ。エンジンの調整は当たり前に出来る。
「……ん!……」
ホルダーの男が片手を上げて合図するのに、本田は頷きで答えるとスロットルを絞った。ホルダーの男は「アスリートBP」から離れる。
「テイク オフ」
やや遅れたものの、無事「アスリートBP」は離陸していった。
「時間が足りない。 近くを飛ばせ」
本田の耳元で遠藤が囁いた。こんな事を審査員に聞かれたら、演技を始める前から印象が悪くなるに決まっている。「アスリートBP」は離陸後すぐにUターンして上昇姿勢でデッドパスをした。
風下サイドで小さなPターンをしてセンターに戻ってくる。
「慌てるな……ダブルインメルマン、ローリングループ」
やや焦りの見えるフライトに遠藤が警告を出す。
「……はい……」
返事をして、本田は大きく息を吸った。
水平飛行でセンターを過ぎると「アスリートBP」は機首を上げ、ローリングループを始めた。上を向くにつれスロットルは開かれ、機首の向きを保つために方向舵が使われ昇降舵はニュートラルになっていく。
「……ズレてる……」
機体が垂直になった時、ギャラリーに混じってフライトを見ていた博美が小さく零した。90度ループをしたところで90度のロールなので、この瞬間はナイフエッジループのはずだ。なのに「アスリートBP」は若干ロールが行き過ぎていた。
「(……っく……どうする……)」
本田も当然気が付いていた。この場合、どういう修正が最も減点が少なくなるか……
このまま続けるとロールが早く終わってしまい、如何にも間の抜けた演技となるだろう。確実に1点減点だ。
少しロール速度を遅くしてループとロールの終わるタイミングを合わせる……ロール速度が変わったとして減点されるかもしれない。
しかしこの程度の変化は1点減点するかどうか……審査員によっては全体を見て減点しない可能性がある。
「(……よし……)」
瞬時に判断すると、本田はエルロンスティックを倒している量を0.5ミリほど少なくした。「アスリートBP」は僅かにロール速度を落とす。
「(……ん? 修正した……)」
殆どのギャラリーは気付いてない中、博美はその変化を見抜いていた。
ループの頂点で主翼はぴったり水平になった。直ちに……水平飛行を見せずに……2/4ポイントロールをして「アスリートBP」は背面飛行に移行した。
背面飛行のままセンターを過ぎると、さっきと同じマニューバを上から演技する。
「(……今度は遅すぎ……)」
博美にはロールが遅れて見えた。
「(……くそ!……)」
それは当然、本田も気付いている。
「(……仕方が無い……)」
そして、修正は当然ロール速度を早くする事だ。さっきと今回……2度もやったとなれば……1点減点は免れないだろう。運が悪ければ……審査員によっては……2点減点かもしれない。
「焦るな! まだ挽回できる。 しっかり直線を出せ」
ディフェンディングチャンピオンだとはいえ、まだ二十歳そこそこと若い本田に遠藤が声をかけた。
「ストールターン 上り3/4ポイントロール 下り1 1/4スナップ」
水平飛行でセンターを通過したとき、遠藤が次の演技を言った。
「アスリートBP」はサイドライン近くまで飛ぶと機首を上げ垂直上昇する。垂直のポーズを見せた後、90度ごとに短時間のポーズをしながら270度ロール。裏側を見せながらさらに上昇。
最初のポーズと同じ長さのポーズの後、まるでピンで空中に留められたように横方向に180度向きを変えた。
少しの間垂直降下すると、右回転ポジティブスナップロールをする。
スナップロールの影響を方向舵と昇降舵で打ち消し「アスリートBP」は綺麗な垂直降下姿勢になった。
エレベーターダウンで水平飛行に移行し「アスリートBP」は背面飛行でセンターに向かってくる。
「ようし、落ち着いたな。 次はゴルフボール」
エンジン始動に手間取った影響は得意なストールターンのお陰で本田の心から消え、演技名を言う遠藤の声も落ち着いたものになった。
「……本田と妖精……凄い接戦だぜ……」
「……妖精が1632点で本田が1644点……続いて鈴村の1533点か……」
「……それ以下は随分と離れてるよな……この3人で決まりか?……」
「……いや、まだまだ演技は残ってるんだ。 アンノウンにはどんでん返しが有りうるぜ……」
・
・
・
本田が演技を終えて着陸した後、20分の休憩時間が取られ、得点の速報が張られた本部テント裏には多くのギャラリーが集まっていた。
「……フィギュアM ナイフエッジループ……ハーフスクエアループ……」
しかしその中に選手や助手は居らず、博美はチームヤスオカのタープの下で……他の選手は夫々のピットで……アンノウンの資料を見ながら手に持った模型を動かしていた。
「はぁ……博美ちゃん、覚えた?」
同じタープの下で静香もメモを読んでいる。
「ん~~ 大体は……」
持っていた模型をテーブルに置いて博美は静香を見た。
「……そんなに細部まで覚えなくていいんです。 名前で大まかな形は分かるし、その後に続く言葉が注意点や標準と違ってる事を表してるから。 そこの所を康煕君と打ち合わせておけばOKなんです」
「そうなのね。 だから直也さんが「此処は間違えずに読んでくれ」って言ってたわけね」
静香は再びメモに目を落とした。
井上の「ビーナス」が風下サイドからセンターに近づいてくる。アンノウン一回目、トップで演技するのはやはり井上だった。
「ビーナス」はセンターのかなり手前で機首を上げ、垂直上昇を始めた。ポーズを見せると270度ロールして裏を見せ、さらに上昇、エンジンをスローにしてストールターン(横に180度向きを変えるマニューバ)垂直に降りてくる。
半分ほど降下した所で「ビーナス」はナイフエッジループを始めた。
ラダーを右に切り……そのままでは向きを変える力が小さいので……スロットルを開けてプロペラ後流を当てる。
向きが変わるのが早いか高度が下がるのが早いか……飛行機の性能任せの時を過ぎ……無事に「ビーナス」は機首を上げ、下向きのナイフエッジループを描いた。
しかも井上は後半はラダーの操作量を加減して、ループがより丸くなる様にしてみせた。
後は上昇してストールターン。降下時に270度ロールをして水平飛行に移行すればいい。
「(……っつ……やっぱり出来ちまうか……)」
「(……流石は井上さん……ああすれば出来るんだ……ビーナスちゃんって軽いもんね……)」
見ていた本田は臍を噛み、博美は感心していた。
フィギュアMを終えた「ビーナス」は風上側サイドライン近くまで水平飛行をする。
サイドラインギリギリで垂直上昇すると1/2スナップロール。高い位置の水平飛行に移った。
「ローリングサークル 外回り2回転」
審査員の後ろで見ている博美に静香の声が小さく聞こえる。井上は頷いたようだが、声は聞こえない。
「ビーナス」はセンターまで来ると、右旋回と左ロールを始めた。1旋回で2ロールなので、割と早く姿勢が変わる。90度旋回するごとに180度のロールだ。
「リバース インメルマン」
1旋回して「ビーナス」がセンターに戻った時、再び静香の声がした。
最後の演技に向けて「ビーナス」が高い高度で近づいていた。
センターに近づくにつれスロットルが絞られ、速度が落ちる。高度を保つ為にだんだんと機首は上を向き、丁度センターで「ビーナス」は失速して機首を大きく下げた。
機首を下げながら右の主翼を落とし「ビーナス」はスピンに入る。1 1/2回転回ったところで井上はラダーとエルロンを左に切り替えた。
慣性力により1/2回転余分に回り「ビーナス」は丁度2回転したところで逆に回り始める。再び1 1/2回転回った時に、今度はラダーとエルロンをニュートラルにした。
回転が止まったところでエレベーターダウン、垂直降下姿勢にする。「ビーナス」は右2回転、左2回転のスピンを連続でした。
あとは着陸だけだ。
参考になる部分は終わった、と博美の周りからギャラリーが居なくなる。ふと視線を感じて博美は斜め後ろを見た。
そこには腕組みをした本田とメモを開いた遠藤が立っていた。




