この風は幻か!
変わらず吹く強風の中、ナリタ製の単葉機「アスリート」が離陸した。本田は風に合わせて単葉機で演技をする事を選んだのだ。博美の「ミネルバⅡ」よりボリュームのある胴体は単葉機であっても存在感があった。
本田は乱気流のある低空を……多くの選手は急上昇して避けるのに……揺れる機体を制御して通過した。離陸は点数にならないのだが、ここで審査員は選手の力量を見る。やはり滑らかな離陸上昇は審査員の印象が良く、演技全体の点数の底上げに繋がるのだ。
デッドパス後、風下側で「スプリットS」ターンをした「アスリート」はセンターに向かって水平飛行で近づいてくる。パッと見、滑らかな水平飛行の様だが「アスリート」は上下左右に揺れていた。
「ゴルフボール」
助手が本田の後ろで演技名を言う。「アスリート」はセンターの手前で機首を上げ、45度で上昇した。上昇のポーズを見せると1/2ロール。背面姿勢でさらに上昇のポーズ。昇降舵ダウンで逆宙返りを始める。
「(……くっ!……)」
風を受けて逆宙返りが捻れ始めたのに気がつき、本田は補助翼を僅かに左に切った。
エルロンを操作するスティックはスロットルスティックでもある。右のスティックを左右に動かすとエルロンが動き、上下でスロットルバルブが開閉される。
本田は左に倒したスティックをスロットルを開くため少しずつ上げていく。その間、エレベーターを操作する左のスティックを押す(上に上げる)量を加減して、逆宙返りが丸くなる様に操作している。
左のスティックの左右で操作する方向舵も遊んでいる訳はない。ジャイロ効果やプロペラ後流により左に向うとする機体を、右に切る事で真っ直ぐ飛ぶ様に修正している。
つまり本田はこの時、全てのスティックを動かした状態になっていた。
「(……凄い……修正が早いし、複合操作をしてても他の舵に影響しない……)」
今日は操縦ポイントの後ろでギャラリーに紛れて博美は見ていた。
「ストールターン 1 1/4ロールアップ 3/4ロールダウン」
演技は進み5番目になった。助手の言葉に返事もせず、本田は暴れる「アスリート」を抑えようとスティックを動かしている。
「……ナウ……」
聞こえなかったかと思い、もう一度助手が声をかけようとした時、本田は小さく呟いた。
その声と共に「アスリート」は機首を上げ、センターライン上を垂直に上昇しはじめた。風に対抗するため、胴体は垂直ではない。飛行機の飛ぶ軌跡が垂直だ。
ポーズを見せ、1 1/4ロール。井上とはロール方向が違っていて「アスリート」は機体の腹を審査員に見せる状態になった。
「アスリート」はそのまま垂直に登っていく。そこに「ウインドシャー」は無かった。
「(……良かった……運が良いぜ……)」
身構えていた本田は、ほっと息を吐いた。
最初のポーズと同じ距離上昇すると、本田はスロットルスティックを下げる。「アスリート」は速度を落とした。
と、その時
「……えっ!……く、くそ! こんな所に……」
突然「アスリート」が離れる様に風に流されはじめた。「ウインドシャー」がこの高さにあったのだ。本田は昇降舵をダウンに入れ、風に対抗しようとした。
次の瞬間
「……アアーーーー……」
ギャラリーからも悲鳴の様な声が聞こえた。なんと「アスリート」はストールターンをせず、失速して機首を下げたのだ。エレベーターに気を取られ、ラダーが遅れた本田のミスであった。
この演技、0点。
意気消沈して垂直降下をした「アスリート」は途中で1/4ロールをして水平飛行に移行した。
「(……ウインドシャーにサーマルが引っかかってた……)」
騒つくギャラリーの中で、博美は冷静に本田のフライトを分析していた。
「(……丁度そこに突っ込むなんて……)」
気を取り直したのか、綺麗に次の演技「ハーフ リバース キューバンエイト」の45度上昇をする「アスリート」を博美は見送った。
午後3時を回る頃、昨日は最後の演技者だった鈴村が演技をしていた。一人ひとりの演技時間が短くなっているため、開始時間の遅れは殆ど取り戻していた。
「……上手い……」
「……おい、風が……乱気流が少なくなってないか……」
「……これはいい点が出るぞ……」
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ギャラリーが騒めく。鈴村の飛ばすナリタ製のスタント機は……確かに風に吹かれてはいるが……突然姿勢が乱れる事がないのだ。
「……しかし……本田の点を見ろよ。 あの失敗があっても1160点だぜ……」
「……ああ、他の奴……シード選手だって此処まで1140点が最高だってんだから……」
「……本当、化け物だな……」
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「……博美ちゃん、そうなのかな?」
今はピットの椅子に座って紅茶……岡山が淹れた……を呑んでいる博美に井上が聞いた。
「……ん? 何の事ですか」
博美がちょこっと首を傾げる。
「いや……さっきから聞こえる、乱気流の事……」
「うん、そうですね。 ウインドシャーのある高度が高くなって演技に影響しなくなってきました。 よっぽど高く飛ばさなければ当たらないですね」
「そうかよ……何だか後ろの方が有利になってきてるな」
博美の答えに、井上は顔を顰めた。
「でも……風の強さ自体は変わってないですから。 それにサーマルは相変わらず発生してますし……」
博美は紅茶の入ったカップを見つめた。
「……舐めちゃいけないですね……」
「……鈴村は1210点か……ついに本田を上回ってきたな……」
「……そうだな……あの後はまた風が悪くなってきたもんな……」
「……今日は鈴村がトップか?……」
「……まてまて、妖精ちゃんがいるぜ……」
「……でもよう……この風だぜ、いくら妖精でもなー……」
残る選手は今演技をしている中部ブロックの三輪を含めて4人だ。シード選手が終わったことで、ギャラリーの多くは本部テントの掲示を見ていた。
「……風が悪くなったな……」
博美の座っているピットに置いたチェアーの横に立って、加藤が呟いた。
「……大丈夫か?……」
「……うん? そんなに悪くないよ。 少し風向きが変わったから、滑走路上の風が乱れてるだけだよ」
この飛行場は林に囲まれている。そのため横風の成分が増えると、梢を超えてくる風が滑走路上で渦を巻くのだ。
「離陸の時に気をつければいいよ」
博美は答えると、目を閉じた。
「ミネルバⅡ」は準備を済ませて整備スタンドに乗っていた。
「ミネルバⅡ」をエンジン始動ピットに置いて、博美は送信機やスターターを定位置に並べていた。今は関東の選手が演技しているが、それももうすぐ終わる。
博美がプラグ点火用バッテリーを「ミネルバⅡ」の横に置いた。
「……おい……あれって始動バッテリーだよな……」
「……そう見えるな……」
「……CGIエンジンじゃないんか?……」
「……もしかしてグロー?……」
「……まさかなー トップ選手がグロー?……」
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昨日と同じ様に周りに集まったギャラリーが口々に話し始める。そのギャラリーをかき分けるようにストップウォッチを持ったタイムキーパーが現れた。
「秋本さん、用意はいいですか?」
「はい」
博美が送信機と受信機のスイッチを入れ、頷いた。
「スタートします」
タイムキーパーが離れ、博美は点火用バッテリーのスイッチを入れると、スターターをスピンナーに押し付けた。
「テイクオフ」
キャップを被り、サングラスをした博美が小さくコールすると「ミネルバⅡ」は滑走路を走り始めた。
センターを通過すると、機首をあげ上昇を始める。風は変わらず吹いているはずなのに「ミネルバⅡ」は小揺るぎもせず滑らかに高度を上げる。その揺れずに上昇する事に違和感を持ったギャラリーの誰もが本部テントに掲げてある吹流しを見た。
それは真横になって尻尾を振っている。風は変わってなかった。
違和感を残したままギャラリーがフライトエリアを見ると、風上でターンしてきた「ミネルバⅡ」がゆっくりとデッドパスをしている。
「……おい、あれって風より遅く飛んでないか?……」
ギャラリーの誰かが違和感を口に出した。
「……バカな……風が弱くなったんじゃ……って一緒だ……」
何度見直しても、吹流しは変わらず尻尾を振っている。
「……どうなってるんだ……あの機体の周りは風が吹いてないんか?……」
「……そんなはずは無いだろう! 魔法じゃないか? 妖精なんだし……」
騒めきの中「ミネルバⅡ 」は風下でターンをしてセンターに帰ってきた。
最初の演技は「ゴルフボール」だ。
「ミネルバⅡ」はセンターの手前で機首をあげ45度で上昇し、ポーズを見せた後1/2ロールをした。ロールのセンターがぴったり演技のセンターになった。背面姿勢でさっきと同じ長さのポーズを見せると大きく逆宙返りをする。270度逆宙返りをすると、45度で降下する姿勢になった。再び同じ長さのポーズを取って1/2ロール。このロールもセンターに重なった。もう一度ポーズを見せると機首を起こし、進入時と同じ高度で水平飛行に移った。
「……おい、風は? 風はどうなってるんだ! なんで風が吹いてないんだ!……」
ギャラリーの一人が言う。いや、彼も分かってはいるのだ。風は変わらず吹いている。
それなのに「ミネルバⅡ」は無風だった昨日と同じ軌跡を描いている。誰もが、あの本田でさえも揺れていた水平飛行で翼はピシッと水平を保っている。風に押されて変形するはずの宙返りがコンパスで描いたように丸い。
「……魔法だ……人間業じゃ無い……だから、なのか……空の妖精ってのは……」
「(……風に対しての制御が早い……早すぎる……なぜ? 何故あんなに早く対処出来る?……)」
ここにも博美のフライトを見て驚愕している男がいる。
「(……乱れた姿勢を見せない……この風の中、減点する場所が無いって……)」
そう、この選手権で初めて博美の演技を見たジャッジだ。
普通は機体に影響が現れてから修正が始まる。ジャッジは自身の持つ経験で、それがされるのを見ているのだ。
そしてその修正が不足したり多すぎたり、または選手が気が付かずに修正しないのを見て減点をする。
なのに「ミネルバⅡ」は修正をしていない様に見えるのに、しっかり風の影響を殺していた。
「(……この風は……この風は幻か!……実際は風なんか吹いてないんじゃないのか……)」
彼の手は、風に飛ばされないように、しっかりジャッジペーパーを押さえていた。




