アンノウンの方が簡単?
決勝が行われる日曜日の朝、博美たち「チームヤスオカ」は予選の時より早く飛行場に来た。
「……ここの景色も見慣れたねー……」
車から出た博美が大きく背伸びをする。水曜日から毎日来て、いつも同じ場所に車を止めているのだ。見慣れてくるのも当たり前だろう。
「それも今日で終わりだ。 悔いの無いフライトをして、気持ちよく帰ろうぜ」
加藤が車の屋根からタープを引き出してきた。今日も朝から良い天気で、空にはポツポツと小さな積雲が浮いている。
「そうだねー この空なら雨の心配も無いし……たいして風も強くならないだろうし……」
「……風な……強かったら有利なのにな」
リヤゲートからテーブルを出してきた森山も、博美の真似をして空を見上げた。
「そんなこと言ったって、仕方が無いですし……その時その時に全力を出すだけですよ」
飛行機を出します、と博美はリヤゲートから車に入っていった。
演技開始までまだ1時間ほどあり、太陽がフレームに掛かっているにも関わらず、ナリタ製の複葉機が離陸した。目慣らしを担当する予選9位の福井が「アンノウン」のテストを始めたのだ。
複葉機はセンターのはるか手前で機首を上げ、大きな宙返りを始めた。垂直になったところでポーズを見せ、3/4ロールして機体の裏側を審査員に見せる姿勢になる。
そのまま上昇してエンジンスロー……速度が落ちたところでラダーを切って横方向に180度向きを変え垂直に降下を始めた。
少し……やや早すぎるように思えるほど……降下したところでラダーを切ったのだろう、複葉機は機首を横に向けだした。
胴体の向きは段々と水平に近づくが、進行方向は殆ど変わらず飛行機は見る見るうちに高度を下げる。つまり、機軸と進行方向が大幅にズレていく。
45度ほどに胴体が向きを変えたとき、スロットルが開かれエンジン音が大きくなった。ラダーがプロペラ後流を受けることにより胴体はさらに向きを変え、終に水平を通り越して上を向くまでになった。それに連れて飛行コースは下向きから横向き、そして上を向いていく。
無事に複葉機は……お世辞にも綺麗とは言えないが……下向きの「ナイフエッジループ」を描いた。
「やっぱり難しそうだったねー 特に本田さんの選んだ「フィギュアM」……」
「そうだな。 しかし……本当に下向きのナイフエッジループって出来るんだな」
他の選手達に混ざってフライトを見ていた博美と加藤が「ひそひそ」と話をしていた。
「うーん……出来るだろうって思ってたけどね。 したこと無かったから、見てよかった。 あんなに高度が下がるんだ……(……スティックワークは分かった……ミネルバちゃん、付いてきてくれるかな……)」
言いながら、博美は頭の中で「ミネルバ」ならどうなるかシミュレートしている。
「……おい、もう一つのアンノウンも飛ばすみたいだぜ」
始動ピットからエンジン音が聞こえる……見ると、予選10位の選手がナリタ製の単葉機のエンジン調整をしていた。
「お前の選んだ「ローリングサークル」は上手く飛ばせるだろうか?」
二つ目の「アンノウン」には、博美の選んだ「ローリングサークル」が入っている。
「……うーん……飛んでほしいような、ほしくないような……」
どっちでもいいや、と博美は加藤に向かって微笑んだ。
エンジン始動ピットに「ビーナス」を置いて、井上がチェアーに座り目を閉じている。
「……トップバッターだなんて……緊張するわね」
チェアーの横に立った静香が博美に向かって零した。予選8位だった井上は、決勝ではフライト順が1番なのだ。
「で、でも……目慣らし飛行があるから……まあ、2番目って思って……」
今は福井が決勝用の「ノウンプログラム」であるスケジュールF-15を飛ばしている。
「そうは言ってもね……やっぱり決勝っていうとね……」
結局順番じゃないのよ、と静香は井上の肩に触れた。
風上側サイドをいっぱいに使ってストールターンをし、垂直降下する「ビーナス」が1 1/4回転のスナップロールをした。
「(……上手い。 ポジティブスナップで風の影響を小さくした……)」
風上での演技なので、風に押されて機体は常にセンターに寄ってこようとする。この演技は背面飛行で演技を終わるため、機体の裏側をセンターに向けて垂直降下をしなければならない。二つの理由により、ポジティブ(アップ側)のスナップロールの方がネガティブ(ダウン側)より有利なのだ。
「(……頑張れ、井上さん……)」
出番が7番目と遅い博美は、珍しくフライトを見学していた。
ストールターンの演技を背面飛行で終わった「ビーナス」は、そのままの姿勢でセンターに向かってくる。
「(……ゴルフボール……)」
博美が次の演技を頭の中で宣言すると同時に「ビーナス」は機首を上げた。
予選にも同じ名前の演技が有るが、決勝となると一筋縄ではいかない。予選では1/2ロールだった所が3/4ロールに変わるのだ。当然、上で行う宙返りが「ナイフエッジループ」になってしまう。しかも頂上で1回転のスナップロールをしなければならない。
とても同じ名前を付けられた演技と思えないほど難易度が上がっていた。
その後も難しい……「アンノウン」の方が簡単なのではないかと思えるほど……演技をこなし、井上の「ビーナス」は着陸した。
「お疲れ様でした。 練習の時と同じくらい飛んでましたね」
「ビーナス」の回収は加藤に任せ、井上が静香と一緒にピットに帰ってきたのを博美が迎えた。
「……そうか……取り敢えずは良かった」
井上が回収してきたエンジン始動用具をアルミボックスに入れた。
「……ふう……緊張感がこっちまで伝わってきて、息苦しかったわ。 それでなくても緊張してたのに」
無事演技が終わったことに笑顔を浮べながら、静香は運んできた送信機ボックスをピットに置いた。
井上から始まった「ノウンプログラム」も、そろそろ1時間が経とうとしている。博美はエンジン始動ピットの前で椅子に座って目を閉じていた。今は予選3位の鈴村が演技をしているが、博美は離陸を見ただけだった。
「……博美、そろそろだぜ……」
横に立ってフライトを見ていた加藤が声をかけた。今、最後から二つ目の演技……「ハンプティ バンプ」を終え、背面飛行でセンターに向かって飛んできている。
「ん……」
小さく答えると博美は目を開け立ち上がった。椅子を畳み、両手を頭の上に挙げ背伸びをして、そのまま右、左、と腰を捻り、空の様子を確認する。
「(……変わらず風が弱い。 ウインドシャーも無い……)」
目の前では鈴村が最後の演技「ストールターン」をしているが、博美の目はそれを捉えていない。
「(……演技に影響するようなサーマルも無いかー……絶好のフライト日和なんだろうな……)」
昨日に引き続き、気候は安定していた。
それは、本田が博美に対して有利だという事を物語っていた。
「ミネルバ」が離陸していく。
飛行場は静寂に包まれ、咳一つ聞こえない。
これから演技する予選2位の博美と1位の本田、予選の点数が示してるように二人の力は殆ど同じで、しかも他の選手達から抜きんでている。どちらかがチャンピオンになるのをギャラリーは分かっていた。
澄んだエンジン音を立て「ミネルバ」は風下に向かってデッドパスをする。誰よりも近くを飛んでいるにも関わらず、誰よりも静かな飛行だった。何故なら、博美は誰よりもエンジンの回転数を低く抑えているからだ。
風下サイドでPターン……一旦90度離れるように旋回した後、逆方向に270度旋回して同じライン上を戻ってくる……をして「ミネルバ」はセンターに向かってきた。
「ダブルインメルマン」
「……ん……」
耳元で囁く加藤に、博美は小さく頷いた。
「ミネルバ」はそのまま水平飛行を続け、センターを通り過ぎた所で機首を上げ宙返りを始め、それと同時にロールも始める。単純なループではない、ローリングループなのだ。
第一次世界大戦当時のエース「マックス・インメルマン中尉」の考案したオリジナルのインメルマンターンとは難易度は比較にならない。
ハーフループでハーフロール……「ミネルバ」はロールをしながらも綺麗な円を描く。頂点で水平飛行状態になるが、間髪を入れず2/4ポイントロールをして背面飛行に入った。
高い高度の背面飛行で風下側に飛んでセンターを通り過ぎ、対称な位置で下向きに再びローリングループをする。最下点で背面姿勢になり、ただちに2/4ポイントロールをして低い高度の水平飛行でセンターを通過した。
「ストールターン 3/4ポイントロール 1 1/4スナップ」
「……うん……」
次の演技を教える加藤に頷き、博美は「ミネルバ」を風上サイドまで水平飛行させる。
サイドラインに近づいた所で機首を上げ「ミネルバ」は垂直上昇。ポーズを見せると3/4ポイントロール……裏側を審査員に見せてポーズ……スロットルを絞ってストールターンをする。
重心位置を空中にピンで留められたように横方向に180度回ると「ミネルバ」は垂直降下して、半分ほど……垂直降下姿勢を保っている距離の真ん中……降下した所で1 1/4スナップロール。裏側をセンター方向に向けてさらに降下する。
エレベーターを押して(下げ舵にして)低い高度の背面飛行に移行した。
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「ストールターン 6/8ポイントロール 1 3/4スナップロール」
「……ん……」
2番目の演技と似た名前だが、これが最後の演技だ。
風下サイドで「ハンプティ バンプ」をした「ミネルバ」は背面飛行でセンターに向かってくる。最後の演技はセンターで行うのだ。
センター手前で「ミネルバ」は機首を上げ始め、センターで垂直上昇姿勢になる。ポーズを見せると6/8ポイントロール……45度ごとにポーズをしながら270度ロール……表を審査員に見せ、さらに上昇。博美はロール前のポーズと同じ距離を上昇するようにスロットルを加減する。
頂点でラダーを切ると、タイミングを合わせてエンジンスロー……「ミネルバ」はその場で「くるり」と回転した。
「……あーーー……」
ギャラリーから溜息が漏れる……
回転の勢いが良すぎたのだろう……下を向いて真っ直ぐになるべき所……「ミネルバ」は振り子のように左右に揺れてしまった。これは減点の対象であり、マイナス1点となる。
ラダーとスロットルのタイミングの加減で、こういう事は発生する。どちらかと言うと、あまりにタイミングがピッタリと揃っていて、完全に上昇が止まっていたときに起きやすいのだ。
「…… ……」
博美は無言で降下する機体を見ている。なってしまったものは仕方が無い。次のスナップロールに集中しなければならない。
「ミネルバ」が着陸した。胡座をかいて目を閉じていた本田が立ち上がる。
「……妖精は最後のストールターン、ミスしたぜ……」
そっと近寄り、遠藤が囁いた。それが聞こえたのかどうか……本田は無言でエンジンを始動する準備を始めた。




