プール
日本選手権三日目、今日で予選が終わり決勝に進む者が決まる。初日、二日目と違って、今日は風が弱く朝から澄み切った青空が広がっていた。
折りしも土曜日とあって、朝からギャラリーが多い。
「……ここまで、本田がトップじゃないんだ……」
「……だれ? この秋本博美って……」
「……第1ラウンド2位。 昨日が1位……」
「……秋本って……ほら、空の妖精だろ? 最近よく雑誌に出る……」
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昨日までの成績が張り出されている本部テントに何人も集まっている。
「……本田が第1ラウンド1位で昨日が3位……」
「……昨日の得点……トップが秋本の1000点で、2位が鈴村の877点……これブッチギリじゃないか……」
「……昨日って、風が強かっただろ……」
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「……凄かったらしいぞ、空の妖精。 なんか魔法を使って風を止めたらしい……」
「……まっさかー 異世界でもあるまいし……」
「……いや本当……「ミネルバⅡ」に風の影響がまったく無かったらしい……」
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「……そう言えば……空の妖精、可愛いらしいぜ……」
「……そうかー? お前は見てないんだろ。 確かに雑誌の写真じゃ可愛いけどな。 ラジコンしてる女子が可愛いはず無いだろう……写真は修整できるからな……」
「……一昨日来た同じクラブの奴が見たんだってよ。 ヤスオカ模型のブースで。 サイン貰ってやがってよ……がんばってください、なんて書いてもらって……今日は俺も貰いに行くつもりなんだ……」
「……俺も行くぜ。 行くときは誘えよ……」
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どうやら地元だけでなく東北からもギャラリーは来ているらしい。
エンジン始動ピットに置いた複葉機を前に、何時ものように本田は胡坐をかいて目を閉じている。目慣らし飛行が行われているにも関わらず、彼はそれを見ることはしない。風が弱く、まだ気温の上がりきっていない今は気流が安定している事は分かりきっている。
「(……ツイてる……こんな好条件はめったに無い……絶対、絶対に今日はトップを取る……)」
昨日の失敗は忘れ、本田は神経を研ぎ澄ませていた。
黒山のギャラリーが見守る中、本田の複葉機は最後の演技「アバランシュ」に向けて水平飛行でセンターに向かっていた。
今日のトップバッターでシード、さらに前年のチャンピオンだ。選手や助手は参考にしようと、見学に来たマニアに混ざって一心に機体を追っている。
ここまで16個の演技、全て素晴らしい出来だった。
対称で在るべき物は対称に。同じ長さで在るべき物は同じに。角度は正確。舵を探る事は無く。飛行速度は何処も同じだった。
今、センターで複葉機が機首を上げ、宙返りを始めた。丸く上昇するにつれ、スロットルが開かれエンジン音が大きくなる。やがて頂上で背面姿勢になった時、くるっ、とスナップロールを打つ。
「どんっ」とラダーを打って回転を止め、まるで何も無かったように宙返りの残りを飛び、水平飛行で抜けた。
「……ほぅーー!……」
ギャラリーの中から大きな溜息が聞こえる。知らずしらず、集中する本田のオーラに飲まれていたのだ。
そして、その中に博美も居た。
「……はぁ……凄かった……」
本田の演技が終わって、博美はヤスオカのブースに来ていた。今日は博美の出番は午後2時ごろなので、午前中は暇なのだ。
「……本田さんは上手ですよね。 どうやったらあんなにスパッと舵が決められるんだろう……」
「練習じゃないか? あいつぐらいになると殆ど毎日飛ばしてるだろう」
今日も新土居が店番をしている。
「そんなに言いますけど……本当ですか? 仕事があるんだから、毎日は練習できないでしょう」
博美に付いてきた加藤もブースの中に居た。
「ま、毎日は言い過ぎかもしれないが、練習量が凄いって事は確かだろう……以前、安岡さんに聞いたことがあるんだが……30年ほど前、安岡さんが世界で戦っていた頃……5回連続で世界チャンピオンになった人がいるんだそうだ。 その人はプロだったそうだよ。 つまりラジコン飛行機を飛ばす事で生活してたんだ。 その人は毎日練習してただろうね」
「今はそんなプロの人はいないんですか……」
「ここ、ヤスオカ模型ですよね」
いつの間にかカウンターの前に数人が集まっていて、加藤の言葉が切れた。
「……居た! 空の妖精……」
「っえ?」
博美が一斉に見つめられてたじろいだ。加藤が博美の前に立つ。
「……何でしょうか?」
「……い、いや……その……俺たちは妖精ちゃんのファンで……」
長身の加藤に見下ろされた男達は逃げ腰になった。
「……さ、サインを……」
「サイン? 僕の?」
博美が加藤の背中から顔を覗かせた。
「はい! おねがいします」
男達がそれぞれに色紙を差し出した。
「……い、いいですけど……僕のサインなんかで良いんですか?」
「はい!」
「……それじゃ……」
加藤の後ろから博美が出てくる。
「えっとー 何方から……」
「俺から。 あ、名前は新潟といいます」
一人が手を上げ、あとの二人はキチンと後ろに並んでいた。
「ひま~~ 退屈だよぉ……」
サイン会のようになったヤスオカのブースから帰ってきた博美が、ピットに張ったタープの下でテーブルに凭れていた。時刻はまだ10時半、博美の出番まで3時間以上ある。
「暑いなー ねえ静香さん、暑いですよねー」
「そうねー まだまだ残暑だものね」
テーブルの向こう側に座っている静香が、文庫本に落としていた目を上げた。
「一昨昨日のプールは良かったわねー」
冷たくって、気持ちよかったー と静香が目を細める。
「あ、それいいかも」
博美がテーブルから体を起こした。
「これからプールに行きません? どうせ暇なんだから」
「行きましょうか。 車はレガシィがあるし……」
井上を探して静香が立ち上がった。
静香の運転で一度ホテルに帰り、水着を持って二人はプールの駐車場に来た。
「うわー 込んでる」
夏休み最後の土曜日ということもあり、駐車場には車が溢れていた。
「……なかなか空いてる場所が無いわねー……」
置ける場所を探して静香はぐるぐる駐車場を回っている。
「あっ! 静香さん、あそこ……」
博美が少し離れた所を指差した。上手い具合に今出て行く車がある。
「博美ちゃん、ナイス」
静香はそちらに向けてハンドルを切った。
競泳用の水着に包まれた体が水を切る。
長い脚は滑らかに水を捕らえ、リズミカルにストロークが水を掻く。
「……おい、あれ見ろよ……」
「……凄え……上手いじゃないか……」
「……あ、くそ! クロールじゃ顔が見えない……」
「……スタイルいいな……きっと美人だぜ……」
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「博美ちゃん、すごい上手なんだ」
25メートルプールを一往復して立ち上がった博美の横に、静香が寄ってきた。
「えへへ……水泳は得意なんだ」
博美はゴーグルを外した。
「意外ねー この間はそんなに泳いでなかったでしょ」
一昨々日に来た時は、流れるプールで加藤に掴まってばかりいたのだ。
「だって……僕が本気を出したら康煕くんが拗ねるんだもん。 負けちゃうから……」
「えっ! 本当なの? あんなに大きいのに、加藤くんも意外と子供っぽいのねー」
でも、男ってそうよねー と静香が微笑んだ。
一頻り泳いだ後、博美と静香はプールサイドのベンチに座って、自販機で買ってきたジュースを飲んでいた。
「……ふう……そろそろ行かないといけないかなぁ……」
壁に掛かった時計を見て博美が呟く。
「博美ちゃんの出番って、2時頃でしょ。 もうちょっといいんじゃ無い?」
時計の針は、まだ12時を少々過ぎたところを指している。
「……でも……お腹すいてきちゃった……」
「なら、俺たちと何か食べに行こうぜ」
突然の声に顔を上げると、3人の男が博美たちを取り囲んでいた。
「えっ! な、なに?……」
「奢るからさ。 な、行こうぜ」
一人が博美の腕を取った。
「……こ、困ります。 僕、これから行かなきゃいけないから……」
「ひゅー 僕っ子じゃん。 可愛いいねー」
「スタイルも良いし、美人じゃん」
博美が手を振りほどこうとしても、男はさらに力を込めてくる。
「ちょっと! あんた達、止めなさいよ……」
「おっとー コッチのお姉さんも色っぽいねー 谷間があるじゃん」
博美を助けようと立ち上がった静香が肩を掴まれた。
「……ちょ、止めなさい……」
「いいじゃん。 こんなに見せびらかして」
男は静香の胸元を見つめている。
「……いや……」
静香は腕で胸を隠した。
「隠すなよー 見せてるんだろ?」
男が静香の腕を掴んで下げる。
「……いや! 止めて……」
「静香さん! い、いや! 離して! 」
腕を引かれ立ち上がらされた博美の腰に、もう一人の男が手を回す。
「きみ、スタイル良いねー モデルか何か……っててててーー!」
「……てめえら、なにやってんだ。 嫌がってんだろ……」
ドスの効いた声が聞こえたと共に、博美を掴んでいた手が離れた。
「……は、離せ! う、腕が折れる……」
「……えっ!……」
博美が気が付くと、声をかけてきた男が二人とも、ガタイのいい男に腕をきめられて床に伏せている。
「この野郎!」
残った一人が静香を離して殴りかかった。
「おっと……お前の相手は俺だ……」
「……うっわーーーー」
しかしその男は、横から出てきた手に投げられプールに飛んでいった。
「……ちっくしょう……覚えてやがれ……」
三下のセリフと共に男達が走っていった。
「ばーーっか! お前らなんか覚えてられるかよ。 俺たちはこれからアンノウンを覚えなきゃなんねえんだよ……」
「……え、えっと……アンノウン?……」
聞き覚えのある言葉に、博美が男の顔を見る。
「……本田さん……如何して此処に……」
後から現れ、ナンパ男を投げ飛ばしたのは飛行場に居たはずの本田だった。
「……空の妖精よー お前、なんでこんなとこに居るんだ? 今日はまだ飛ばしてないだろ。 遊んでていいのかよ」
「だってー 暑いんだから……プールで涼しくなろうかって……そう言う本田さんも来てるじゃない」
呆れたように言う本田に、博美が答える。
「俺は、もう飛ばしただろ。 今日は帰ってもいいぐらいだ。 アンノウンを決める会議があるから帰らないけどな」
「……博美ちゃん、そんなことより……どうもありがとうございました。 おかげで助かりました」
二人のやり取りに静香が割り込み、頭を下げた。
「あ、いや……なんか困ってるようだったから……」
年上の女性に頭を下げられ、本田が慌てる。
「……あの……井上さんの奥さんも怪我はなかったようで、よかったです」
「僕もお礼言うね。 本田さんとそこの方、ありがとうございました」
博美も本田と、その隣にいるガタイのいい男に頭を下げた。
「……いや……俺は本田に頼まれただけだから……まあ、二人とも怪我もなくてよかった」
さっきまでの威勢もどこへやら……少し赤くなった顔で男が答える。
「遠藤さん。 なに照れてるんだい。 あ、この人は俺の助手をしてくれてる遠藤さんだ。 柔道しててね、本職は警察官だ」
ま、不良警官だけどな、と言う本田が頭を小突かれた。
「……いてて……で、妖精さんよ、そろそろ帰らないといけないんじゃないか?」
「そうですね。 もうお昼だし……」
言いかけたとき「くぅ」と博美のお腹から小さく音がした。
「……ぁ……」
博美の頬が見る間に紅に染まる。
「……ひ、博美ちゃん。 行こうか……」
静香が博美の手を引いた。
『成田さん、今空の妖精が飛行場に帰りました。 言われて見に来て良かったですよ。 男に絡まれてまして……ええ、遠藤さんが簡単に追い払いました。 そうですよね……彼女、危機管理が出来てませんから……はい、車で駐車場を出るのを確認しました。 怪しい車はいなかったですね。 それじゃ、俺たちも帰ります』
「本田くん、成田さんは何て?」
「案の定、ナンパが居たか、って言ってました。 それじゃ、遠藤さん帰りましょう」




